13 幸せの香り-2-

あれは、まだ、幸せが日常だった頃。

それ以外の状態を、何も知らなかった頃。


『真朝ちゃんは、誰が好きなのかなー?』


その声は、多分パパのものだ。


『キョー兄ちゃんっ』


無邪気な舌足らずの声が響く。


『違うだろ~?

 真朝ちゃんが、大好きなのはパパとママ、ね?』


パパの隣で、ママはクッションを抱きしめて笑っている。

すりガラス越しに見ているようなぼんやりとしたシルエットだ。


『そういうのって、押し付けるものじゃないわよ、真(しん)ちゃん』


『朝香ちゃん。

 こういうのこそ、最初が大事なんだ。

 でないと、俺と真朝が腕を組んでバージンロードを歩いた先に、響哉がいる、なんていう不幸が起こらないとも限らないじゃないか』


『あっら。

 別に不幸ってほどのことじゃないじゃない。

 それに、まだ20年も先の話よ?

 それまでには、真朝の世界だっていっぱい広がってるわよ。

 ねぇ、真朝ちゃん』


髪を柔らかく撫でてくれるのは、ママ。


『それに、それまでに須藤くんの方が結婚してるに決まってるわよ』


『本気で言ってるの、それ?』


驚くパパに対して、ママはおっとりと笑っているのだった。


『今の話の何処に冗談を挟む隙があるっていうの?

 何なら、うちの大学のミスコンとの合コン話、須藤くんに教えてあげればいいじゃない。向こうは喜ぶと思うわよー』


ふう、と、パパはため息をついた。


『そうだな、試してみるか』


後日。

パパにその話を持ちかけられたキョー兄ちゃんは、私を膝に抱いたまま、


『興味ないね』


と、言い放った。


『何でだよ。

 サヤカちゃんなんて、絶世の美女だぜ?

 お前だって、今年のガクサイで見ただろう?』


『見たよー。

 ついでにいえば、その合コン話だって、本人から直接頂きました』


『じゃあ、行ってみればいいじゃんかっ』


『そうやって、サヤカ嬢に俺を押し付けようとしてるだろう?

 お前の魂胆なんて、分かりやすくて笑っちゃう。

 合コンは、マーサちゃんとしかしないって決めてるんだから、ねぇ?』


二人の会話の内容なんて、これっぽっちも分からなかったけど、キョー兄ちゃんに名前を呼ばれた私は、それだけが嬉しくて顔をあげた。


『ゴーコン?』


意味不明の単語に、私は首を傾げる。


『変な単語を教えんなっ』


パパが喚く。


キョー兄ちゃんは私の瞳をのぞき込んでふわりと笑った。

世界の何もかもが溶けてしまいそうな、甘い笑顔。私が今見ているのは、すりガラス越しの世界なのに、キョー兄ちゃんの顔だけは特別鮮明に見える。


『そう。合コン。

 大きくなったらおにいちゃんとしようねー』


こくりと頷いたのは、理解したからじゃなくて、その笑顔が好きだったから。

キョー兄ちゃんは私が頷いたのを確かめてから、パパに目をやった。


『変な単語なんて心外な。

 世間知らずのお嬢さんに仕立てたほうが、よっぽど心配じゃないか。

 それとも、四六時中傍につきまとい続けるつもり?

 そういうオヤジは嫌われるぞー』


『……うっ。

 嫌われるのは、困るな』


口篭る、パパの後ろでママの笑い声が響く。


『ダメじゃない、シンちゃん。簡単に言いくるめられてちゃ。

 須藤くん、コーヒーで良い?』


『ありがとう。

 でも、マーサを膝に抱いたままじゃ、危なくて』


『あぶなくないもんっ』


話の全貌は分からなくても、子供扱いされていることは分かるしそれは不満だった。私は大人たちと何も変わらぬ等しい立場だと信じ切っている。

ソファに下ろされた私は慌ててキョー兄ちゃんの腕に両手で抱きついた。


『あら、真朝ちゃん、コアラみたい』


ママがテーブルにコーヒーを置きながら、無邪気に笑った。

私に用意されたのは、プラスチックのコップに入ったオレンジジュース。


『コアラ?』


キョー兄ちゃんは、そこらへんに投げてあった絵本から、動物が乗っているものを探し出して、それを見せてくれる。

鼻が黒くて大きい、ねずみ色の生き物。


『マーサ、こんなんじゃないもんっ』


膨れる私。それを見て、笑い合う三人。

狭い部屋に漂う、コーヒーの香りは幸せの象徴そのものだった。

コアラと一緒にされるのが嫌で、キョー兄ちゃんから手を放し、渡されたオレンジジュースを飲む。いつまでも私が頬を膨らませているので、コーヒーを飲み終わったキョー兄ちゃんは再び私を抱き上げてくれた。そうして、私の頬を両手でそっと挟み、顔を覗き込む。


『コアラより、マーサちゃんの方が、ずーっと可愛いよ』


言うや否や、パパが止めるより前に、キョー兄ちゃんは私に小さなキスをした。

僅かに感じた、コーヒーの苦味は小さな小さな私にとって憧れの大人の味だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る