20 別の顔-3-
不意に扉がノックされる。
「どうぞ」
「失礼します」
やや緊張した声は、体育教師である平田先生のものだった。
起き上がろうとする私の頭を、響哉さんがそっと抑える。
「いいから、寝てて」
「でもっ」
「いまここでキスされたい?」
焦る私に、響哉さんはふわりとした笑いを浮かべて囁いた。
……意地悪っ。
「花宮さんは――」
「今、休んでます。
血も止まったので問題ないと思いますよ」
佐伯先生は丁寧な口調でそう答えた。
「須藤理事にもいち早く連絡していただいたようで」
……理事?
私を見つめている響哉さんは微笑を湛えたままで、特に表情に変化はない。
「……来られてるんですか?」
……えっと。
平田先生って40歳越えてますよね?
何故に敬語?
「ええ、ものすごいスピードでいらっしゃいましたよ」
佐伯先生の丁寧な口調の中に、僅かに呆れたニュアンスが滲んだ。
響哉さんは組んでいた長い脚を解いて立ち上がる。そうして、ゆっくり二人の方へと足を進めた。
「平田、ありがとう」
それは、佐伯先生に向けるよりずっと、尊大な口調で私はびっくりした。
「いえ。その、理事の大切な方をこのような目にあわせてしまい本当に申し訳ありません」
平田先生はとても、恐縮した口調だ。言葉の端々に緊張感が滲んでいる。
「目の前で球技をやっているのに集中していなかった彼女にも非はある。
責任を感じることは無い」
「恐れ入ります」
会話の流れに驚きを隠せない。
平田先生は私のことを何だと思っているのかしら……。
響哉さんが理事だというのであれば、職権を乱用して、何らかのことを平田先生に吹き込んでいたに違いない。
「わざわざここまで来てくれてありがとう。
彼女は眠っているのだが……」
「あ、いえ。
起こしていただかなくて結構です。私も仕事に戻りますから」
「そう。
これからも、よろしく頼むよ」
「はい」
トントン、と、ドアのノック音。
「どうぞ」
佐伯先生の声に、失礼します、という声が響いた。
梨音の声だ。
「では、私はこれで……」
平田先生が言う。
直後。
「響哉、私をどれほど待たせれば気がすむのかな?」
年配の男性の声が響き、他の皆が息を呑むのが気配で伝わってきた。
彼の一声で、保健室の空気全体ががらりと変わったような気さえする。
「お待たせしてすみません。
彼女の容態も確認できましたので、そろそろ理事長のところへ戻ろうと思っていました」
響哉さんは落ち着いた口調でそう言った。
「で、私はいつになったらその婚約者とやらを紹介してもらえるのかな?」
「……紹介はさせていただいたはずです」
……いつ?
響哉さんの言葉に目を丸くするのは私だった。
「彼女が3歳のときに一度だけ。
それっきりではないか」
……お、覚えていませんが。
「今は寝ています。
後ほど改めて」
「寝顔さえも見せぬというのか?」
「ええ。
それにお言葉ですが理事長。本当に興味があるのなら、今までいくらでも接触の機会はあったはずです」
「……私が勝手に接触した結果、誰かが彼女を抹殺したら、お前は今度こそ、全てを捨てていなくなるだろう? 響哉」
真剣勝負のような言葉の応酬が続いた後、最後に放たれた理事長の言葉に、横になっているはずの私は、後頭部を殴られたような痛みを覚えた。
平穏な日常には不釣合いの「抹殺」という言葉に引きずられるかのように脳裏に浮かぶのは、自動車の中。
突然前に現れた、大きな車。
両親の一瞬にして最大に悲痛な叫び声。
つつーっと鼻の奥から喉に何かが滴ってくる。
「――ぐっ」
私は思わず呻き声をあげて身体を起こすと口を押さえた。
胃の中から何かがせりあがってくる。
吐く、と思った瞬間目の前に青いバケツが差し出された。
血の混ざった吐しゃ物をその中に吐き出す。
なれない嘔吐に、涙が滲んだ。
「大丈夫だから、全部吐いて」
優しく背中を撫でながら、そう言ってくれるのは響哉さん。
ふいに、頭の後ろにひんやりとしたものをあてがわれた。
「これ以上止まらなかったら、私が病院に連れて行きます。
響哉さんは理事長とお話になった方が宜しいですよ」
……え?
別人のような口調と声音だったので、私の中では一瞬、それが佐伯先生の発言だと認識できなかった。
「いや、俺が……」
私の背中に置かれた響哉さんの手に熱がこもる。
「命に関わるわけじゃない。
お忙しい理事長とのアポを優先してください」
丁寧ながらも、針金を入れ込んだような真っ直ぐな口調で佐伯先生が言い切った。
「彼女が身篭っているというなら話は別だが」
耳に入ってきたのは理事長の声。
思わず目を瞠る私に、響哉さんが囁いた。
「マーサ、少し離れるけど必ず戻ってくるから。心配しないで待っていて」
私は僅かに頷いた。
「もう、全部吐ききった? 気分悪くない?」
頷くのを見届けてから、バケツを取り、代わりに濡れたタオルと脱脂綿を渡してくれる。
私はそれで顔と鼻血を拭いて、脱脂綿を鼻に詰めた。
響哉さんは私の頭をくしゃりと撫でると立ち上がる。
「大変お待たせしました。
ひ孫誕生を渇望されているところ大変申し訳ありませんが、彼女はヴァージンです」
響哉さんは穏やかな口調できっぱりとそう言い切るので、私はくらりと眩暈を覚えた。
確かに事実だけれど、他になんかもっと違う説明の仕方があるよね?
「本当なら16年前に、お前の子供を産ませるべきだった」
ぽつりと、しかし重みのある声で理事長が言う。
「それをお前が――」
「部外者もおります。
理事長室に参りましょう」
理事長の発言をやんわりとした口調で、しかしきっぱり遮ると、二人は保健室の外へと出て行った。
それって、やっぱり私のこと?
ママは響哉さんの子供を産むべきだったって、理事長はそう言ってるのかしら――。
でも、何故?
「花宮さん。
今は何も考えないで、深呼吸を繰り返したほうがいいですよ」
理事長の言葉を聞いて指先が震えてきた私の手を掴み、佐伯先生が珍しいほど丁寧な口調で言う。
……ああ、そうか。
まだ、この部屋には梨音が居るんだっけ。
「会長がこちらに顔を出されることもあるんですね。
様子見がてら、念のため真朝の着替えも持って来たんですけど、これを置いて行った方がいいみたいですね」
梨音の声。
佐伯先生は私の傍で頭に濡れタオルを当ててくれている。
私は再び斜め上を向いて、血が止まるのを待つことになった。
「ありがとう。
助かります」
心配そうな梨音の顔が視界に入ってきた。
「真朝、大丈夫?」
「……うん、なんとか。
もし知ってたら、今の理事長と響哉さんの話の意味が知りたいんだけど……」
「花宮さん。
だったら、今から病院に行って鼻血を止めてもらいましょう。
話は帰ってきてから。でないと貧血になってしまう」
先生はきっぱりそう言い切った。
「だから、磯部さん。
放課後もう一度、こちらに来ていただけますか?」
「分かりました」
梨音は心配そうな眼差しを私に向けてから、保健室から出て行った。
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