10 How are you?
――翌朝。
私たちは、ピンポーン ピンポーンという、暴力的なほどしつこい呼び鈴の音に叩き起こされた。
「Shit, f××k……」
忌々しそうな口調で、うっかりひとりごちた響哉さんは、瞳を開けるなり私を見て、まるで違う雰囲気で微笑んだ。
「おはよう、マーサ」
その代わりぶりたるや、見事なものでなるほど俳優を生業としているというのも頷ける気がする。響哉さんは逃げる間もない素早さで私の額にキスを落とすと、柔らかく微笑んで
「まだ寝ているといい」
と囁き、くしゃりと私の髪を撫でてから昨夜電源ごと切ったスマートフォンの電源を入れた。
「おはよう。
日曜日に呼び鈴で人を叩き落すとは、随分出世したものだな。
ああ。それは誰かがカレンにこの番号を教えたからだよ。すぐに新しいのに変えてくれ。
日曜日は働かない主義なんだ。言ってなかったっけ?
……断る。
それをなんとかするのがお前の仕事だろう? じゃ」
響哉さんはほとんど一方的にそう言うと、電話を切った。当たり前のように、電源ごと。
「それで、今日はどうする?
ここでゆっくり過ごす?」
色気のある瞳が至近距離で迫ってくる。反射的にのけぞろうとした私を見て、形の良い赤い唇が甘い笑みを浮かべた。
「お、起きるに決まってるでしょう?」
私はするりと響哉さんの腕から抜け出すことに成功した。
心を許すと、一気に物理的な距離まで縮まりそうで今はまだそれが少し怖い。
朝の身支度を整えてブランチを取る。
リビングにのんびりした時間が流れていく。
「今日は何処に行こうか?」
デートの誘いを思わせる、魅惑的な笑顔。
「……お仕事、なんですよね?」
「日曜日くらい、俺の自由にさせてもらってもいいだろ? 日本人って本当、ワーカホリックなんだから」
言って、響哉さんはくすりと笑う。
改めて見つめれば、その大人びた仕草も、整った顔も、ため息が出るほど素敵だと思う。テーブル一つ挟んで眺めるくらいの距離感が、今の私には一番心地良いのかもしれない。
「響哉さんって、日本人じゃないの?」
言葉尻を捉えて聞いてみる。
「もちろん、正真正銘の日本人だよ。どうして?」
「だって、昨夜ものすごく流暢に英語喋ってたじゃない」
響哉さんはなんだそんなこと、と言わんばかりに涼しい笑みを見せた。
「必要に追われれば誰だって喋れるようになる」
そんなもんなのかなぁ。私はそれ以上追及することができなくて、オレンジジュースをごくりと飲み干した。
のんびりとブランチをすませ、少しお出かけしようという話になって、扉を開けた瞬間。そこにグレーのスーツをパリっと着こなした美女が立っていて驚いた。
「あの、どちらさまですか?」
「驚かせてすみません。社長はご在宅ですよね?私、秘書の葛城(かつらぎ)です」
抜かりないメイクで、緩やかに微笑み、丁寧な口調でそう言われる。
「マーサ、どうしたの?」
玄関を開けたまま立ち尽くしている私に声を掛けてきた響哉さんは、葛城さんを見るや否や私を玄関の奥へと連れ込んだ。
響哉さんがドアを閉めようとする直前、がつんと女性の脚がドアの中に入り込んだ。
ストッキングにハイヒールがうちの中に入っている。
「……春花、それは、女性にあるまじき行為だと思うぞ」
響哉さんは呆れ混じりに言う。
「社長が私を女性だと認識してくださっているなんて思いませんでした。光栄です」
葛城
「なるほど。訂正しよう。
不法侵入は、性別関係なく、人としてあるまじき行為だ」
一方の響哉さんはにこりともせずに冷たい言葉を投げつける。
春香さんも笑みを引っ込めて、冷たい眼差しで臨戦態勢に入った。
「お言葉ですが、社長。
私、朝の6時からずっとこちらで待たせていただいてるんですよ?
お二人仲良く何をされていたのか存じませんがっ」
美人が睨むと迫力が増す。否応なく冷戦に巻き込まれてしまった私は、一歩後ずさる。響哉さんは、当然のように私の肩に手を回した。驚いて顔を上げると、私と視線を絡ませて口元を綻ばせた。
「紹介が遅くなった。
彼女が私のフィアンセだ。
それはもう、君がここで聞き耳を立てている間、あんなことやこんなことをして、楽しんでいたに決まってるじゃないか」
「……はぁ?」
突拍子も無い発言に、首をかしげたのは私のほうだ。
朝ごはん食べたり、会話を交わしたりして楽しんだって、はっきり言語化していただかないと、誤解が生じると思うんですけどっ!
けれども、春花さんは眉一つ動かさない。
「それだけお楽しみいただいたなら、もういいじゃないですか。
とにかく、懸案事項を片付けていただかないと、私も困るんですっ」
えーっと。
朝食を食べたり、会話を交わしたりして楽しんだって、くだり。ちゃんと伝わってるかしら?
心配だわ。
「いやだね。
俺は貴重な休日を、彼女と楽しく過ごすと決めている。
とりあえずお前、どうしても働きたいならまずは電話を新調して……」
「はいどうぞ」
鮮やかな口紅を上品に飾った唇の口角を吊り上げ、春花さんがヴィトンのバッグから取り出したのは、真新しいスマートフォン。
「こちらが、新しいものですので、どうぞご利用下さい。今現在、番号は私しか存じておりませんのでご心配なく。よろしければ、古いものは回収しましょうか?」
勝ち誇った笑みが、遠慮なく春花さんの口許に浮かぶ。
「……上がれよ」
響哉さんは、諦めたようにため息を一つ、ついた。
「お出かけが延期になってごめんね」
春花さんがハイヒールを脱ぐのを見ながら、切なさを篭めた声で響哉さんが私に言う。
「ううん」
首を横に振った途端、顎を持ち上げられ、唇が迫ってくる。
「社長、それって嫌味ですか?」
春花さんが振り向いたのと、私が反射的にキスから逃げ出したのは、ほぼ同時で。
「……社長、本当に彼女、フィアンセなんですか?
明らかに今、キスから逃げ出してましたけど」
春花さんって、どストレートな質問をぶつけてくる人なのねと、逃げ出しておきながらも私は目が点になり、
「人前で、キスするのがちょっと、苦手なだけですっ」
考える前にそう言い返していた。
ここで違うっていったら、この美人なお姉さんに響哉さんが取られてしまう気がして怖かった。だって、普通に考えて、どうみたってこの二人の方がつりあっているもの。スタイル抜群の美男美女。打てば響くような会話のやりとりだって、私にはきっとできない。
響哉さんが、おやそうだったんだ、なんて笑っているけれど今は気にしないことにする。
「そうなんですか?
でもきっと、結婚式は全世界に中継されますから、それまでには慣れるようにしておいて下さいね」
業務連絡を告げるかのように、淡々と返されれば、私だけが、変なライバル意識を抱いてしまったのかしら、と思わず頬が赤らんでしまう。
――っていうか。
全世界中継って、いったいなんですか?
あまりにも規模が大きい話に、脳内が言語をイメージすることを拒否してしまっていた。
とはいっても、一緒に住んでいておまけに婚約者だと公言している私が、響哉さんの秘書であるという春花さんに『響哉さんって何者ですか?』って聞くのはあまりにも不自然だ。
私は質問を諦めて、部屋に戻る。響哉さんは珈琲を作り始めていた。
「じゃあ、私、部屋で勉強してるね」
「はい?」
気を遣ってそう言ったつもりだったのに、春花さんの表情が固まった。
「……勉強って。
もしかして、学生さんなんですか?」
「ええ、高校生です」
にこやかに言って、部屋に向かう。
「社長、ひょっとしてあの子って……。ちょっと、いくらなんでも犯罪ですよ?」
春花さんが響哉さんに向かって驚きの声を張り上げているのが、なんだかとても面白かった。
「真朝、風邪引くよ?」
英語のノートに突っ伏して眠っていた私の、背中に温かい手が乗った。
「あれ?
もう終わり?」
「もう、って。
もう夕方だけど」
くすりと笑って、響哉さんが私の頭を撫でる。
そのまま顎を触って顔を持ち上げて……
あまりにも自然に唇が触れ合いそうになって慌てて声をあげる。
「うわぁあっ」
「煩いよ、マーサ」
放してくれる気がないみたい。
「いやいやいやっ」
怯える私の唇を手で押さえて、その上にキスをする。
「人が見てないところではキスしてくれるって言ってなかったっけ?」
「……意地悪っ」
私は響哉さんに抱き寄せられるまま、その胸に頭を埋める。跳ね上がった心臓が、落ち着かない。
「あれ、オカシイなぁ。
キョーヤとのキスシーンがないじゃないっ! って共演女優に怒られたことはあるけど、逆はないんだけど。
絶対怖くないから、俺を信じて任せてみない?」
テノールの声に、思わず気持ちが攫われそうになる。
私はゆっくり、響哉さんの胸から顔をあげた。
「そんなにキス三昧なら、私としなくたっていいじゃない」
「芝居と本物は違うでしょ?」
真っ直ぐに見つめられると、困ってしまう。
どうしてこんなに私の身体はキスを受け付けないんだろう。しょんぼりとした気持ちになった。
「……ゴメンナサイ」
誰もが普通に出来ることが、どうして私だけこんなに出来ないのかしら。別に響哉さんのこと嫌いってわけじゃないのに。キスに対して、得も言われぬ嫌悪感を抱いてしまうのは、私に何か重大な問題があるのかもしれない。
沈黙が二人を包む。気まずい空気に、いたたまれなくなってきて、床を見つめた。
私が子供だからだろうか。もう少し大きくなれば解消できるのかしら。そうだといいと思うけれど、そうなるという確証はない。
「……きょう……」
思い切って顔をあげた瞬間。ふわりと、優しさを溶かし込んだ笑顔を響哉さんが見せてくれた。
それは、今にも泣き出しそうな私の顔とはきっと、対照的。
「マーサ、一緒に夕食作ろうか?」
くしゃりと私の頭を撫でると、響哉さんはそう言ってキッチンに向かう。私は慌てて後を追う。
料理に不慣れな私と、器用な響哉さん。一緒に作った夕食は、それだけでものすごく、美味しかった。
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