13 幸せの香り-3-

「……っ」


ふわりとした、コーヒーの香りに瞳を開く。私はもう小さな子供じゃなかったし、パパもママもいない。また、響哉さんのベッドに戻されていた。

そして、ものすごく近くに響哉さんが居てびっくりする。


「きょう……っ」


唇にほんのりと残るコーヒーの苦味は、夢のせいなんかじゃない、よね?

私は思わず唇に指をあてる。でも、もちろんそれで真実が分かるはずなんてない。


「響哉さん、今、キス、した?」


響哉さんは僅かに形の良い瞳を丸く見開いて、それからそっと私の頭に手を当て


「してほしい?」


と、耳に心地良い声で囁いた。


慌てて首を横に振ると、そっと頬に唇が落とされる。それだけで、電気に似たくすぐったさが全身を駆け巡っていく。でも、恐れていたような嫌悪感は感じなかった。


「春花さんは?」


「タクシーで帰した」


「響哉さんは、いつ、帰ってきたの?」


「夜の間」


「仕事、大丈夫だった?」


「心配いらないよ」


響哉さんは、夢で見たのと寸分変わらぬ優しさだけで作ったような甘い笑顔を浮かべる。でも、その瞳は少し紅く、睡眠不足を物語っている。枕もとの時計に目をやれば、時刻は朝の4時だった。私は夢で見たのと同じように、響哉さんの腕にしがみついてみた。響哉さんは形の良い瞳を見開く。


「コアラ、みたい?」


笑って聞きたかったのに。言葉にした途端涙が溢れてきた。ぎゅっと瞳を閉じると、涙が頬を伝って落ちて行く。

もう、戻らない遠い、幸せだった日々。消えてしまって二度と手に入らない日々なんて、思い出したくなかった、のに。


「コアラよりずっと、マーサの方が可愛いよ」


響哉さんの声音も切なさを帯びていた。


「キョー兄ちゃんって呼んでた頃のこと、夢で見たの。

 はっきり、見たの。

 忘れていたはずの、パパやママの顔はぼんやりとしか見えなかったけど。

 ……でも、声は聞こえたの。はっきりと」


響哉さんがぎゅうと私を抱きしめる。


「ごめんね、マーサ。

 全部、俺のせいだから。

 もし、泣いて気が済むなら、気が済むまで泣けばいい。

 怒って気が済むなら、好きなだけ怒っていい。


 だから。本当にごめんね、マーサ」


囁く声は、泣いている私の声よりもっと、潤んでいるように聞こえた。

私は、ぐしぐしと手の甲で涙を拭いた。


「……どうして、響哉さんが謝るの?」


そんなに痛みを帯びた声で。何を後悔しているの?


「俺が、マーサの元に現れなければ記憶は封印されたままだったのに……」


ぽつり、と、響哉さんが小さく呟く。

その表情があまりにも痛々しくて私は一瞬、胸が詰まる。


「ごめんね、マーサ」


響哉さんは謝罪の言葉を繰り返す。その声は重たく沈んでいた。

彼の姿は、夕方追いかけた彼の背中を私に思い出させた。


このまま、また私を置いてどこかに行っちゃいそうに見えて、私はとっさに彼の背中に手をまわす。


「……真朝、ちゃん?」


響哉さんは驚愕を隠さない声をあげた。


「だからって言って、今更いなくなったりしないでよ?

 もう、記憶は閉じられないんだから。今更響哉さんが居なくなったら、私、困る」


小さい頃は、ただ、去り行く背中を眺めて泣くことしか出来なかったけれど。

今は違うわ。ちゃんと、自分の気持ちを言葉に出来る。

だから、勝手に響哉さんが居なくなる前に、ちゃんと気持ちを伝えとかなきゃって。そう思ったら、淀みなく言葉が出てきた。

響哉さんは目を細めて、私を見つめた。唇には、甘い笑みを浮かべている。

そうして、その紅い唇で私の頬にキスを落とし、そのまま耳元で囁いた。


「唇に、キスしてもいい?」


心臓が、馬鹿みたいに煩い音を立てて、痛いほどに鳴り響いている。


響哉さんの眼差しは、蜜でも溜め込んだかのように、うっとりするほど優しいもので、決して私に何かを強要しようとしているものなんかじゃなかった。

だから、私は返事をする代わりに、ゆっくり瞳を閉じる。思い出の中で、何度見ても、キスの感覚は思い出せないから、実際に、重ねてみるほかないじゃない?


「大好きだよ、真朝」


低い声が耳元で響いた後、柔らかいキスが私の唇に、そっとそっと落とされた。


それは、思ったほど痛くも怖くも、辛くもなくて。ただ、ひたすらに甘く、優しい熱を帯びていた。

私も好きって言うのが照れくさくて、コアラさながらに響哉さんの背中に手を回す。響哉さんは、私を抱きしめ、優しい手つきで髪を撫でてくれる。


夜明けまで、もうしばらく、夢の中をまどろんでいられそうな気がした。

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