18 Deep Kiss-1-

……カレンさんって、元カノ?


気になったけど、何度も聞こうかと響哉さんを見上げたけど、車がマンションの駐車場に着くまでに、それを口にすることは出来なかった。


「マーサ、どこかで時間を潰しておく? 後で迎えに行くから」


響哉さんが私に聞いた。そのくらい、私は不安そうな顔をしていたに違いない。

首を横に振って伸ばされた腕にしがみつく。


私は今の状態で、響哉さんの彼女であると言い切る自信はない。

それでも、事態を見届けたい気持ちでいっぱいになった。



「響哉さんと一緒に居る」


「そう」


響哉さんは相好を崩して、私の頭を撫でてくれた。


「俺のこと、信じてくれるんだ」


流されるように、こくりと頷いて、響哉さんの手を掴む。


「カレンさんは、その、人工授精でペギーを産んだって……こと?」


「恐らくね。

 でも、その話には触れないで欲しい。

 ……ペギーは、そういう目で見られることに、とても臆病になっているから」


「うん」


頷きながら、思う。きっとペギーは響哉さんのそういう心遣いが好きで、Dadって慕ってたんだわ。

その気持ちがよく分かったから、私は玄関を前にして、響哉さんから手を離した。


「マーサ?」


響哉さんが私を見下ろす。


「いいよ、今日はペギーのパパで居てあげて」


「だから、妬くことないって言ってるのに」


くしゃり、と、響哉さんの手が私の頭を撫でる。


「……妬いてなんてないもんっ」


「そう?

 それはそれで、淋しいな」


私を見つめる黒い瞳は、凪いだ海のように穏やかで、ただひたすらに優しさだけを孕んでいる。

いっそのこと、この扉を開けずに二人でどこかに逃げ出せたらどんなにいいかしら。自分の子供じみた考えに苦笑をこぼす。

玄関を開けたら、先日テレビで見た、映画の中で響哉さんとキスしていた女優が立っていた。彼が靴を脱ぐのも待ちきれないというように、べたべたとまとわりつき、そのままリビングへと引っ張っていく。

喋っている言語は英語なのだけれど、あまりにも早口で一部しか聞き取れない。

嵐が過ぎた後のようで呆然と玄関に突っ立っていると、春花さんがやってきてくれた。


「お帰り、真朝ちゃん」


「ペギーは元気ですか?」


「ええ、子供らしく遊んでいるわ。どうして?」


「……いいえ。だったら良いんです」


曖昧な笑顔を浮かべて、ようやく靴を脱ぐ。


そして、春花さんに聞く。


「……カレンさんの言葉、良く聞き取れないんですよね。

 早口だから、でしょうか」


「ああ、それもあると思うけど、彼女、オーストラリア出身なの。だから、イントネーションが違うんじゃないかしら。もっとも、私の英語力も大したものじゃないんだけどね」


春花さんは綺麗な顔に僅かに自嘲的な笑みを浮かべて言った。


……そうだったんだ。


「あの、もう一つだけ、聞いてもいいですか?」


「なぁに?」


「カレンさんって、その。

 響哉さんの元カノですか?」


一瞬、春花さんがぴきんと固まった。


「……なかなか、難しいことを聞いてくるわね、真朝ちゃん」


春花さんは分かりやすく口篭る。


「……付き合ってたって、ことですか?」


「うーん。

 ……ごめん、女子高生にこういう状況をどう説明したら良いのか、私には分からないわ」


春花さんは断言を避けた。


『ハルカーっ。

 MamとDad、喧嘩してるわ』


ペギーがやってくる。

そして、私を見てぷいと顔を背け、春花さんの手を引っ張って行ってしまう。

一人、取り残された私はどうしたら良いのか分からなくなった。

服を着替えて家から抜け出すのが正解なのかも。



『で、彼女がアナタの娘でなく、婚約者だっていう証拠は何?』


結局私は家を出る前に、リビングに居たはずのカレンに捕まってしまった。

うわぁ。近くでみても、髪を振り乱していても、うっとりするような美人だわー。出かけようとしたところを、強引に手をつかまれてリビングに引っ張られているというのに、私の頭は思わずそんなことを考えてしまう。

響哉さんは疲れた子供のように、ソファに座り込んでいた。


『証拠?

 マーサ、おいで』


呼ばれるがままにカレンさんの手を振りほどいて、響哉さんの傍にいく。

響哉さんはソファに座ったまま、私を抱き寄せる。

背中に突き刺さる視線が痛い。

響哉さんは私の顎に手をかけて、唇を近づけてくる。


……証拠って、キス?

ここで、キスを見せ付けようとしてる?


焦った私は、腕の中で身体をよじる。


「マーサ。

 逃げると嘘だと思われるよ」


耳元に囁かれる優しい口調。

天使の誘惑、って例える人がいてもおかしくないような、艶やかで穏やかな声音。


でも、私には悪魔の脅迫にしか聞こえない。

心臓が壊れそうなくらい大きな音を立てていた。


第一、響哉さんはズルい。


キスして見せたところで、カレンさんはどれだけ動揺すると思う?

相手は女優。

好きでもない男とのベッドシーンだって、場合によっては演じる人よ?

だから、どんな濃厚なキスを見せ付けたって、証拠になんてなるわけがない。



……でも。

  ここで私が逃げたら確実に、『響哉さんのことが好きじゃない』って証拠になっちゃうじゃない。

強張っている私の頭を、響哉さんの手が優しく撫でていく。

緊張を解すかのように、細い指先は頬を撫で、唇の輪郭を確かめるようになぞっていく。


私の視界に彼の紅い唇しかうつらないのは、もう、気持ちがそこに集中しているからなのかもしれない。


大丈夫、と。

声を出さないままに彼の唇がそう動くのを見届けて、私は仕方なく瞳を閉じる。


記憶の彼方にぼんやり浮かぶ、響哉さんとママのキスシーン。


……でも、それを覆い隠してあまりある、今朝見た響哉さんとカレンさんのキスシーン。


演技なのに。

お芝居なのに。


胸が痛みを訴えた。


いくら、私が恋に疎くたってそれが、「嫉妬」という感情だと分からないはずがない。



嫉妬心を抱くほどには好きになった人を、キスが怖いなんていう子供っぽい理由で失いたくなくて。

私は必死に、瞳を閉じた。


ゆっくりと唇が触れる。甘い衝撃が身体の中を駆け巡っていく。


逃げ出せないように私を抱き寄せた響哉さんは、唇を離す様子もない。


それどころか、私の唇を彼の舌がなぞっていく。


「……っ」


驚いて思わず開いた口内に、無遠慮なほどに差し込まれる舌。


「んっ……っ」


言葉にならない声が、甘ったるい色を帯びて鼻から抜けていく。

もがけないほどに強く抱き寄せられ、酸素を求めて唇を開けば開くほど、彼の舌は私の口の中へと進入していく。


……頭が真っ白になっちゃう。


湿った音と、荒い呼吸が部屋を満たしていく。

まるで、ここには二人しか居ないかのような、濃厚な、長いキス。

舌が私の歯をなぞっていく。


……違うっ。

ねぇ、キスってこんなに長くて、こんなに熱くて、……こんなに熱烈なモノなの?


身体は、溶けそうで。

頭は、真っ白で。


出来れば今すぐ逃げ出しちゃいたいくらいの衝動に襲われながらも、私はなされるがままに身を任せるほか、どうにも出来なくなっていた。


「××××××」


カレンさんが何事か言ったのが耳に入る。


ふざけんな、バカ。とか、そういう感じかしら。

言葉は分からないけれど、罵ったということだけは、ニュアンスで分かった。


そうして、彼女が出て行く足音。

それを追っている春花さんの声。


それらが遠くから聞こえてくる。


……もう、駄目。

私、酸素不足で死んでしまうわ。

くらりと私が力尽きるのを待っていたかのように、響哉さんが唇を離す。


二人の間を唾液が糸のように繋いでいる、なんてゆっくり観察する余裕もない。


「私、カレンとペギー、送ってきますねっ」


玄関で春花さんがそう言っている。


「よろしく~」


響哉さんは、ことさら声を張り上げるわけでもなくそう言うばかり。


「見送らなくていいの?」


私はくたっと、響哉さんにもたれながら、そう聞くのが精一杯。

顔はきっと、風邪でも引いたかのように紅くなっているに違いない。

「どうして?

 俺はマーサが傍に居てくれれば、他に何もいらないのに」


髪や背中を撫でながら、響哉さんが不思議そうに聞く。


……大人としてそれで良いのかしら。


「だって、仕事に差し支えるんじゃないの?」


カレンさんは、あの映画で主人公だったもの。

きっと、脇役だった響哉さんよりずっと有名で、ずっと発言力があるに違いないわ。


「それならそれで、いいよ」


なんでもないことのように響哉さんが言う。


「良いわけないじゃないっ」


……必死になってハリウッドで俳優の座を掴んだんじゃないの? それをあっさり投げてもいいって言うの?


「どうして?

 俺は本気でマーサが望むなら日本で暮らしてもいいと思ってる。

 俳優業なんてどうせ……」


私は響哉さんの手を振り切った。

一歩後ろに後ずさる。


「響哉さん、どうして、そんなこと言うの?

 ハリウッドで折角頑張って掴んだ地位なんだよね?

 私のせいで、響哉さんがそれを失うことになっても、困るんだけどっ」


「マーサ、そうじゃなくて」


私はもう、彼の話を聞いてなかった。


ピンポーン


タイミングよく呼び鈴が鳴る。この音は、玄関からじゃなくて、1階からだわ。


響哉さんが渋々インターフォンに出た隙に、私は外に飛び出した。


何処に行くかなんて、あてはなかったけれど。

今は家に居たくなかった。

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