13 幸せの香り-1-
「私、本当に料理苦手なのよねー。
どうりで、社長が振り向いてくれないはずだわ」
春花さんが小さく呟いた。それはきっと、そこまで深い意味のないヒトリゴトに違いない。
けれど、聞いてしまったものは、無視するわけにはいかなくて私は濡れた春巻きを箸で弄びながら口を開く。
「響哉さんって、アメリカでそんなに人気なんですか?」
春花さんは、目を丸くしてしげしげと私を見つめた。それから、気が抜けたようにふっと息を吐いて、笑みを浮かべた。
「そうね。
アメリカでも人気だし、日本でも人気よ」
「失礼な話なんですけど、私、全然知らなくて。
響哉さんのことも、全く記憶に無いんです。
知っていること、是非、教えていただけませんか?」
「そうねぇ」
春花さんがゆっくりと首を傾けた。艶やかな髪がさらりと揺れる。
「社長は日本のワイドショーに頻繁に取り上げられていた時期もあるから、きっと。
ご両親が真朝ちゃんの目に触れないように配慮していたのかもしれないわ」
そうなのかな。でも、それだけでこれほど世の中に溢れかえっている情報が完璧にシャットダウンできるものなのかしら。
私は無意識的に響哉さんに関わる情報をシャットダウンしていたとしか思えなかった。
でも、何の為に……?
両親の記憶に直結するから……?
「春花さんって、響哉さんとの付き合いは長いんですか?」
私の質問に、春花さんは僅かに微笑む。
「正直に言えば、真朝ちゃんと響哉さんとの歴史にはわずかに及ばないかな」
それが、嫌味なのか謙遜なのか。掴みきれなくて私は曖昧に笑う。
「一緒にアメリカで仕事をされていたんですか?」
「ううん。
私は日本の会社で働いているの。
幾度か出張でアメリカに行ったことはあるけれど、基本的にはこちらで仕事をさせてもらってるわ。
大学時代、社長の後輩だったの」
「じゃあ、パパとママのことも知ってる?」
「少しはね。朝香先輩は面倒見のいい姉御肌だったわ。
真一先輩はーーどうだったかしら」
かすかに気まずい空気がダイニングに漂う。
パパはあまり、印象に残らないタイプの学生だったのかもしれない。
「響哉さんは、どんな学生だったんですか?」
私は話をつなごうとどうでも良い事を聞いてみた。
「そうねー。
アメリカでプロの俳優になるんだーっていう夢にもえてる向こう見ずな青年って感じかなぁ。
小さな女の子のことをフィアンセだって断言してみたり。……ああ、もちろん真朝ちゃんのことよ。
怜悧そうな外見とは裏腹なところに、ギャップがあって惹かれちゃったなー、あの頃は」
春花さんは、私に語るというよりむしろ、ヒトリゴトのようにそう話す。
「今でもお好きなんですよね?」
ここにきて、私に対して響哉さんへの気持ちを隠す気がさらさらないんだとようやく気が付いた私は、春花さんに、つい、そう切り出してしまう。あら、と小さく呟くと春花さんは仕事中に見せる鋭い眼差しで私を射抜いた。
「そうよって言ったら、譲ってくれるの?」
ズキン、と。心臓が射られたかのような鋭い痛みが走る。
……あれ?
なんだろ、この痛み。
「譲るも何も。
響哉さんは、別に私のモノってわけじゃないですし」
やれやれ、と春花さんは苦笑を浮かべる。
「そういうの、本命彼女の余裕って言うのよー。
あまり見せ付けると、怒りを買うってこと覚えておきなさい」
ぴこり、と。春花さんは私の額に軽いデコピンをくらわせてくる。
「な、何するんですかっ」
予期せぬ接触に、別に痛くはなかったけれど、思わず頬が赤らんだ。
「あっは。
そういうのって、こう、構っちゃいたい気持ちをくすぐるのよねー。
いいわぁ、ほぉんっと、腹が立つほど可愛らしいっ」
笑い声と怒りの声を、見事にコントラストさせながら、春花さんが言う。
「……っていうか、酔ってます?」
春花さんは綺麗に飾られた爪で、二本目のビールのプルタブを開けていた。
「大人が飲んで、何が悪いのよ」
「いえ、別に」
悪くは無いけど、酔ったからと言って未成年に絡むのは、その。
いかがなものでしょうか?
「大学を出てからずっと、響哉さんのところで働いているんですか?」
「違うわ。
とある商社で秘書をしてたの。そしたら、ある日電話がかかってきたのよね。
須藤先輩から」
遠い日を懐かしむように、春花さんは瞳を細めた。
「アメリカで、軌道に乗ってきそうだから先手を打って日本に事務所を作りたいっていう話でね。
だから、思いきって私、手伝わせてもらうことにしたんだ」
どこか誇らしげに、春花さんが言う。私の知らない、『須藤 響哉』がそこにいて、何故だか少し切なくなる。
春花さんは私の無言を、どう思ったのか。変わらぬ口調で話を続ける。
「仕事でもなんでも、夢中になったら突っ走っちゃうタイプなんだよね、先輩は。
大学時代はどっからどうみても、朝香先輩に夢中だったって話も聞いたことがあるなぁ」
……ママに?
「聞いた噂では、想いを告げる直前に、妊娠を知ってしまって諦め切れなくてつきまとってるって……あ、これは言葉が良くないわね。
親しくしているって言ってたんだけど」
ガタン、という音が。
自分がテーブルに突っ伏した音だということに気づくまでに、数秒の時間がかかった。
だから、気づいたときには春花さんの声が耳に入っていた。
「あら?
真朝ちゃん、大丈夫?酔っちゃったのかしらって、真朝ちゃんは飲んでないわよねぇ」
春花さんは心配そうな口調ではあるけれど、のんびりとそんなことを呟いていた。
大丈夫ですって、言いたかったのに。
急速に世界が暗転していく。
ママのことが好きだったけど、手に入らなかったから、私に乗り換えた……ってこと?
ねぇ、そう言ってるの? 春花さん。
聞いてみたいけれど、唇が動かない。闇が迫ってくる。その闇に抵抗する方法が分からなくて、私はすぅと気を失った。
「すみませんっ」
「……もういい」
そんな声が、どこか遠くから聞こえてきた気がした。
ほんの一瞬。けれども、意識はすぐに、深い海の底に引きずられるかのように、まどろみ始めて、覚醒できない。
否、海の底っていうよりも、こたつの中って言った方が適切かもしれないわ。
温かくて、気持ちいい。
懐かしくて、心地いい。
ずっとずっと、昔。私はここで、まどろんでいた。
それは、まだ。たくさんの大人に守られて、不安や心配なんていう言葉さえ、知らなかった。
遠い遠い、昔のお話。
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