18 Deep Kiss-2-

私はマンションを出る。

入り口で、男性が一人耳を押さえているのが見えた。


彼がインターフォンを押した人物なのかもしれない。

そして、響哉さんに受話器を投げられたのね、多分。


……もう、どうでもいいけど。


私は目の前に見える公園に行く。とにかく、一人になりたかったから。


突然の、深すぎるキスにも動揺していたし……。

それに、響哉さんって大人気(おとなげ)なさ過ぎるんだもん。


少しは、彼も一人で考えるべきだわ。


私は夕方の公園で、そんな風に考えていた。


「あの。

 ……二階堂 朝香さん……じゃないですよね?」


そんな私におずおずと声を掛けてきたのは、さっきうちのマンションの入り口で、耳を押さえていた青年だった。


チノパンに縦縞のシャツ。眼鏡に大きな黒カバン。

年の頃は20代半ば……くらいかな。

身長170センチくらいの細身の男は、きょとんとする私を見て相好を崩した。


笑うと少し、印象が変わる。

怖い、から、可愛い、くらいには。


ああ、八重歯が零れたせいなんだ、と気づくまでには少し時間がかかって、それまでに彼は図々しくも私の隣に座っていた。


「まさか、二階堂さんのはず、ないですよね?」


彼はもう一度繰り返す。


「ええ、二階堂 朝香は亡くなりましたもの。

 ……ずっと昔に」


私は精一杯大人ぶった口調でそう言った。


「どうして、二階堂をご存知なんですか?」


ああ、と。

再び青年は相好を崩す。


「古い映画で見かけたんです。自主制作映画だと思うんですけど。……僕、スドーさんにすごく憧れていて。彼の過去の作品を探しまくっていて。その中で、見かけたことがあるんです。

 あまりにも、スドーさんとお似合いだなと思ったので。その。名前まで覚えちゃいました」


照れたように、彼が笑う。


……古い、映画?

私の中で、何かが点滅する。


けれども、今はそれを追及している場合じゃない。


「……キョーヤ・スドーのファンなんですか?」


……追っかけ?


「そうですね、大ファンです」


と、青年ははにかんだような笑顔を見せた。

そうして、襟を正す。


「ファンであることを否定はしませんが、こう見えても僕、記者なんです。

 だからどちらかと言うと仕事で来てます」


それにしても、どうしてこの人は、そんなことをぺらぺらとこの私に話すのかしら。


不意に、彼は声を潜める。


「もちろん、これは僕の個人的興味で決して記事にはしませんが、貴女は二階堂さんとスドーさんの隠し子なんですよね?」


……え?


決め付けられるような質問の仕方に、息を呑むのは私のほうだ。


それが事実だとしたら、響哉さん、実の娘にキス(しかも触れるだけの軽いキスなんかじゃない大人のキス)をしてくる変人ってことになっちゃうじゃないっ。


「大丈夫ですか?

 顔、真っ赤ですよ」


青年の手が伸びてくる。

私は思わずベンチから立ち上がって後ずさる。


「大丈夫ですから、お構いなく。

 それに、私は二人の――」


後ろから伸びてきた手に唇を覆われた。


……きゃぁあっ。


悲鳴さえ上がらない。


「しー。

 大丈夫だから、ね?

 落ち着いて」


背中からは耳に覚えのある声が響いてくる。


……佐伯先生?


解放された私はゆっくり踵を返し、そこに佐伯先生の姿を認めた。息を切らしてきたのか、肩が上下しているし、長めの黒髪も乱れている。


もっとも、普段の白衣姿でもスーツ姿でもなくて、ジーンズにシャツというカジュアルな姿になってはいるけれど。


「おおお落ち着けって言われても。

 突然背中から手が出てきて唇ふさがれたら、動揺するに決まってるじゃないですかっ」


私は思わず声を荒げる。

佐伯先生は、呆れ顔で私を見た。


「……説教なら後でたっぷり聞いてやるから、とりあえず黙ってついてこい」


「待ってくださいよ、彼女、僕と話してたんですよ」


引きずられる私を、青年が止める。

佐伯先生は足を止め、手入れの行き届いた刃物を思わせる鋭い目つきで青年を睨む。


「そう。

 悪いが、俺は自分のオンナが他の男と話と視線を合わせるのさえ許せないタチでね。

 諦めて、とっとと帰りな」


言うと、有無を言わせずに私を引っ張っていく。


公園前に違法駐車してあった彼の車に、乱暴に連れ込まれる。


「……喋っていいぞ」


エンジンをかけて、車を発進させた佐伯先生が、ぼそりと言った。


「……事態が飲み込めません」


私の言葉に、眼鏡の奥の瞳を向けて、僅かに唇を緩ませた。


「奇遇だな。

 俺もだよ。

 仕事をしていたら、須藤 響哉から電話があって、『仕事なんてやってる暇があったら、今すぐ俺の恋人を捕まえてこい』って命令されたんだぜ?」


呆れた口調で言うと、軽く笑う。


「あの、うちは目の前なんですけど」


「知ってるよ。

 でも、マスコミに見張られているって分かったんだから仕方が無いだろう?

 アイツが使える部屋なんていくらでもあるんだから、ケチることはない」


「……どういう、意味なんですか?」


さっきから、変。


「佐伯先生は、響哉さんに命令を受ける立場なんですか?」


「……ったく、お前らは。

 そうやって二人でよってたかって俺を虐めて、なんか楽しいワケ?」


佐伯先生は冗談めかして肩を竦めた。


「そうじゃないんです。

 私、響哉さんのことが分からないんです――」


「突然、ディープキスしてくるから?」


私の発言を遮るように、佐伯先生が言うから、私は弾かれたように顔をあげる。


「……どうして、それを?」


「あのな、俺に覗きの趣味があるとでも思ってるわけ?

 アイツがそう言って来たからに決まってるだろう?

 まったく、何の経験も無い童貞じゃあるまいし……。

 いや、これは失敬」


表現が不適切だと気づいたのか、はたまた、私が生徒だということを思い出したのか、こほん、と、佐伯先生は咳払いをする。


「とにかく、十分すぎるほどオトナなくせに、俺に電話してきて『彼女があまりにも可愛くて、欲情が抑えられなかったから傷つけてしまったんだろうか』って、本気で後悔してたんだぜ?」


……話の内容はともかく、佐伯先生が響哉さんの物真似が上手いことに、驚く私。


……そう言えば。


眼鏡をかけている上に、どことなく冷たい印象があるから、あんまり考えたことなかったんだけど、佐伯先生と響哉さんって……似てる?


私の視線を知ってか知らずか、佐伯先生は乱れた髪をかきあげた。


「俺はてっきりお前らがそういう清らかな関係だとは夢にも思わないじゃない?」


もう、私が自分が勤める高校の生徒だってこと、忘れてますね?

私は相槌を打つのさえ、躊躇われるので、黙って続きを待つ。


「だから、『裸で街の中を彷徨ってるってこと?』なんて聞き返したら、本気で怒鳴りやがって。

 ……今でもまだ、耳鳴りがする」


佐伯先生は片手で大仰に耳を押さえ、眉間に皺を寄せてみせた。

そうして、先生は高そうなマンションの駐車場に車を入れた。

車を停めると至極真面目な顔で私を見る。


「ま、あの年にしては随分子供っぽいヤツだけど、君に対する想いだけは本物みたいだからさ。

 鬱陶しいだろうけど、嫌いじゃなかったら大事にしてやってくれない?」


あまりにも真顔でそんなことを言うものだから、私は息が止まってしまう。


「……さっきから、変ですよ、先生。

 どうしてそんなに響哉さんの味方なんですか?」


「そして、『どうして響哉さんはお金持なんですか?』 って質問は続くんだろうな」


ふぅ、と、先生はため息をつく。


「答えは本人に聞いてくれる? 俺がまた勝手なこと言うと、今度こそ鼓膜破られかねないし、ね」


……残念。


「どうして響哉さんはハリウッド俳優を辞めてもいい、なんて言うのかなぁ」


私は思わずそう呟いた。


「アイツがそう言ったの?」


こくり、と私は頷いた。


「折角アメリカで頑張って成功したのに。

 私のせいで辞めちゃうなんて、困るんですけど」


佐伯先生はふわりとした笑みをその唇にのせる。


「万が一、辞めなきゃなんないとしても、それは花宮のせいじゃない。

 アイツ本人の問題だ。気に病むことじゃない」



そこのマンションでも、最上階に連れて行かれた。

ピンポン、と、呼び鈴を押すと返事もなく玄関が開く。


「お前、無用心……っ」


佐伯先生の言葉に答えることもなく、響哉さんは私を腕の中に抱き寄せる。


「きょ、……響哉さん、苦しいっ」


「マーサ、怪我は無い?

 変なヤツに襲われなかった?」


胸の奥がキュンと痛くなるような、心配そうな声が降って来る。


……響哉さん、過保護過ぎますよっ。


佐伯先生は呆れがちに、とりあえず玄関のドアを閉めると、先に中に入ってしまった。


「大丈夫」


……だから。

  そんなに心配そうな顔で、私を見つめないで。

勝手に出て行った私にも非があるんだから、そこまで手放しにひたすら心配されると、なんだか居心地が悪い。


響哉さんは、私に異常がないことを確かめると、ふぅと安堵の息を吐く。


「俺のこと、嫌いになった?」


そして、今にも割れそうな薄い氷を不安げに眺める子供のように、心配そうに聞いてくる。


あまりにも胸が痛くなって、私は首を横に振るのが精一杯。


それを見つめていた響哉さんは、ようやく形の良い紅い唇にほっとした色を浮かべて、小さな笑みをのせた。


玄関からリビングに入っても、響哉さんは私から手を離そうとはしなかった。


ここも、響哉さんのマンションと同じようにまるでモデルルームのように生活臭がない。


そこで、佐伯先生は珈琲を淹れていた。


「花宮はココアにしようか?」


こくりと頷く私を見てからお湯を沸かし始めた。


珈琲を渡されてもなお、響哉さんは手を離してはくれなくて。


私は仕方がないので左手でココアのカップを受け取った。


視線だけで佐伯先生にSOSを送ってみる。

先生は呆れ顔で肩を竦めるだけだ。


息苦しいほどの沈黙が、部屋を包む。


「公園のベンチでお前に迫っていた男は誰だ?」


ようやくそれを破ってくれたのは、佐伯先生。


びくり、と。

響哉さんの私を掴む圧力が、一瞬強くなる。


「……知らない人。

 多分、私が家を出る直前にうちにインターフォンを鳴らしてきた人だと思うんだけど……」


私はちらりと響哉さんを見上げる。


「……ああ、記者のオダとか言うヤツか?」


「名前は聞いてないんだけど。そうだと思う。

 あの人に、二階堂朝香さんかって聞かれて……」


先生と響哉さんが顔を見合わせた。


「古い映画で見たことがあるって言ってたんだけど。

 ママと共演したこと、あるの?」


「……あるよ」


響哉さんが小さく頷く。


「もちろん、違うって言ったわ。二階堂は亡くなったって伝えたの。

 そしたらあの人、私のことママと響哉さんの子供じゃないかなんて言いだして……」


不意に、私はどきりとして、心に浮かんだ疑問を口にせずにはいられなかった。


「ねぇ、私って響哉さんの子供じゃない……よね?」


「心配しなくても、花宮の顔は真一に似ている――」


佐伯先生がそう言ってくれるのを遮ったのは、響哉さんだった。


「マーサが心配だと言うのなら、DNA検査をしよう」


私の手を掴んでいる熱い手とは正反対の、驚くほど冷たい声で、響哉さんがそう言った。

私は驚いて、二の句がつけない。


「何があったらできるんだ? 唾液か? それとも髪の毛?」


佐伯先生に向けられた殊更冷たい口調は、ひどくイライラしているようにも思えた。


「……響哉さん?」


私は心配になってくる。

……怒らせちゃった?


響哉さんは我に返ったように、私を見つめる。

その唇に思い出したように甘い笑みを乗せて。


「大丈夫。別に痛くないから。数日中には結果が出るよ、マーサ」


「そうじゃないのっ。

 どういう意味?

 響哉さんは、ママと……関係があったってこと?」


その言葉を発したとき、砂でも噛んだ様な嫌な感覚が胸の中一杯に広がった。


響哉さんは一際優しく私を見つめて、そっと頬を撫でてくれる。


「違うよ、マーサ。

 誓ってもいい。俺と朝香ちゃんとは何の関係もない。

 ……でも、マーサは今、俺に対して傍にいたくないほどの不信感を抱いているだろう? だから、この際きちんと科学的な裏づけがあった方が、納得してくれると思ったまでだよ」


「違うっ。

 私、響哉さんに対して――」


不信感なんて持ってないもん、そう言いきれない自分が居る。

だって、正体不明なんだもん。


響哉さんには分からないことが多すぎる。


「だから、ね?」


響哉さんは、淋しさを押し隠すかのように、殊更優しく笑うと、私がまだ手に持ったままの空になったココアのカップをそっと受け取って、手近なところに置いてくれた。


「じゃあ、DNA鑑定のキット、明日準備してくるわ」


佐伯先生が呆れがちに言葉を挟む。


私はどうして良いか分からなくて、とん、と、頭を響哉さんの胸に押し付けた。


頭の中のもやもや、ちゃんと言葉にしなきゃ。


響哉さんがここにいるうちに。


……私は必死に頭の中で、言葉を組み立てる。


「……でも、私。

 響哉さんが『大丈夫』って言ってくれた言葉、信じたよ?

 だから、初めてのその、ああいうキスだって、思ったよりはずっと大丈夫だった、って思ってるもん。

 ……私が今、信じられないのは折角掴んだ映画俳優の座を捨ててもいいなんて簡単に言い捨てる響哉さんの考え方なだけで……。

 絶対にパパじゃないって言うなら、DNA鑑定なんてしなくても、私はそれも、ちゃんと信じる」 


だって、響哉さんが違うって言ってるのに、私は今日、響哉さんはペギーの父親かもなんて思って、彼を傷つけたばっかりで。


それについては深く反省したばかりだもの。

同じことで、二度も傷つけたくは無い。


そう思ったのに。

私が思わずマンションから飛び出しちゃったから、また、響哉さんを傷つけたんだ。




私は響哉さんの胸から顔をあげて、そっと綺麗な頬に左手のひらを当てた。


「……勝手に家から逃げ出して、ゴメンナサイ」


響哉さんは、ゆっくりと首を横に振る。


「何言ってんの。

 マーサは悪くない。悪くない子は謝る必要ないんだよ」


私の右手を掴んだまま、空いた自分の右手でそっと頭を撫でてくれる。


それから、誰にも知られていない山奥の湖畔を思わせるような凪いだ瞳で私を見つめる。


「もしかして、マーサ。

 俺にパパになって欲しいの?

 もし、それがマーサの望みなら、結婚は諦めて、父親になってあげるよ――」


冗談とも気まぐれとも思えない、真っ直ぐな言葉に私は息を呑む。


「それが、マーサの望みなら、俺が叶えてあげる」



嘘ばっかり。


佐伯先生から聞いたもん。

私に対する欲情が抑えきれないって話――。


そんな風に思ってくれてるのに、その想い全部噛み砕いて胸の奥深くに呑みこんで、父親になってくれるって言ってるの――?


私は首を横に振る。


「私には、パパも、お父さんも居るから。

 もう、父親の座は埋まってるの。

 だから、響哉さんの場所はそこじゃないわ」


一生懸命、テンションあげて早口で喋らないと泣いちゃいそう。

鼻の奥がツンとする。


それから、響哉さんの耳元に唇を寄せる。

佐伯先生に聞かれたら恥ずかしいじゃない。


もっとも、既にあきれ果てていた佐伯先生は、リビングから姿を消してくれていたけれど。


「だって、パパじゃキスできないもの」


私の言葉に、響哉さんが破顔する。

その笑顔が、少年みたいに可愛かったから。


彼がものすごく年上だってことも忘れて、私は思わず響哉さんの頬に唇を落とした。

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