28 Meeting-1-
うちに入ってきた春花さんは、本当に疲れきった顔をしていた。
「……私、何か飲み物でも入れて来ましょうか?」
二人のミーティングの邪魔をしたくなくてそう言うと、響哉さんがふわりと私の頭を撫でた。
「飲み物だけじゃ足りないよ、きっと。
俺が準備してくる」
「そんな、でしたら私が自分で――」
春花さんが口を開くと、響哉さんは苦笑を浮かべた。
「少なくとも俺の在宅時は、うちのキッチンで芸術品を創作させる気なんてない」
……響哉さん、知ってたのね。春花さんが料理音痴ってこと……それなのに春花さんに私の夕食を作るように言ったなんて、酷くない?
とはいえ、今さらそれについて協議しても仕方が無い。
残された私と春花さんは、黙ってテーブルにつく他なかった。
「真朝ちゃんって、本当に社長が居ないと駄目なのね」
疲れた顔に、子供を見守る母親のような笑顔を浮かべながら春花さんが聞いてくる。
「……え?」
「でも、少しは彼の仕事について理解してあげてね。
でないと、芸能界から引退しないといけなくなるわ。もっとも、それこそが真朝ちゃんの望みなのかもしれないけれど……」
春花さんは、ほとんど独り言のようにそう呟いている。
どんどんエスカレートしていきそうなので、私は途中で話を遮った。
「えっと、違います。
勘違いなんです。
響哉さんが、私のせいだって言ったんだと思うんですけど、私は今朝、響哉さんが朝早く出かけないといけないことさえ知らなかったんです。
それに――。イベントで握手することだって、テレビで知ったし。
それを中止して欲しいなんて、思ってないし、言ってません」
「あら、嫌だわ。
私、すっかり社長の嘘に騙されていたってことかしら」
春花さんが苦笑した。
そうして、バッグからA4の用紙を何枚か取り出して渡してくれた。
「真朝ちゃんの方がよっぽどしっかりしてるわね。
これが社長の直近のスケジュール。
もちろん、トップシークレットだから、よろしくね」
「ありがとうございます」
私はそれを受け取った。
本当、過密スケジュールだわ――。
「お待たせ」
甘い香り漂うココアとパンケーキを持ってきた響哉さんが、それを並べながらそう言った。
そうして、私にはホットミルクを渡してくれた。
「マーサは、これを飲んだらお風呂に入ってお休み」
「えーっ。
だって……」
抗議の声をあげようとした私に、しっと、人差し指でジェスチャーを送ると、響哉さんは椅子に座って長い脚を持て余すように組み、珈琲を口にした。
「わざわざここに押しかけてきた理由から説明してくれる?」
既にパンケーキにぱくついていた春花さんは、ふと我に返ったかのように顔をあげると、それをココアで押し流してから、口を開いた。
「だから、さっき電話でも言ったじゃないですか。
それでなくてもDVDセットの販売が遅くなったのに、ゴールデンウィークの握手券が入っているってことを公開したから、もう、予約が殺到してさばけなくなってるんですよっ」
それから、ふと思い出したかのように言葉を続ける。
「そういえばさっき、社長はどうして私に電話をかけてきたんですか?」
響哉さんは、その質問を黙殺すると唇を開いた。
「販売に関することは、メーカーと映画会社に任せればいい。
うちの管轄外だ」
「分かってるんですけど、問い合わせの電話がうちの事務所にも殺到してるんです。
畑田が一人で捌けないって泣きついてきたから――。
なんとか出来ないかと思って、四苦八苦してたところに社長からの電話があったんで、つい――」
「とにかく、それはメーカーに泣きつけ。
電話も全て、メーカーに回せ。なんだったら、事務所の電話を留守電に切り替えておけばすむ話だろう。
それとも、俺が事務員を調達してこようか?」
最後の一言は、きっと皮肉。
キっと、春花さんの瞳が鋭くなる。
「結構です。
社長に聞かせる話ではありませんでした。
今後のスケジュールをご確認下さい」
春花さんは紙を取り出すと、響哉さんがそれに目を通す間に、再びパンケーキを口にする。
それに目を通す前に、響哉さんが私を見た。
「ほら、マーサ。
もう、カップは空じゃない。いくら明日が休みでも、これ以上の夜更かしは身体に悪い」
そこまで言うと、ふっといたずらを思いついた子供の瞳になる。
「ああ、俺がお風呂に入れてあげなきゃ駄目なんだったっけ?」
「……な、に、言ってんの?」
私が焦って立ち上がるのと、
「そうなんですか?」
と、春花さんが好奇心に満ちた瞳を見せて口を開くのはほぼ同時だった。
響哉さんは私の手を掴んでから、春花さんを見る。
「ああ。
普段はとても良い子でお風呂に入るのに、俺が遊びに行くと俺から引き離されるのが淋しくて仕方が無いんだろうね。
いつも泣いてぐずるんだ」
――えーっと。
それは私が物心つく前のお話、ですよね?
恥ずかしくて、手を振り払おうとすると、響哉さんは立ち上がって私を抱き寄せる。
「いいからっ。
赤ちゃんの時のことは覚えてないけど、今は自分でお風呂に入れるもんっ」
「おや、そうだった?」
響哉さんはくすくす笑いながら、私の背中に手をまわしたままリビングを出る。
「だったらどうして、いつまでもリビングに居るのかな?」
……そ、れは。
言い訳の言葉も見つからず、唇を噛む私の顎を持ち上げると、触れるだけのキスを落とす。
キスの後、瞳を開ければ、さっきまでは子供に『早く寝なさい』と諭す父親を思わせる雰囲気から打って変わって、艶っぽい笑みを浮かべていた。
ドキリとする私の耳元に、形の良い唇を寄せる。
「それとも、最後まで出来なくて欲求不満?」
「……誰がっ」
私は真っ赤になって思わず響哉さんの腕を振り払う。
「じゃあ、独りで寝れるね」
良い子、と。
響哉さんの手が私の頭を撫でる。
「今日は色々あったんだから、もう、お休み――。って言っても、既に日付は変わってるけど」
「でもっ」
私よりも、響哉さんの方がずっと忙しかったのに――。
「響哉さんだって、寝なきゃ」
私が言うと、再び色っぽく目を細めてみせる。
「そんなに情熱的に誘われたら、お応えしないわけにはいかないかな――」
意味ありげに頬に指を這わせてくるから、茹蛸(ゆでだこ)みたいに頬を紅くした私は、またそれをはらって、一歩退(しりぞ)かなきゃいけなくなる。
――ズルイ。
響哉さんはどうすれば私がどう動くか分かっていて、ワザとそんな風に言ってくるんだわ。
「私は別に、大丈夫だから、リビングに戻ったら?」
自分の口から出た声は、明らかに拗ねている子供のものだった。
響哉さんは困った風に眉根を寄せる。
――どうせ、私なんてどんなに頑張っても響哉さんには敵わないもの。
「ミーティング、頑張って」
私は彼の困った顔に気持ちを奪われないうちにと、くるりと踵を返した。
「……困ったな」
響哉さんは小さく呟いた。
そして――
歩き出した私を後ろからふわりと抱きしめた。
「俺だって、全部投げ出してマーサと一緒に過ごしたいよ――」
切なさの篭った声音に、心臓が鷲掴みにされる。
「マーサの体調なんて気遣わず、朝までずっと――したいってワガママ言って許されるなら――。
そうしたい」
……どうしよう。
そんな、急に本音100%を聞かされても、どうしたら良いのか分からない。
どうやら、響哉さんから本音を引き出そうとしたら、「大人」な部分が根こそぎ消え去るみたい。
後ろから伸ばされた腕にそっと手をかける。
「でも、時間が無いんでしょう?」
ゴールデンウィークは来週の週末から始まるもの。
「だけど、あんなイベントよりずっと、マーサの方が大事だから――」
私は響哉さんの腕の中でくるりと再び踵を返す。
そうして、響哉さんを見上げて、思わず頬が緩んだ。
だって、私が少し拗ねたくらいで、ダイの大人がこんなに泣きそうな目をしちゃうなんて……。
ちょっと、冗談みたいなんだもん。
今日の昼間、テレビで見た素敵なエンターティナーとは、まるで別人。
「響哉さんにとっては、はした金かも知れないけど、たくさんのお金と人が動いている凄いイベントなんだからっ。
そんな風に言わないで。
私もちゃんと協力するから」
とはいえ、私に出来る協力っていうのは、今夜早く寝ることくらいかもしれないけど――。
マーサがそこまで言うなら仕方が無いな、と、響哉さんは渋々頷いた。
それから、ふと悪戯を思いついたネコのように瞳を輝かせる。
「じゃあ、お休みのキス、して」
そうして、膝を曲げて、私の背にあわせてくれた。
――えっと。
確かに、キスされるのには慣れたけど。
もう、怖くないけど――。
でも。
改めてそういわれると照れくさい。
どきどきしながら、私は。
響哉さんの頬に唇をつけた。
ほんの少し、触れるだけの――。
仄かな、キス。
響哉さんはくしゃりと私の髪を撫でて、「ご褒美のキス」と囁くと、私の唇に自分の唇を遠慮も躊躇いもなく重ねてきた。
思わず、瞳を閉じる。
こうして、何度も何度も唇を重ね続けていたらそのうち――。この胸の高鳴りも少しは落ち着いてくるのかしら。
そうしたら、いつか、自分からキスできるようになるのかしら。
広い浴槽につかりながら、私はそんなことを考えていた。
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