19 キス以上-3-
それにしても、と、思う。
ここは全く知らないマンションなのに、私の服もちゃんと持ってきてある。
学校に必要な道具も全て。
間取りこそ違うけれど、一つの部屋はちゃんと私用に整えられていた。
「何か、足りないものは?」
感心して部屋を眺めている私に、響哉さんが聞いてくる。
「大丈夫。明日学校にもって行くものもちゃんと揃ってるし」
「それは良かった。
お風呂、お湯張ったから入っておいで」
響哉さんは部屋の入り口に立ったままそういうと、踵を返して去っていった。
淋しさを抱えた表情を隠すかのように、足早に。
お風呂から上がった私は、ソファに座って本を読んで時間を潰す。
最初はテレビをつけていたけれど、その煩さについていけなくて切ってしまった。
響哉さんはリビングに顔を出さない。
これではまるで根競(こんくら)べだわ。
……それとも。
もう、響哉さんは自分の部屋に入ってしまったのかしら。
読んでいるのは、面白い推理小説のはずなのに、頭に全く入ってこない。
私はついにため息をついて本を閉じる。
もし、これが響哉さんと私との戦いだったとしたら、私の完敗だわ。仕方が無い。人生経験が違うもの。
諦めて、リビングのドアを開けた。
「……っ」
ドアを開けたらすぐそこに、響哉さんが立っていて、私は思わず息を呑む。
ドライヤーできちんと乾かしたわけではなさそうな髪は、無造作に垂れていて、いつもと違う雰囲気に私は思わずドキリとする。
響哉さんは無理矢理口角を引き上げて笑ってみせる。
「良かった。
ソファで眠ってしまったんじゃないかと思って、見に来たんだ。
部屋に戻ってゆっくりお休み」
言って、先に歩き出す。
「響哉さんは寝ないの?」
彼は足を止めて振り向いた。
廊下が暗いので、その表情は私には見えない。
「仕事がある」
感情の一切見えない平淡な声に、何故か胸の奥がキュンとして、気づけば響哉さんのパジャマの端を掴んでいた。
「……どうした?」
感情を殺した後、無理やり優しさの色をつけたような声に息が詰まる。
どうかしているのは響哉さんの方だわ。
私は言葉が出てこない。
ただ真っ直ぐに、彼の顔を見上げる。
もっとも、この暗さに目がなれてない私には、響哉さんの表情なんて見えないけれど。
「今夜は一人でお休み」
一人になりたくないのは、響哉さんなんじゃないの?
「嫌」
「マーサ、聞き分けの無いこと言わないで。
それとも、今夜俺に抱かれたい?」
言葉の内容と矛盾するような、突き放すような冷たい声に、びくりとして、思わず手を離す。
「お休みなさい」
「お休み」
響哉さんは私を見送ることもなく、自室に入っていく。
私も仕方がなく、自室に戻る。
ベッドサイドボードには、私のためにアロマライトも用意してあった。
薄明かりと柔らかい香りに、心は解れていく、のに。
……それでも寝付けないのは、最近一人で寝てなかったせい?
響哉さんは広いベッドの上で一人、ちゃんと眠っているのかしら。
心配で、胸が詰まる。
起き上がってカーテンを開ければ、眼下には綺麗な夜景が広がっている。
空には、折れそうなほど細くなった月がおぼろげに浮かんでいた。
その姿に、何かを押し殺して曖昧に笑う響哉さんの姿が重なった。
私さえも遠ざけて、彼は。
今、何をしているのかしら――。
ベッドの上に座って膝を抱えていると、秒針の音がやけに煩く響いてくる。
響哉さんが傍にいてくれたらきっと、彼の鼓動の音が心地よくてこんなもの聞かなくてすむのに。
頭が冴えた私は、ひたすら思考を巡らせた。
彼が何を抱えているのか知らないけれど、佐伯先生の話を真に受けるなら、きっとそれを解決するために日本に帰ってきたんだわ。
……そして、それを解決するのに、「私」が必要に違いない。
だって、そうじゃなければわざわざ義両親に頭を下げてまで、私と一緒に暮らす意味がないじゃない。
そして、間違いなく響哉さんは私のことを好きでいてくれる。
――じゃあ、私は?
一人の夜は静か過ぎて、長過ぎて。
流されている毎日を、考え直すのには丁度良かった。
――私の気持ちは?
深夜、私は、響哉さんの部屋の前で立ち尽くす。
このドアを開けるべきなのか、それとも――。
朝まで待つべきなのか。
どれほどの時間が経ったのか。
内側からドアが開いた。
響哉さんは驚いた顔もせず、少し疲れた表情で私を見下ろす。
私がいるとわかって扉を開けてくれたに、違いなかった。
「抱かれる覚悟が出来たってわけ?」
ことさらに冷たい声なのは、私を突き放して一人になりたいからに違いない。
だから。
私は恐怖も動揺も緊張も飲み込んで、こくりと大きく頷いた。
薄暗い部屋でも、目がなれていたので響哉さんが瞳を見開いたのがわかる。
響哉さんは乱暴に私を抱き寄せる。
「そう。
じゃあ、遠慮なく」
びっくりするほどの力で抱き上げられ、ベッドの上に押し倒される。
冷たい手が頬に触れる。
私は覚悟を決めて、瞳を閉じた。
響哉さんの指先がゆっくり私の髪をかきあげる。
頬に触れていた手は、鼻や瞼に移動する。
こうして、身体中を響哉さんに触られるのかな。
私は……。
瞳を閉じていれば、それでいいのかな。
初めてのことで、何をどうして良いか分からなくて。
響哉さんの手の動きに意識を集中していた。
――けれど。
すぐにその指の動きさえ止まってしまった。
気配で、響哉さんが私の上から遠ざかったのが分かる。
……と思うとすぐに、横から抱き寄せられた。
高価な桃でも触るかのように、そおっと。
「――ごめん、マーサ」
痛々しい声に、息が詰まる。
私はゆっくり瞳を開く。
ものすごく近くに響哉さんが居て、その黒い瞳には切なさが宿っていた。
「――ごめんね――」
声は今にも泣き出しそうなほど、低く掠れている。
私はそっと、響哉さんの頬に触れた。
「私だって響哉さんの役に立ちたいもの。
……だから、本当にシたいんだったら……」
ふっと、響哉さんが優しさをかき集めたような笑いを浮かべた。
「それはもう、どうしようもなく抱きたいよ。
でも、それと同じくらい大事にしたいから。
……辛い思いをさせて悪かった。もう、あんな失礼なこと言わないし、無理矢理抱いたりもしないから……。
今夜はここで寝る?」
……もしかしたら、響哉さん。一人で泣きたかったのかしら。
「私が傍に居たら、困るの?
ねぇ、響哉さんの悩みが何か分からないけど。私は力になれないの?」
響哉さんの瞳を覗きこんで聞く。
お願いだから、目を逸らさないで。
私を一方的に保護しようなんて思わないで。
そんな想いを込めながら。
響哉さんは、不意に眩しい太陽でも見たかのように目を細めた。
子供の成長を喜ぶ親のように、と言ったほうが的確なのかもしれない。
そうして、ふっと、ため息をついた。
「大人になっちゃったんだね、マーサちゃんは」
そう独りごちてから、私の頭をくしゃりと撫でた。
「……駄目?」
「そんなことないよ。
ただ、そうだな。
驚いた、かな――。
ありがとう、マーサ。今夜は遅いからもうお休み。明日、改めて話をしよう。
……マーサにとって、必ずしも良い話ではないのだが……」
「それでもいいよ。
二人で乗り越えるべき壁があるなら、一緒に私も連れて行って」
私ははっきりきっぱりそう言い切った。
だって、一人部屋で一生懸命考えたんだもん。
響哉さんが私のことを好きだって言うのは分かった――けれど。
私は、どうなのかな?って。
流されているだけじゃないのかな? って。
でも、その答えは。
――私も、大好き。
だから、もう、迷わないんだもん。
響哉さんは私の言葉を聞いて、さらに目を丸くする。
それから、今度こそ偽りのない蕩けそうなほどの甘い笑みを零して私の頭を撫でてくれた。
「ありがとう、マーサ。
心配かけて悪かった」
「いいよ。
私だって響哉さんのことまだ、呼び捨てに出来ないし。
それに、キスだって――」
一気に喋ろうとする私の唇に、とん、と響哉さんが人差し指を当てた。
私はそのまま唇を閉じる。
響哉さんは優しい声で囁いた。
「その話は、またでいいって言っただろう?
ありがとう、マーサ。
今日はもう、おやすみ」
「……でもっ。
響哉さんのことが心配だし、それに。
私だってちゃんと覚悟してここに……来たんだから……」
恥ずかしくて、怖くて、最後まで言葉が紡げない。
私は知らず、視線を避けるかのように下を向く。
そっと、額にキスが落とされた。シロップをさらに煮詰めたような、甘い、甘いキス。
「すまない。
マーサにそんな辛い覚悟をさせるために言ったわけじゃなかったんだ……。
ごめん。本当に俺が悪かった。
今日は、せがまれても抱かないから――。安心してお休み」
ようやく、緊張が解けた私はその反動で身体が震えて仕方がなかった。
責任を感じたのか、手を離そうとした響哉さんに、思わずしがみついていた。
「――こうしていたいの」
声を発して初めて、自分が泣いていることに気がついた。
響哉さんの手が優しく背中を撫でてくれる。
本当は暴力的に私を抱けるような人じゃないくせに。
どうして、あんなことを言ったのかしら。
背中を撫でていた手が、いつの間にか軽いタッチに変わっていく。
「……違うのっ」
重くなった瞼を無理矢理押し上げて、響哉さんを見る。
「何が?」
いつもと変わらない、優しい笑顔。
私が大好きな、甘い眼差し。
「私が、響哉さんを眠らせてあげようと思ってここに来たのにっ」
これじゃ、私が響哉さんに眠らせてもらうことになっちゃうじゃない。
「ああ、それなら大丈夫」
響哉さんはなんでもないことのように言うと、パジャマの袖で私の涙を拭いて、目の下にキスを落とす。
「マーサが俺の腕の中で寝てくれたら、すぐに俺も眠れるから」
「……本当に?」
そんなこと言われても、確認できないじゃない。
響哉さんは相好を崩す。
ラフなヘアスタイルと相俟って、いつもよりずっと子供に見えて、それはそれでどきりとする。
「本当に決まってるだろ?
マーサの寝息と鼓動を聞いてたら、俺もすぐに眠れる」
だから、先にお休み、と。
響哉さんは再び私を抱き寄せた。
胸に耳を当てれば、安定した鼓動が聞こえる。
「……私も。
時計の秒針よりずっと、響哉さんの鼓動を聞いている方が眠れるわ」
さっき感じたことを、そのまま言葉にする。
くすり、と、響哉さんは
「……やっ……」
温かい息が耳朶に触れると、ぞくりとした何かが背中を走り、私は思わず声をあげる。
響哉さんは私の耳朶にまた、音を立ててキスを落とす。
「耳も弱いんだね、マーサは」
「……っ」
そんなこと言われても、どう返事をしたら良いか分からない。
響哉さんは耳から離れて、頭に軽いキスを落とした。
「マーサと本当に一つになるときは、身体中溶けるくらい優しくしてあげる。
だからもう、怯えないで」
……なっ!!
甘く優しい言葉は、私にとってはとてつもなく刺激的で、動揺のあまり顔をあげる。
かぁと頬が熱くなった。
響哉さんは大丈夫、というように甘く微笑むと、キス代わりに私の唇に指先でそっと触れた。
そうして、その指越しにキスをくれた。
もちろん、二人の唇は重ならない。
「こう見えても、気は長いほうだから。
まずは、小さい頃のキス魔だったマーサを思い出すところから始めようか?」
「……嘘ばっかり」
そんなにキスばかりせがんだ覚えはない。
まとわりついていた記憶は甦ってきたけれど。
響哉さんはふわりと笑う。
「じゃあ、今度証拠を見せようね。
今夜はもうお休み」
今日何度目かになる「お休み」を言うと、響哉さんは再び私の背中をそっと叩き始める。
今度こそ、私は温かな夢の中に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます