29 おでかけ
私はぼーっと、唐突に左手の薬指につけられた綺麗な指輪を眺めていた。
きっと、顔はにやけているに違いない。
思いがけないサプライズは、私をハッピーな気分にしてくれた。
でも、私の指のサイズなんて、いつ、どうやって知ったのかしら。
……ああ、そう言えば去年、美術の時間にアクセサリーを作ったっけ……
『折角の機会だから皆さん、自分の薬指のサイズも測って見ましょうか?
今度恋人に指輪を強請るときに役立つかも知れませんよ』
美術の先生が思いついたように、笑いながら言ったっけ。
そうして、教室を歩きながら、まるで偶然のように私が指のサイズを測っているときにそこにいて――。
『花宮さんって指が細いなーって思ってたけど、6号サイズなのかー。
羨ましいわ、先生なんて指、太くって』
『でも、指が細くても指輪を強請る相手なんていませんけど』
よくある、なにげない会話だった。
気にも留めてなかった。
――でも。
もしかして、アレは、響哉さんの差し金――?
でも、関係ないのかもしれない。
一週間で指輪のサイズを直したのかもしれないし――。
私はそっと指輪を外し、しげしげと眺めてしまう。
本当に響哉さんと一緒になるならきっと、問題は山積みなんだろうけれど。
そんな現実的なこと、全てふっとんでしまうくらいに、ただ幸せで――。
珍しく、私のケータイ電話が鳴って、現実に引き戻された。
知らない番号。
「……もしもし」
「マーサ。良い子で留守番してる?」
電話の向こうは響哉さんだった。
そういえば、新しくした響哉さんの電話番号、登録してなかったわ。
電話の使用なんて必要ないくらい、いつも、傍に居るのが当たり前になっていたことに、改めで気づく。
「してる、よ」
そこまで心配しなくても、と、呆れそうになる。
響哉さんはくすりと笑って言葉を続けた。
「冷蔵庫の中にランチ作ってあるから、食べてね。
夕食までには頑張って全て終わらせて帰るから」
「……社長、それは無謀です」
隣で、春花さんが困った声をあげていた。
「なんとかしろよ。
お前の仕事だろう?」
「スケジュールを詰め込みすぎるからいけないんじゃないですかっ。
いつもの社長らしくない――」
「俺がフィアンセと電話しているときくらい、黙っててくれない?」
いつもの二人と変わらないテンポの良い会話に、つい聞き入っている私に、響哉さんが改めて声をかけた。
「とにかく、なんとしてでも帰るから。
外に出るなとは言わないけれど、くれぐれも気をつけて」
響哉さんは念を押すと、私の返事を確認してから、電話を切った。
冷蔵庫には、サラダがあった。ココアのついでに作ってくれたに違いない。
ってことは、最初から出かける予定だったのかしら。
ラップの上にのせてあったメモに従って、スープを温め、パンと一緒に食べた。
デザートのヨーグルトまで平らげて、お腹いっぱい。
時間を持て余した私は、白い紙に、さっき見たワンシーンを書き始めた。
少し前まで、私の記憶に全くなかったママの笑顔。
小さな私にせがまれて、抱き上げてくれる今よりずっと若い響哉さん。
そして、椅子に座って苦笑しているパパ。
――でも、駄目。
パパの顔が書けないわ。
上手く、思い出せない。
パパとママの写真を見るたびに、それが誰かということも認識できぬままに私が号泣するので、家にもパパとママの遺影は飾ってなかった。
啓二おじさんに頼んで、見せてもらおうかな――。
私はそんなことを考える。
ふと、顔をあげて時計を見たらもう、時間は三時を過ぎていた。
「よっぽど集中してたのね」
思わず、ひとりごちて苦笑する。
それから、久々に実家に電話をかけた。
出てきたのは弟のコウスケで、
「姉貴、もう、ここに戻ってこないつもりかと思ってた」
と、開口一番、照れを隠すためか、やたらとぶっきらぼうに聞いてきた。
「な、何言ってんのよ」
私は慌てて軽口を返す。
コウスケは、何を何処まで知っているのか、――よく分からないので、曖昧な言葉しか言えなかったけれど。
「だったらいいんだけどさ。なんか、父さんと母さんも口には出さなくても心配してるんだぜ――。
大丈夫なのかよ、スドウってヤツ。
ま、とにかく、たまにはこっちにも顔出してよね。
で、何?」
「お父さん、居る?」
「ああ。ちょっと待って」
「真朝、どうした?
元気でやってるか?」
心配する声は、父親のもの。
「大丈夫。私はいたって元気よ。
あのね――」
――パパの写真、ある?
そんな簡単な一言が言えなくて口篭ってしまう。
今までは、本当の両親の記憶がほとんどかすみのようなものだったから、何も思わなかったけれど――。
育ててくれたお父さんを目の前に「パパの写真」なんて、言ってもいいものかどうか。
判断がつかなくて、ぎゅっと拳を握る。
「真朝、時間があるなら、一度こっちに帰ってくればいい。
須藤さん、忙しいんだろう?」
お父さんが助け舟を出してくれた。
でなければ私は、ケータイ電話を握り締めたまま、石になってしまうところだったわ。
「うん……。
じゃあ、今からそっちに向かうね」
じゃあ後で、と、電話を切る。
実家に戻るなら、タクシーですぐだし、きっと安全だわ。
準備をして、マンションの部屋を出る。
さすがの響哉さんも今日ばかりはちゃんと、玄関に鍵を置いておいてくれたので、安心だわ。
鍵をかけたついでに、しげしげとドアを見つめる。
ここに、響哉さんはどんな仕掛けをしてたのかしら。
――もちろん、素人の私がどんなに瞳を凝らして見ても、何も分かるはずがない。
「What are you doing, now?」(何やってんの?)
背中から、不意に声をかけられてどきりとした。
「Nothing」(何も)
無理があると思いながらも、そう言って振り向くと――。
なんとそこには、サングラスをかけたカレンさんが、ペギーの手を引いて立っていたのだ。
『ハ~イ、キョーヤは?』
この前のことなんて何もなかったような笑顔。
これぞ女優魂かしら、なんて思いながらも、私は口を開く。
『外出中です』
やれやれ、と、カレンさんはオーバーに肩を竦めて見せる。
それにしても、本当に綺麗で、そのオーラに圧倒されちゃうわ。
『折角、私自ら帰国の挨拶に伺ってあげたのに。
留守だなんて、失礼な男ね』
……私、もしかしたら英語の解釈に間違いでもあるのかも。
そう思ってしまうくらい、にこやかな笑顔で、高圧的な台詞を口にしているカレンさん。
『いいわ、別に。
また、あちらで逢いましょうって伝えておいてね。
ゲンチヅマサン』
……は?
最後の「耳慣れない日本語」に思わずびっくりして、思考が止まる。
『これ、キョーヤに渡して』
動揺している私に、相も変わらぬ美しい笑顔でそういうと、カレンさんは私に手紙を押し付けて、ペギーの手を握ったまま去って行った。
誰が、彼女に変な日本語を教えたのかしら――。
そして、彼女はそれを信じ込むことで、自分のプライドを保とうとしている――、のよね?
きっと。
まさか、カレンさんの言葉の方が真実で私は響哉さんに弄ばれてるってことは……ないわよね?
ないに決まってる、と。
左手薬指の指輪に目を落として自分に言い聞かせる。
押し付けられた手紙を持っていっても仕方が無いので、諦めて一度玄関を開け、下駄箱の上にそれを置く。
改めて鍵を閉めようとしたその瞬間。
後ろからにゅっと手が伸びてきて、目隠しをされた。
きゃぁ、と、叫ぼうと息を吸おうとした矢先。
そこに、何かスプレーのようなものを散布されるような音を耳にした。
そうして。
世界は一瞬のうちに、暗転していった――。
+++++
『あら、もうこんな時間じゃない。
真朝ちゃん、お昼寝の時間よ』
ママの声に、小さな私はいやぁと首を横に振る。
『今寝ておかないと夕方眠くなって、夜、眠れなくなるでしょう?』
『やぁっ』
ママの言葉には耳を貸さず、一方的にそう言って、一緒にテディベアで遊んでくれているキョー兄ちゃんに抱きついた。
『だって、私が寝ている間に、帰っちゃうでしょう?』
『また、遊びに来るよ』
キョー兄ちゃんはにこりと笑って造作もなくそう言った。
『いやっ』
『こらこら、真朝ちゃん。
そんなに抱きついたら、いくらなんでも熱くて、響哉も困るよ』
パパが苦笑しながらそう言った。
鼻をくすぐる甘い香りは、さっき食べたスイカの匂い。
遠くからは風鈴の音が聞こえてくる。
『いやぁっ』
半べその私を見て、キョー兄ちゃんが笑う。
『じゃあ、一緒に寝てあげようか?』
『ちょっと、須藤くん?』
ママが驚いた声を出した。
『いいじゃない、別に。
添い寝くらい。その方が朝香ちゃんも困らないんじゃないの?』
『でも……』
大人の話なんて、ちっとも聞いてはいなかった。
私に分かったのは、今からキョー兄ちゃんと一緒に寝れるっていうことだけ。
『一緒におひるねするのっ』
キョー兄ちゃんの手を引っ張って、寝室へと連れて行こうとする私に、パパが言った。
『リビングのラグの上に、タオルケット引いてもらったら?』
『……仕方ないわね。
本当、これ以上真朝を甘やかさないでね』
ママのため息混じりの声に、キョー兄ちゃんは笑って『平気だって』なんて言っている。
私はひどくはしゃいでいて、隣に横になるキョー兄ちゃんの顔ばかり見ていた。
『ほら、目を閉じないと眠れないよ?』
キョー兄ちゃんはくすくす笑って、私の目を大きな手のひらで覆った。
『やぁんっ』
手を振り払おうとした私に、しー、と言う。
『どっちが早く寝るか競争しようか?
マーサちゃんが勝ったら、ご褒美にキスしてあげる』
『じゃあ、勝つからチューしてっ』
『それは、本当に勝ってからじゃないと駄目。
始めるよ?
よーい、どんっ』
目を手のひらで塞がれた上に、そんなことを言われた私は、狸寝入りをするほか無い。
そうして。
目を閉じて寝たフリを始めた私は、すぐに、本当にすぐに、寝付いてしまったのだ。
そう、キョー兄ちゃんの目論見どおりに――。
+++++
――キョー兄ちゃん……。
勝ったよ!
うきうきした気持ちで、目を覚ました。
けれども。
……違う。
ここは、幸せな夢の続きの世界なんかじゃない。
一気に現実に引き戻されて、背中がぞくぞくした。
後頭部には、鈍い痛みが走っている。
確認しようとして、世界が真っ暗なことに気づく。
目隠しされてる……?
そして、それを取ろうと手を動かそうとしてはじめて、がしゃりという音を耳にした。
……手錠?
パニックになってもがけばもがくほど、がしゃがしゃという耳障りな音が響く。
……響哉さんっ、助けてっ……
傍に誰が居るのか、居ないのかも分からなくて、彼の名前さえ口に出せない。
私は泣かないでいるのが、精一杯だった。
「×◇○※△●!」
がしゃがしゃと、力の限り手首を動かしていると、不意に、理解できない言語が耳に飛び込んできた。
「What?」
私は、思わず英語で問い返す。
「騒ぐと、手首が擦り切れる」
男性のものだと思われる低目の声が、乱暴にそう言った。
「手首ぐらい擦り切れたって構わないわよっ。
アンタ、誰よ。
いきなり人のこと攫って、どうするつもり?
何が目的なの?」
私は考える前に、ヒステリックにそう、叫んでいた。
「目的?
知らない」
ぶっきらぼうな単語が返ってくるだけだ。
彼は、誰かの命令を受けて動いているだけの駒ってこと――?
犯人は、スドキョーの熱烈なファン?
それとも、須藤家の次期当主の妻の座を狙っている人の差し金?
いろんなことが一気に頭の中を駆け巡って、さらに頭痛が酷くなる。
その上、手首からも痛みを感じ始めていた。
手錠に擦れてしまったのかもしれない。
――どうしたらいいの。
無駄に体力を使っても意味が無いどころか、傷を作るだけだとことに気づいた私は、ようやく動きを止めた。
荒くなっていた呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。
どうしたらいいの――。
響哉さんっ。
頭の中に浮かんでくるのは、響哉さんの甘い笑顔ばかり。
でも――。
ここから、抜け出さなければもう二度と彼に逢えなくなっちゃう。
落ち着かなきゃ……。
目が塞がれていて、手も動かせない。
そんな私に出来ることって、何かしら――。
私は幾度も深呼吸を繰り返す。
考えをまとめるために。
私は、記憶を辿る。
後頭部に走る痛みを無視して。
うちのマンションを出ようとしたときに、後ろから襲われた――。
あのマンションだって、セキュリティはしっかりしているはず。
だったら、もしかして、ヘンリーさんのような『須藤家の関係者』?
もちろん、どうして須藤家の人がこんな乱暴なことをするのかなんて全く分からない。
それとも、その直前に玄関で出会ったカレンさん?
帰ると見せかけて私を攫った――?
「ゲンチヅマ」と言ったのさえも、私を油断させる罠だったってことかしら?
あるいは――
昨日、私たちを追跡していた謎の人物の仕業?
でも、彼らのことは罠にかけたってヘンリーさんは言っていたけれど。
どれもこれも、正しそうで違うような――。
つまり、推測と想像の域(いき)を出ないということ。
もっと現実的なことを考えたほうが良いのかも。
私はゆっくりと鼻で呼吸する。
とりたてて、特別な匂いは感じない。
強いて言えば、清潔な香り。
耳に入るのは、時計の秒針音くらい。
そして、肌にあたるシーツはのりがきいてパリッとしていた。
「ようやく静かになったか」
男の声に、びくりと、身体が動く。
じゃらりという、耳障りな音が冷たく響いた。
「騒げば殺す」
耳元で、ぞっとするような言葉を囁いてくる。
怯えた私は頷くことさえできなかった。
そうして、誰かの手が、頭の後ろにかかる。
本当に怖いときには悲鳴も出ないんだと、初めて知った。
「Te voy a matar.」
耳に欺くように囁かれた言葉は、日本語でもなければ、英語でもなかった。
それでも。
ゾクリとするような、悪意を感じて身震いする。
わざと声音を変えているとしか思えないような、低く掠れた声。
彼の日本語がどこか不自然に聞こえるのは、母国語が日本語じゃないから……?
途端、私の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
――まさか――
恐怖に怯える私から、ゆっくりと、目隠しが外されていく。
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