12 追えない背中
『キョー兄ちゃんと会うから、遊べないのーっ』
私は無邪気に笑って、梨音に言う。梨音の、淋しげな顔に気づくような心遣いは持ち合わせてなかった。頭の中は、もうキョー兄のことでいっぱいだ。
『ただいまぁ。
あー、キョー兄っ』
私はその人に抱きついた。夢の中ではシルエットでその姿ははっきりと見えない。
『お帰り、マーサ。
こらこら。
靴は玄関で脱がないと』
『だぁってっ』
唇を尖らせる私を、その人は抱き上げたまま玄関に連れて行くと慣れた手つきで小さな靴を脱がせていく。
『あら?
須藤くん。玄関で何やってんの?』
懐かしいママの声に夢を見ている私の、心臓が軋み息が苦しくなる。あの事故以降、私ははっきりと両親のことが思い出せないでいるから。
『ん? 俺と将来一緒にアメリカで暮らすために、日本家屋にも関わらず靴を脱がないかわいこちゃんに日本のルールを教えていたところ』
『あら。須藤くんって、海外留学でもするの?』
私を抱いている人が、ゆっくり振り向く。
彼に抱き上げられている私の視線の先にも、ママが見えるはず、だ。
……なのに。
そこにあったのは、ただの白い光。
痛むほど強い光に私はたまらずぎゅっと瞳を閉じる。
その光の奥に見えたのは、誰かと誰かのキスシーン。
……ズキン。
頭が痛い。
……ズキン。
胸が痛い。
いや、私、光の海に、溺れちゃうっ!
+++++
「真朝っ」
何度も、何度も心配そうな声が私の名前を呼ぶ。
全身を揺さぶられて、私はようやく目を開けた。そこは、夢の中ではない。私はもうとっくに高校生になっていて、母親の影など見ることもできない現実の世界だった。
「キョーに……っ」
ベッドの傍に座っている響哉さんに手を伸ばして抱きついた。
好きとか、思い出したとか、そういうのじゃなくて。海で溺れた人が、木片にしがみつくように、私はただがむしゃらに響哉さんにしがみついていた。
「大丈夫。
傍に居るよ、マーサ」
響哉さんは私を抱きしめて、髪を撫でてくれる。ここは響哉さんの寝室だ。まだほんの少ししか過ごしていないこの部屋をとても懐かしく感じるのは何故だろう。
「いつだって、どこでだって、好きなだけ泣いていいんだよ」
思いがけず静かに囁かれた言葉には、親愛の籠った温かい響きがあった。
途端、考える間もなく瞳から涙が溢れていく。できるだけ人前で泣かないでいようと思ったのは、泣いても何も変わらないどころか周りに心配をかけるだけだと気付いたからだ。閉じ込めた感情をずっと、見ないふりで生きてきた。
映画を見ないのも、本を積極的に読まないのも、感情に不用意な刺激を与えたくなかったから。
「ずっと、夢なんて見なかったのに。
夢にママが出てくるの……っ」
涙とともに言葉まで零れ落ちていく。
しゃくりあげながら喋る私の頭を、響哉さんは撫でてくれる。
「折角忘れてたのにっ」
ふいに居なくなった大事な人たち。
居なくなったことに、耐え切れなくて全て、自分の中でなかったことにした。
そうやって厳重に封じ込めていた記憶の断片が、どうして今になって零れていくの……。
「辛い?」
私は頷くことも出来ずに、額を響哉さんの胸につける。
「ごめんね、マーサ」
思いがけず、耳元で懺悔にも似た声で謝罪の言葉が響いてきた。
「響哉……さん?」
私は驚いて顔をあげる。どうして、響哉さんが謝るの。
どうして、そんなに痛みをこらえるかのように辛そうな顔をしているの……?
驚いた表情のまま、固まった私を見て響哉さんはしばらくの後、ふっと表情を和らげた。何か言いたそうに言葉を捜していたが、諦めたように微かな微笑をその口許に浮かべて、いとおしそうに私の頭を撫でた。
まるで、遠くの人を見つめるかのような眼差しに不安が過り、ぎゅっと響哉さんの手を握ろうとした。
そのとき、沈黙を引き裂くかのように、響哉さんの携帯電話が鳴り私は響哉さんの手をつかみ損ねてしまった。
「はいはい。
何失敗してんだよ。もぉ――。
なんとかなんないの? 分かった、俺が行く。
代わりにうちでお姫様のことみててやってくれない?
よろしくね。いいよ、自分で運転するから。
夕食作れたっけ? じゃあそれ頼むね。添い寝はいいから」
そこまで言った後、不意に響哉さんが電話から耳を放した。受話器の向こうから、喚き声に近いものが聞こえてくる。響哉さんはしばらくそれを眺め、収まるのを待ってから耳を戻す。
「……俺の耳を壊す気か」
低い声でそう言い放つと、電話を切った。
それから、私に視線を戻す。ふわりと浮かべる笑みはいつもの通りなのに、瞳はやっぱりどこか寂しそうな色を湛えたままだ。
いつもの自信に満ちた響哉さんとはまるで別人。
「響哉さん?」
「ゴメン、マーサ。
仕事に行かなきゃいけなくなった。
代わりに、春花にここに居てもらうから」
「私、一人でも大丈夫だよ?
お仕事、大変なんでしょう?」
「いや、そっちは大丈夫。
それより、また急にマーサが倒れるほうが心配だ。
何時になるか分からないから、先に眠っておいて」
じゃあね、と。響哉さんはスマートな身のこなしで部屋から出て行く。
私は焦る気持ちで、ベッドから抜け出した。くらり、と、一瞬足元がよろける。
一度ゆっくり瞳を閉じて立ちくらみを凌ぐと、響哉さんを追った。
響哉さんは、実家に私に逢いに着てくれたときのようなダークスーツに着替えていた。
「マーサ、寝てないと」
一瞬驚いたように瞳を見開いた響哉さんは、直後子供に向けるような笑顔を浮かべて言った。それは、今までの笑顔に比べて明らかによそよそしいもので、私は胸騒ぎに似た薄い不安感に襲われる。
なんで?
目の前に居るのに、スクリーンの向こうにいるみたいに、遠く感じるよ……。
ピンポーン
呼び鈴が、二人を引き裂くかのように冷酷に鳴る。
「相変わらず仕事が早いねぇ」
響哉さんはひとりごちながら玄関へ向かう。
「社長、お待たせしました」
ドアを開けば、春花さんがそこに立っていた。
「本当にご一緒しなくてよろしいんですか?」
「彼女を見ていてくれないと、不安で仕事に手がつかない」
そう言ってから、私に視線を戻す。
「ゆっくりおやすみ、マーサ」
「響哉さんっ」
私は耐えられず響哉さんに手を伸ばす。
「どうしたの?」
「どうして?」
驚いた顔をするなんて、ひどい。自分で絶対に、分かっているくせに。
「余所余所しいから」
私は現状にぴったりの言葉を探し出して口にした。
ピキン、と、音を立てて空気が凍る。
「ま……」
響哉さんの瞳が揺らぐ。
それを阻止したのは春花さんだ。
「ほら、社長。
時間がないんです、早く行っていただけますか?
でないと、さすがの私のパパラッチを抑え切れません」
響哉さんは肩を竦めた。
「相変わらず、人を脅すのが上手いねぇ」
「……心外です」
響哉さんは春花さんの強い視線に押されるかのように、踵を返した。
一歩ずつ、その背中が私から遠ざかっていくのを、ただ黙って見送ることしか出来ないの――?
そう思った途端、フラッシュバックに襲われた。
脳裏に浮かぶのは、セピア色の光景。
スーツケースを引きずっている、背の高い青年の背中が、人ごみの中に消えていく。
『やぁだ、マーサもキョー兄とアメリカにいくのっ」
アメリカが何たるかをあまり理解しないままに、駄々をこねる子供の声。
だけど、幼い私は一歩も動けない。
誰かが強い力で私を抱きしめているせいだ。
……キョー兄ちゃんが消えちゃうっ。
考えるより前に、走り出していた。
もちろん、今は誰が私を抱きしめているわけでもないので、走った分だけ前に出る。
「キョー……っ」
私の声に、振り向く響哉さんの姿は、まるでスローモーションのように見えた。
響哉さんは私の腰に手をまわし、瞬く間に抱き上げた。
「小さい頃は玄関で靴を脱がない子だったけれど、大きくなったら外に裸足で出かける子に育っちゃったかな?」
柔らかい声が耳を擽る。
「真朝さん、社長の邪魔をされるととても困るのですが……」
春花さんが戸惑いがちにそう言った。
「……ごめんなさい」
「真朝は悪くないよ」
思わず謝る私にそう言うと、お姫様抱っこをしてくれた響哉さんはそのまま玄関へと戻る。
「……こういうところを写真にとられて、安い週刊誌であることないこと書かれてもよろしいんですね?」
春花さんは冷たく言う。
……どうしちゃったんだろう、私。
響哉さんが急に余所余所(よそよそ)しくなって、不安でたまらなくなって、気づけば靴も履かずに外に走り出て、その腕に抱き上げられている。
いくら不安に駆られたからといっても、なんて冷静さを欠いた子供じみた愚行に走っちゃったんだろう。
我に返った私は強引に口角をあげて、響哉さんを下から見上げた。
「ごめんなさい、なんでもないの。昔の映像がフラッシュバックして、つい、混乱しただけだから。
だから、気をつけて行って来て」
響哉さんは優しさを閉じ込めた瞳で私を見つめ、蕩けそうな笑いを零した。
「わかってる。絶対にここに帰ってくるから。良い子で留守番していてね」
私を玄関に置くと、くしゃりと髪を撫でて今度こそ本当に出て行った。
「あ、あの。
私、足洗ってきますねっ」
いつも怖い顔で響哉さんを睨んでいる春花さんにどんな顔で向き合ったらよいのかわらずに、俯いたままそう言った。
とはいえ、足を洗い終わったらもちろん、二人きりで留守番なんだわー。
なんか、気まずいかも。私はどきどきしながらリビングに戻る。
「お帰り。大丈夫だった?
私も真朝ちゃんって呼んでもいいかしら? この前は気付かなくてごめんなさいね。花宮 真朝ちゃんなんだよね」
……別人?
私は思わず目を見開いた。
いつものびしっと着こなしていたダークスーツのジャケットを椅子の背もたれにかけ、花柄のエプロンをつけてる時点で、相当雰囲気が柔和に見える。
私の驚きを察知したのだろう。春花さんはくすりと笑う。
笑うと本当に別人なんだもん。
「仕事とプライベートで雰囲気を変えるのは常識よ?
それに、真朝ちゃんは社長と違って私を困らせたりはしないでしょう?
実は私、料理苦手なんだけど、麻婆豆腐の素を使ってちゃちゃっと料理してもいいかしら」
「もちろんです」
「よかった。ねぇ、真朝ちゃんはどれが好み?
よく分からないから全部買ってきたんだけど。」
言って、春花さんはずらりと並べた。
私は唖然とする。だって、普通、同じシリーズの違う味付けだけ買って置けばそれで十分じゃない?
でも、春花さんは多分、目に付いた「麻婆豆腐の素」全部買っちゃったみたいなんだもん。
私はその中から一つを選んだ。
「これです」
了解、というと、春花さんはまるで何かのマニュアルにでも目を通すかのように真剣な顔で、麻婆豆腐の作り方を読み始めている。
本当に、一度も麻婆豆腐を作ったことがないんだろうな、と、私にも伝わるほどの真剣さ加減だ。
「あ、あの。
私作りますから、座っていてくださいっ」
「ええ?
そんなことしたら社長に怒られるから」
「いいえ、大丈夫ですっ」
むしろ、慣れない人にキッチンに立たれるほうが怖いです。
「せっかく張り切ってきたのになぁ」
と、ぶつぶつ言っている春花さんをダイニングに置いて、麻婆豆腐を作る。
ま、相当豆腐はぐちゃぐちゃになったけど、味は悪くないからいいよね?
春花さんは、独特のセンスで買ってきた中華系惣菜を皿に並べていた。
冷やし中華の周りをぐるりと揚げ春巻で囲むので、パリパリの皮は汁に浸り、別の何かに変貌しつつある。
私は、
「お皿洗うの面倒だから、パックのままで並べません?」
と切り出して、杏仁豆腐とエビチリの不気味なコラボレーションを阻止しなくちゃいけなかった。
どっちも好きなんだけど同じ皿に並べるのはちょっと、違うと思うんですよねー。
「それもそうね」
春花さんが動きを止めてくれて、心底ホッとしたのだった。
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