第04話 09

「……………………、――えっ?」

 我に返ると、おれは独りで、外灯の光を浴びていた。腕をにして佇立ちょりつしていた。あたかも独演をしているかのように。おれの目には、己の腕が映されている。その間にあるもの――おれが今この瞬間まで抱いていたはずのものは、ない。まったく、完全に見えなくなっている。ゆっくりと、恐れるかのように、の円周を縮めていく。だが何も感じられない。円の内側は、ただただ空間があるである。ついには交差させた両腕が、それぞれの肩を抱きしめていた。空間は完全に閉じられた。中には、――中には誰もいなかった。

「……菜子?」

 気の抜けた声が、大気を揺らす。自身のそれだとさえ、暫時ざんじ思い至れずにいる。放心していた。それも意図的に。現状認識を抛棄ほうきしていた。違う、違う、うわ言のように呟いている。……何が? ぶるぶると、躰が痙攣している。……なぜ?

 関節がきしんで音を立てる。不快なそれを反響させながら、車輌へと目を転ずる。ああ、そっか、そっちにいるんだ……、しかし果たして発見みつからない。おれがどれだけ離れていようとも、“菜子”が視界に入ったら発見みつけられる自信がある。だったらどうして発見みつからない? 疑問が浮かぶ。圧しつぶされる。だがかえって好都合だ。頭蓋がそれで満ちれば、余計なことは考えずに済む。……余計? 何が余計だというのか。よく分からない。回線は混線している。断線している。と嫌な音を立てて切れていく。それに混じり、“彼女”の声が木霊する。だが何と言っているかまでは判らない。いや、違う、判りたくない。聴きたくないし、判りたくない。おれは耳を塞ぎたくなる。しかし一方、それが無駄な行為であることも理解している。なぜならば、先刻より反響するその声は、おれの内側から響いていたからだ。この場に人影は、ない。おれはまったく孤立していたのだ。

「…………」

 肩を抱いていた腕を再び引き戻す。だがおれのそれは、意思とは敵対の立場をとる。軋轢あつれきが起きる。開こうとするに逆らって、あくまでも硬直をし続ける。あたかもそれは、警告のようだ。無意識下での警鐘、瞬時そんな単語が胸裡きょうりを奔る。しかしおれは退けてしまう。黙殺し、意地になって拡げようと苦闘する。結果、最初の状態に戻すことには成功した。おれは再び、両腕で環を作り、何者かをうちに抱く恰好をとっていた。……? 己の発想に疑問をいだく。おれは一体、何をしていたんだっけ?

 腕と腕とを離そうと試みる。だが今度こそ、明確な拒絶の意思に阻まれてしまう。首をさかいとして、その上下で指揮官が異なっていた。躰は頑として抵抗の立場を崩さない。どうしてだろう? どうしてそこまで必死なのだろう? 頭の片隅で泡沫ほうまつのような疑問が浮かぶ。しかし浮かんだである。注意を払おうとはしなかった。思考は単純化されていた。思いどおりにならない肉体を、何とか制御下に置きたいと、ただそれしか考えられなかった。渾身のを振り絞る。丹田たんでんに活力を入れ、きつく握り合う両手を解こうとする。ゆっくりと、いましめは解けていく。まるで知恵の輪を任せに外しているかのようである。そして十指の抵抗もむなしく、固く閉じられていた円環は、ついに解放の日の目を見たのだった。

 両腕が真横にまで吹き飛んだ。込め続けていたが行き場を喪い、あたかもゴムのように弾けていた。それを映しておれは抵抗の強さを知る。だが真に瞳を射たのは、別のものであった。瞬間、腕で囲われた空間から、何かが四散したような気がした。網膜が捉えたわけではない、心眼しんがんがそれを映していた。光の粒子のようにも思えたし、薄い煙のようにも思えた。その何かが、浮遊した。大気中に拡散した。とおれは思い至る。なぜ深層意識が、頑強なまでに抵抗したのかを。――まもっていたんだ、それが霧散しないようにと。その何かを密閉して、保護していたんだ――! 慌てておれは手を伸ばす。見えない何かの、その腕を取ろうとする。しかし果たして、おれの指は空を摑む。握りしめた五指も、以上の意義は見いだせない。そっと目の前で開く。一縷いちるの望みをいだきながら。だがに映ったのは、おれの――ただそれであった。

「あ、――」

 記憶が明滅する。現実逃避をしていたおれに、否応なく現実が突きつけられる。

「あ、ああ、――」

 そうだ、おれの懐中かいちゅうにいだかれていたのは、あの柔らかな体温ぬくもりは。

「あああ、ああああああ、――」

 亀裂が奔る、奔る、奔る。逃げ込んだ空白の空間が、縦横無尽に割れる。防衛本能が造り出した、退避空間が瓦解がかいする。声が聴こえる。割れた隙間から、先ほどから鳴りやまないそれが、輪郭の伴わないその声が鳴り響く。! 即座に耳を塞ぐ。こたびは実際にそうしていた。しかしまったくの徒労に終わる。なぜならそれ――先刻から再生され続けているその声は、



   さようなら



 記憶の中の声、“菜子”の別れの声――――なのだから。



「う、うわ、」

 うわあああああああああああああああっ! 深夜の静寂を、おれの悲鳴が切り裂いていた。慟哭どうこくするその声は、完全に狂人のそれだった。脳細胞が焼き切れる。理性が蒸発し続ける。崩壊は極めて迅速的に行われた。おれはアスファルトの上に倒れている。立っていることすらできずにいる。瞳孔は完全に開いている。焦点の定まらないそれで、景色を見るともなしに映している。嘘だ、嘘だ、無意識のうちに呟いている。ずっと、ずっと、ずっと。まるで唱え続ければ、それが真実になると信じているかのように。

 だが“菜子”は、戻ってはこなかった。


 おれは“菜子”を、喪ってしまったのだった。

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