19 キス以上-1-
「じゃあ、俺帰るわ。
後は二人で仲良くやれば? 明日の朝はいつもより15分早く迎えに来るから、あんまり夜更かしさせんなよ」
リビングのドアを開けた佐伯先生は乱暴な口調でそう言った。
私は慌てて響哉さんの頬から唇を離した。
「待てよ。
俺たちの夕食は?」
「は? そんなもん、ピザでもなんでも頼めばいいじゃん。それとも、須藤家のご長男はそんなもん食べれませんって言うわけ?」
「……それはこの際関係ない」
一瞬、ぞくりとするような冷たい声になった響哉さん。
それに怯えた私に気づいたのか、ふっと口調を和らげる。
「栄養バランス考えて食べないと、マーサの成長に差し障るだろう?
春花は今、カレンのマネージャーともめてると思うからさ、代わりに買ってきて」
はぁ、と、佐伯先生は大げさにため息をつく。
「分かったよ。
でも、お姫様は不思議がってたぜ?
どうして、俺はお前の命令を何でも聞くのかってね。ついでに、どうしてそんなに金持なのかも不思議がってたぜ」
一方的にそう言うと、響哉さんが口を開く前に先生はドアを閉めた。
響哉さんの艶やかな黒い瞳に、一瞬、氷のような冷たさが浮かんだ。
けれども、閉じたドアを睨みつける以上のことはしなかった。
「気になる、よね」
響哉さんは、私に視線を戻してふっと表情を和らげる。
「秘密なの?」
「……そういうわけじゃないよ。
ただ、ちょっと込み入った事情があって」
まるで、部屋の酸素が薄くなったみたいに、響哉さんは苦しそうな顔をする。
だから、私は無理矢理笑ってみせる。
「大丈夫。
今じゃなくても。
……いつか、教えてくれるよね?」
響哉さんはようやく手を離して、その代わりとでも言うように、ぐいっと私を抱き寄せる。
「少しだけ、時間をくれるかな……。
そのときは、マーサがキスが怖いわけも教えてくれる?」
私は驚いて息を呑む。
克服できてないってこと、ちゃんと分かってくれてたんだ……。
頷き兼ねている私の頭を、響哉さんがポンと軽く叩く。
「いいよ、じゃあ、聞かないであげ――」
「ママと共演している映画、あるんでしょう?
ねぇ、フィルム持ってる?」
私は思いついて顔をあげた。
そうだ。
さっき、記者のオダって人と喋っているときに、思い当たることがあったんだ。
「俺は持ってないけど……そうだな、佐伯 頼太に探させよう」
だから、どうして佐伯先生のことを小間使いのように使っちゃうわけ?
先輩だって、言ってなかったっけ?
でも、それを聞いたらまた、響哉さんの表情が曇っちゃう。
私は頭を切り替える。
「パパはその映画には出てないの?」
「真一は、カメラ担当だったからなー」
「そうなんだ?」
私は目を丸くする。
「じゃあ、私が小さかった頃の動画映像なんかもあったりする?」
でも、私が小さかったときの映像なんて見たこと無いけど――。
響哉さんは、ふわりと甘い笑みを浮かべた。
「それはどうかな?
結構、直接マーサに触れたがっていたからね。
真一がビデオカメラを持ったら、間違いなくマーサは俺の腕の中じゃない?
そんなのばっかり撮るの、嫌だったんじゃないかな」
「ええー、私ってそんなに響哉さんに懐いてた?」
恥ずかしくて、頬を赤らめ視線を落としながら聞いてみる。
「ものすごく懐いてたよ。
今はマーサの手を離せないのは俺だけど、あの頃は、俺を離してくれないのがマーサだった」
響哉さんは懐かしそうな眼差しでそう言った。
「鬱陶しかった?」
「まさか。
とっても可愛くて、すごく楽しかったよ。
もちろん、今もとっても楽しいけど」
「……けど、なぁに?」
言葉をそんなところで切るから、気になって、私は響哉さんを見上げる。
ものすごく近いところに、綺麗な顔があって、本当にドキドキしちゃう。
響哉さんは黒真珠を思わせるような艶やかな瞳で私を捉え、細い指先でそっと頬を撫でる。
そうして、キスできそうなくらいに顔を近づけて、私が思わず瞳を閉じたところで囁いた。
「いつになったら、その呼び方を変えてくれるの?
他人行儀で、とても淋しいんだけど」
「で、でもっ」
さすがに、この年で「キョー兄」って呼ぶのは恥ずかしいじゃない。
目を閉じたままの私の、耳朶に響哉さんの唇が触れる。
熱い呼吸まで、耳に届いて、ゾクゾク、ドキドキしちゃう。
「じゃあ、俺も、真朝さんって呼ぶね」
低い声が、耳を擽る。
ドキドキしちゃうのは、その呼び方のせいなのか、耳に当たる吐息のせいなのか。
判別がつかなくて困ってしまう。
「そんなのっ」
私の反論なんて、聞く気は無いみたいで、響哉さんはそのまま私の耳に息を吹きかけるように
「真朝さん」
と、囁いた。
「……っ」
びっくりした。
耳に息を吹きかけられても、くすぐったいだけだと思っていたのに。
どうして?
背中に電気みたいなのが走り抜けていくんだけど……。
「やっ。
変、響哉さん、止めてっ」
びっくりした私は慌てて声をあげるのに、彼は耳の傍でそっと笑うだけ。
「真朝さんって、耳、弱いんだね」
わざと、だもん。
響哉さんが耳の傍で囁き続けるから、身体から力が抜けていく。
「……やっ……」
否定のつもりで発した言葉は、まるで他人の声みたいに甘い響きを帯びていた。
「ほら、まだ名前呼んでくれないの?」
唇から漏れる熱い吐息。
耳の奥を擽っていく、甘い囁き声。
違う。
いつもの、優しい響哉さんとは、まるで、別人――。
「……やっ。きょうっ」
びくりと背中が跳ねる。
どうしよう、私、変になっちゃう――。
チュ、と。
耳朶に音を立ててキスを落とすと、響哉さんはようやく顔をあげてくれた。
「キョウって呼んでくれるんだ」
真っ赤になっている私とは対照的に、涼しい顔で響哉さんが聞いてくる。
返事が出来なくて困っていると、いつもと変わらない甘い笑顔で私の頭をくしゃりと撫でた。
「それとも、キョウヤ?」
勝ち誇った満面の笑み。
私はそれを見てようやく気がついた。
両親の同級生で、20歳も年上だからオトナだオトナだと思い込んだのが悪かったのよ。
どう見たって、彼の得意げな笑顔は、知識が多いだけの悪戯好きな子供のものじゃないっ!
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