21 On the Bed-1-
学校の保健室に戻ってきたときには、昼休みになってだいぶ時間が経っていた。
「先生、おじゃましてま~す。
お帰り、真朝」
梨音が独り、保健室で昼食をとっていた。
どうやら、私のお弁当を持ってきてくれたみたい。
「ありがとう。
私もここで食べていいですか?」
先生を見ると
「どうぞごゆっくり。
食堂に行って来るから。万が一にも急患が来たら、内線で知らせてください」
なんて言って部屋から出て行ってしまった。
梨音と二人、お弁当を食べる。
「ねぇ、いっつも思ってたんだけど、そのお弁当って須藤響哉の手作り?」
「……うん」
私は鶉卵を箸にとって頷いた。
「家事もするのね、あの人」
「うん……。
私がやろうとすると、大抵は断られちゃう」
あまりにも当たり前のように朝食と一緒に作って渡してくれるから、あまり深く考えたこともなかったけれど。
「真朝は、彼のことが好き、なんだよね?
一緒に暮らしているくらいだものね」
当たり前だよねー、なんて顔で梨音が私を見つめてくる。
えっと。
なんだかそう、改めて聞かれるとひどく照れくさくって。
でも。
「うん。
最初は記憶もなくて、本当にびっくりしたけど。
今は、好き。……だと思う。
私、響哉さんのこと何も知らないのにそんな風に言い切っていいのかどうか良く分からないんだけどね」
液体のように掴み所がない感情も、親友に状況を説明しようと思えばそれなりに言葉に出来ることに自分でも軽く驚いてしまう。
「梨音って、響哉さんとどういう関係なの?」
「うーん……。
そうね、なんていったら分かりやすいかしら。
一言で言えば、私の父が須藤グループの傘下にあるとある会社で役員をやっているの。
……っていうか、役員にさせてもらったって言ったほうがいいかしら。
あ、でもこういう言い方すると誤解を受けそうで嫌なんだよね」
言うと、梨音は食べ終わったお弁当箱を片付けて、ぐっと私の手を握った。
その瞳は潤んでいる。
「ねぇ、私、本当に真朝のこと大好きで、本気で親友だって思ってるから。
そこだけは信じて欲しいの」
雰囲気に気圧された私は、思わずこくりと頷いた。
ふぅ、と、梨音は緊張しているのか肩で呼吸をしている。重たい空気の中、しばらくの時間をおいて、決心がついたのかようやく梨音が唇を開いた。
「私と真朝って幼稚園で知り合ったじゃない? あそこももちろん、須藤グループの傘下にある幼稚園っていうのは、そろそろ予測がついてるんじゃない?」
「……うん、まぁ」
ただ、釈然としないのは、どうして私がそういう幼稚園や私立学校に通っているのかっていうことなんだけど……。
「幼稚園で、私は真朝とすぐに仲良くなったわ。
今思い返してみても、出会った頃から仲良しだった。
……で、ほら、この前話したわよね。
私が、すっごく気になったから、真朝が大好きな【キョー兄】をこっそり見に行ったこと」
「……うん」
「で、もちろん小さな私が独りでいけるはずもないわけで。
父親に運転を頼んで連れて行ってもらって、陰からこっそり見たんだよね。で、私以上に驚いたのが父親だったって言うわけよ。
割とグループの中でも中枢企業にいるらしく、当時は一般の社員だったんだけど、どこかで須藤家の【次期当主】を見たことがあったようなのよね」
「やっぱり、響哉さんがその【次期当主】ってこと?」
私に向かって【次期当主の婚約者】と言った、佐伯涼太医師の言葉を思い出す。
「噂によると、本来は、家を絶やさないために、二十代のうちに男の子を作って初めて当主と認められるみたいだから、今どういう立場なのかは良く知らないけれど……。
少なくとも、当時は間違いなく【次期当主】だったわ」
梨音の話は私が想像できる「普通の家」の範囲を軽々と、しかも、大幅に飛び越えている。まるでドラマの中の話みたいで、全然ぴんとこない。
「それで、うちの父が色気を出したのか、こっちの視線に気づいた須藤響哉が話を持ちかけてきたのか……。
細かいことまでは知らないんだけど、結果的には私、真朝の傍に居てやって欲しいって頼まれたんだよね。
その代わり、父親の出世は保証するとかなんとかで……」
言って、梨音は視線をそらす。
罪悪感でいっぱいなのか、その瞳は涙が薄っすらと滲んでいた。
「大丈夫よ、梨音。
梨音と仲良しなのは、響哉さんの命令のせいなんかじゃないって、私は信じてる」
ほんの一瞬、心に浮かんでしまった不信感を飲みこんで、私はそう言った。
……だって、他になんて言ったらいい?
それに、幼稚園から今までずーっと梨音とクラスが同じだったことに、不信感を抱かなかった私が、今更とやかく言える問題でもない。
「と、とにかく私の話はそれでおしまい。
何かあったら須藤響哉に連絡するように、とも言われていたから――。
でも、私が父を通じて連絡したのは、交通事故の話だけ、よ。
他は特に――」
「そうなんだ。
ごめんね、梨音。
私のせいで」
よく考えたら、私が悪いのだ。能天気で無自覚で、無関心だった。
梨音に切ない顔をさせていること自体が申し訳ない気分になってくる。
二人して、湿っぽい顔で俯き時間だけが過ぎていく。
あまりの静けさに、今まで気づかなかった秒針の音がやたら耳についた。
「……私、そろそろ授業が始まるから、戻るね」
「うん、お弁当、持ってきてくれてありがとう、梨音」
「どういたしまして。お大事にね」
二人とも、目を合わせないままに、梨音は保健室から出て行った。
どんよりした分厚い曇り空を思わせる、重たい空気が胸に浮かぶ。
ため息さえつけず、私は残りのお弁当をすべて平らげて、鳴り響くチャイムを他人事のように聞いていた。
――なんなんだろう。
須藤グループって。
どれほど大きな組織で、どれだけお金があって、何の権力があるのか知らないけど。
こうやって、関係ない人の人生を巻き込んで、いったい何様のつもり?
冗談じゃない。
そこまで考えて、ああ、と思った。
だからきっと、梨音は、響哉さんのことが嫌いなんだ。
友人に対してスパイ行為をすることを強いるなんて、ひど過ぎるもの。
しかも、親の出世と引き換えに。
きっと、須藤グループの傘下にある会社に勤める人たちには、意見なんて言えないに決まってる。
――だから、ここは私が頑張らなきゃっ
二人はまだ、理事長室に居るかしら?
逢いに行こうと、椅子から立ち上がる。
それだけで、軽い立ちくらみが起きた。
頭の奥がぐらぐらして、目の前が不自然に回る。
……今日は寝ていたほうが良いのかも。
そんなことを思って、机に手をついていたら、ドアが開く音がした。
「マーサ」
心配そうな声を耳にしたその数秒後には、私は響哉さんに抱き寄せられていた。
「アイツは?」
ひょいと私を抱えあげてから響哉さんが聞く。
その声が鋭かったので、私は思わずびくりと震えた。
「先生のせいじゃ、ない。
私がついうっかり急いで立ち上がったから……っ」
どうしてか、私がつい、代わりに言い訳してしまう。
だって、私のせいで先生が怒られるなんて気の毒だもの。
ベッドに私を寝かせた響哉さんは、むきになった私が可笑しかったのか、ふわりとした微笑を形の良い唇に乗せた。
「分かってる。
怖がらせたなら謝るよ、マーサ。
ただ、何処にいるのか知りたかっただけ」
だから、怯えないで、と響哉さんはゆっくり私の頭を撫でる。
「食堂で昼食」
「そう。
マーサはここで独りで食べてたの?」
「ううん。さっきまで梨音と一緒に」
ああ、そうだった。
すぐにこの甘い笑顔に流されそうになっちゃう。
「それでね、私。
響哉さんに聞きたいことがあるの」
私の声は緊張で震えていた。
響哉さんの手が、そっと頬を撫でていく。
「何でも自由に聞いて。
でも、その前に少しお休み」
私はぐっと響哉さんの手を掴んだ。
今眠っちゃったら、この決意を忘れちゃいそうなんだもの。
「急ぎの用?」
「……違うけど」
「じゃあ、少しお休み。
佐伯頼太が帰ってきたら何か鉄分が取れるものを買ってきてあげる」
どうして私にはありあまるほどに降り注いでくれるその優しさを、他の人には欠片も見せないの――?
私は掴んだ響哉さんの手を、離すことが出来ない。
だって、大抵響哉さんのペースに流されるんだもの。
きっと今が千載一遇のチャンス。
「今、お話しちゃ、駄目?」
「困った子だ」
響哉さんはちっとも困ってない声でそういうと、ジャケットを脱ぎ、ぎしりと軋ませながらベッドに座る。そうして、ゆっくりと私を抱き起こしてくれた。
私の瞳が段々細くなっていくことに気づいているのだろう。
響哉さんは何も言わないし、何も聞かない。
このまま、何もかも知らなかったふりをしてたって、誰にも怒られないに違いない。
こんなに優しい響哉さんだもの。悪い人のはずがないじゃない。
何か深い理由があって、梨音や佐伯先生にそういう仕事を命じたに違いなくって。何も知らない私が、とやかく言うことじゃないのかもしれない。
それに、私はこうやって、響哉さんに甘やかされているだけで、蕩けそうなくらいに幸せでいられるし。
「ほら、そのまま胸にもたれて」
私を横に向けて、そのまま自分の胸へと抱き寄せてくれた。
規則正しい心臓の音が、耳に心地良く、頬に触れる白いシャツは、気持ち良い。
響哉さんは、ゆっくり私の髪を撫でる。いつの間にかそれだけで、喉を撫でられた猫のように大人しくなる私がいた。
……でも。
眠りに落ちかけている私の脳裏を過(よ)ぎったのは、今にも泣き出しそうに潤んだ梨音の瞳。
「……どうして?」
喉から無理矢理搾り出した声は、微かに震えていた。
「ん?」
一瞬、響哉さんの手が止まり、私をもう一度抱きしめなおしてくれた。
「どうして、梨音に私の監視なんて押し付けたの……?」
「監視なんてさせてないし、ましてや俺が押し付けたわけじゃない」
「でも。
響哉さんの言うとおりに梨音が私を見ているから、梨音のお父さんは出世したって……っ」
興奮しているせいで、私は上手く発言を
まさか、と、響哉さんは形の良い目を丸くした。
それから、ふんわりと唇を解いて甘い笑みを零す。
「それは梨音ちゃんの勘違い。今の俺にそんな力があるわけない。
彼が出世したというなら、それは実力だ。
この不景気の時代、そんな理由で人を出世させていては、会社が潰れてしまう」
「……梨音の勘違い?」
「そう。
いつか機会を見て、俺からちゃんと説明しておくから、心配しないで」
大丈夫だよ、と。
響哉さんは私の頭にキスをした。
「でも、梨音とか、本当は医師である佐伯先生とか……。
私がここに居るから、様子を見ておくように頼んだのは響哉さんなんでしょう?」
私の声は、相変わらず興奮で震えていて、どうしてもボリュームさえ抑えることが出来ない。
ガラリと、保健室のドアが開く。
「真朝ちゃん。
それは誤解」
その声は、佐伯先生のものだった。
そして、ベッドの見えるところまでやってきて、深いため息をつく。
「……こちらのベッドはお一人でご利用いただけますか? ついでにいえば、うちの生徒以外に使用許可なんて出した覚えはないけどなぁ」
響哉さんに向かって、呆れた視線を投げながら、皮肉をたっぷりこめて言う。
「俺とマーサは二人で一つだから……」
喋りかけている響哉さんに向かって、佐伯先生が何かを投げつけた。
響哉さんは唇を閉じて、素早く片手でそれを受け取る。
あまりにも急なことで、私は瞳を閉じることさえ出来なかった。
「危ないなー、俺の大切な彼女に当たったらどうすんの」
先生が投げてきたのは、鉄分が入っている栄養補助ドリンクで、響哉さんは、ため息混じりにそう言いながらも、ふたを開けて渡してくれた。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取って、一応先生にお礼を言うとごくりと飲み干した。
「そうなったら、俺の前で寒い発言をした自分を責めるんだな」
先生は不機嫌を隠さない低い声でそう言うと、椅子を引っ張ってきて座った。
それから、唇の端を吊り上げて笑う。
「それに、お前はそんな失敗しないだろ?」
いつもの軽口とは一線を画したようなその声には、長年連れ添ったものだけに向けられる信頼の色が添えてあるように思われた。
「磯部がどう思っているかは知らないけど。
俺個人で言えば、別に須藤の命令に従って、嫌々ここに居るってわけでもない」
先生は珍しいほど真面目な視線を私に投げて、そう言った。
「丁度研究に行き詰っていた時期だったから、タイミング的に、数年間そこを離れてみるのも悪くないってとこだったし。
それで、アイツにここを紹介してもらったようなもんだよ。しかも、期間限定だし仕事内容も色々と便宜を図ってもらった上に、給料は破格。
ね? 俺にとっても好都合」
先生はそう言って笑ってみせる。
「梨音だって、別に、そんなこと頼まれなくたって私とは親友だって言ってたもんっ」
私は小さく言い添えた。
よしよし、と、響哉さんは幼子にするように、私の髪の毛を撫でる。
「納得してくれたかな?
お姫様。
これでようやく、寝てくれるね」
先生が視線を逸らしたのを知ってか知らずか、私の頬に音を立ててキスをする。
「……響哉さんっ」
「なぁに、マーサ?」
私が動揺で声を上擦らせながら文句を言おうとしているのに、涼しい顔で微笑んでくるんだもん。
本当にズルい。
それとも、私が知らないだけで世の中の恋人たちというものは、こう、終始、一目も
「……お前、よく36にもなって、そうもメルヘン界の住人でいられるな」
ついには禁煙のはずの保健室で、煙草に火を点け始めた佐伯先生が、呆れて言葉を吐き出した。
「俳優なんて、メルヘン界から卒業したらやってらんない職業だろ?」
ねー、監督。
なんて、冗談めかして響哉さんが笑う。
その一言で佐伯先生の顔色が変わった。表情も一転、とても険しいものになる。
「……まさか、この期に及んでまたハリウッドに戻るって言うんじゃないだろうな」
「言っただろう?
俺は今オフだって。
普通、オフが終われば誰だって自分の職場に戻るだろう?」
響哉さんは何食わぬ顔でそう応えた。
「……じゃあ、須藤グループはどうするわけ?
じいさんだって、生きているのが不思議なくらいの高齢じゃないかっ」
「予定通り、オヤジに継いで貰う事にする。
話はつけてきた。
もちろん、俺とマーサの間に男の子が出来たら話は変わってくるだろうけど。それでも俺に今更継がせようなんて本音では誰も思っちゃいないだろ」
……なんですって!?
思わぬ展開に私は目を丸くする。
そんな私に響哉さんはふわりと微笑みかけてきた。
「でも、俺はマーサと二人で生きていけるなら子供なんていなくたって構わない」
「そう、じいさんに宣言してきたってわけ?」
先生の声は、怒りを表に出さないためか、わざとのように低く抑えたものだった。
「ああ」
青ざめていく佐伯先生に対し、響哉さんはそっけないほど簡単に頷く。
「お前、本気?」
「本気に決まってるだろう?
うちの会長相手に冗談を言うほどの大物にはなれないなー」
「……もしかして、本気であの責任が自分にあるとでも思ってるわけ?」
先生はその話を切り出す直前、ちらりと私を見て、言葉の一部を飲み込んだ。
……何の、責任?
ふいに、胸の奥に得体のしれない影が浮かぶ。
響哉さんは、形の良い瞳を細め、淋しそうな目をして言った。
「真一と朝香ちゃんの事故死に、俺の責任はなかった。
あれは、本当に誰の悪意も無いただの事故。
それは自分で納得いくまで調査して出した結論だ。
でも。
俺の責任で誰かが殺されるかもしれないという恐怖は、常に付き纏っている。
あの事故以降、ずっと」
響哉さんは、まるで、教会で懺悔する人を思わせるほど苦しそうな口調でそう言うから――。
もう、このまま何も聞かないで封印したほうがいいんじゃないかって、胸の奥でちらりと思った。でも、わざわざ響哉さんが今そこまで言ったってことは、私に聞いて欲しいというアピール……だよね?
今まで、ずっと言えなかったことを、やっと言う気になってくれたって……ことだよね?
私は、響哉さんがよく私にしてくれるのを真似て、彼の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
響哉さんは一瞬目を丸くして、それからふわりと優しく笑った。
淋しさをその瞳の奥に、少しだけ滲ませながら。
パパもママも、とっくにここに居ないから、もう、何も聞けないし触れることも出来ないけれど。
響哉さんになら、こうやって触れられるし、聞けるんだから。逃げるなんて、もったいないわ。
だから、私は、ぎゅぎゅぎゅと勇気を振り絞る。
「どうして、パパとママの事故が自分のせいだって思ったの?
響哉さんはその時、アメリカに居たんでしょう?」
もっと上手い聞き方が、五万とあるに違いない。
でも、私がとっさに思いついたのは、そんな子供っぽいことだけ。
それでも、響哉さんは頬に添えた私の手に、さらに自分の手を重ねて、
「それはね、マーサ」
と、喋りだしてくれた。
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