19 キス以上-2-
「帰ったぞ」
玄関の方で声がする。私は弾かれたように顔をあげて、玄関に向かう。
「……また、どっかに逃げ出すの?」
佐伯先生は困ったようにため息をつく。
「違うんですっ。
その、ここから逃げ出したりはしないけど、あの」
薄暗い玄関の、電気をつけた佐伯先生は意味ありげな笑いを唇に乗せる。
「おや、顔が真っ赤じゃない。アイツに何かされちゃった?」
涼しい顔で、冷静に分析してくれなくていいですから。
「友達なんですよね?
なんとかしてくださいっ」
私はほとんど涙目で先生に訴えていた。
はぁ、と、先生は疲れたようにため息をつき、三歩後ろで腕を組んで私たちを見ている響哉さんに目を移す。
「大人だったら、自重しろ。
次は探してやらねーぞ」
「冷たいんだから、佐伯先生ってば」
響哉さんは冗談めかして肩を竦める。
先生はふぅとため息をついて、今度はその目で私を見る。
そんなに呆れ混じりの顔で見なくたっていいじゃないですかっ。
「花宮も、コイツと付き合うつもりなら、諦めてヤラせてあげれば? どうせいつか結婚するんだろう?」
「……断りますっ」
ああ、もう、絶対にご自分の立場なんて忘れてますよね?
先生はスーパーのビニール袋を持って歩き出す。
私は仕方がなくその後についていく。先生は響哉さんに視線を向けて言葉を続ける。
「だいたいなぁ、結婚の前に結納だろ? それを済ませるのがお前の最優先事項なんじゃねーのかよ。
それをしないから、いつまでたっても花宮に言いたいことも言えないんじゃない?」
佐伯先生は、一気にそう捲くし立てた。
「おい」
ことさら威圧的な低い声で、響哉さんがそれを制する。
佐伯先生は、ふぅ、と深い深いため息をつく。
「また逃げるの?
それならそれでいいけどさ。いい加減、自分が我侭言うたびにどれほど周りに迷惑がかかるのか見える年頃になったんじゃねーの?
いくら世間知らずのボンボンでもさ」
……世間知らずの、ボンボン?
言っている意味が分からなくて、響哉さんに視線を向ける。
「今更俺を非難するのか?」
不機嫌な声でそういいながら、ぴくり、と、響哉さんの形の良い眉が引き攣った。
「お前なー。
非難になんて慣れてんじゃねぇの? 磯部ちゃんだってお前に振り回されてることに代わりはないだろう?」
……それって、梨音のこと?
響哉さんは、ばしり、と。
テーブルを叩いた。
大きな音に空気が凍る。
「そうやって、モノに八つ当たりしたって、何も変わらないことにそろそろ気づけば?」
佐伯先生の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
「響哉……っ」
私は響哉さんの手を掴む。
ふっと、我に返ったのか彼の力が抜けていく。
「……さんきゅ。
後は俺がやる。
ああ、俺と朝香さんが共演した映画のテープ、次に持ってきてくれない?」
響哉さんは疲れた声を搾り出す。
佐伯先生は何か言いたそうな顔をしたが、ふっと表情を緩めて私を見た。
「テープの手配は了解した。
明日は7時に迎えに来る。
花宮、嫌なときはちゃんと嫌だって言えばきっと、コイツだって分かってくれるよ。そうじゃなかったら諦めろ。いつかは経験することだ。
……どっちにしても、気をつけろよ」
最後にやたらと重たい一言をつけて、佐伯先生は帰っていった。
私は響哉さんに誘われるがままに夕食作りの手伝いをする。
その間中、彼の名前を呼ばないように気を遣わなきゃいけなくて。
正直、少し神経が磨り減る。
ようやく夕食をテーブルに並べてほっとしたのか、つい、口が滑った。
「ねぇ、響哉……っ」
響哉さんって、ドレッシングはどれを使うの? って聞こうと思い、思わず名前を口にしてしまった私は、曖昧に唇を閉じる。
別の皿をテーブルに置いた響哉さんは、その手で私の頭をぽんと叩く。
「いいよ。呼びやすいように呼んでくれれば」
優しさを溜め込んだ声の向こうに、淋しそうな表情が透けて見えたので、私は思わず唇を噛む。
会話もなく、夕食を食べるのがこんなに味気ないこととは思わなかった。
ただ、黙って食べ物を咀嚼する。
手間ひまかけて、一緒に作ったコロッケは間違いなくおいしいはずなのに。
まるで、砂を噛んでいるみたい。
「響哉……」
何度か頑張って呼びかけてみるけれど、そのたびに、恥ずかしくてフェイドアウトしてしまう。
年上の人を、急に呼び捨てにするなんて難易度高すぎるんだもの。
響哉さんはそのたびに、手を止めて私を見つめ
「好きなように呼んでくれて、大丈夫だから」
と繰り返すばかりで、それ以上の会話は続かなかった。
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