第04話 08

 と歩いていた。

 ……放心したまま、どれだけの間そうしていたのだろうか、遠くからに車の発進する音が聴こえてきた。卯月さんのそれに相違ない。ようやくおれは湯から上がる。先に上がった彼女と鉢合わせする心配がなくなったからだ。しかしそれだけであった。どうしたら良いのか、どうしたら良かったのか、まるで分からない。考えようと試みても、たちまち視界が曇ってしまう。明瞭な結論は一向に姿を現わさない。無意識のうちに推論することを拒んでいるのかと訝しく思うくらいだった。

 茫洋とした意識のまま脱衣所を出た。肉体と精神は完全に乖離かいりしている。一歩一歩あしを運ぶその活動に、自発的な意思は見いだせない。半自動化された機械のようである。機能不全に陥っている指揮系統とは無関係に、おれはいつもどおりの手順で屋外へと移動していた。夜気が躰に心地好い。火照った肉体を冷やされて、わずか冷静さを取り戻す。どこで間違えたのだろう、そう建設的な疑問をいだけるくらいには。

(一体どこが分岐点だったのだろう。正しい選択肢は何だったのだろう。卯月さんに嘘をついたことか? だが菜子を紹介することはできない。だったら特定の異性がいると述べるのは、やはり得策ではないのだろう。……ならどうしたら良かったのだ?どうすれば正しかったのだ? ……からして間違えていたのだろうか。菜子と皆との共存は、しょせん夢物語でしかなかったのだろうか。おれはどちらかを選び、どちらかを棄てざるを得なかったのだろうか。でもそれは、あのセンゴクのような断罪者を呼び寄せる結果とはならないだろうか。異変を嗅ぎつけた彼らに蹂躙される結果と、それはならないだろうか。

 ……それとも、)


 そもそも“菜子”の存在を肯定すること自体、正しくはなかったのだろうか――。


「――――」

 強くを振る。痛いくらいに瞼を鎖し、有害なそれを振り払う。何を、おれは何を考えている? あいつは、菜子はおれにとって、何者にも替えがたい、掛け替えのない存在じゃないか。その彼女の実在を否定するとは、気でも狂ったのか? もうおれには、菜子のいない生活なんて、考えられない。菜子がいるから、毎日が楽しく過ごせるんじゃないか。そうだ、あいつと一緒に生きていくって、決めたんだ。それなのに、それなのに――!

 気がつくと駈け出していた。一刻も早く、“菜子”に逢いたかった。“菜子”を認めて、“菜子”に触れて、安堵したかった。弱り果て、道に迷ったおれを、抱き寄せてもらいたかった。いつもの子猫のような笑顔で、抱き締めてもらいたかった。温かく、柔らかく、そして優しい抱擁で、この不安を搔き消してもらいたい――、そんな願望に衝き動かされて、おれははしる。待ちくたびれているだろう、“彼女”のもとに。無駄に広い駐車場を横断する。白線など一顧だにしない。駐車場の最西端さいせいたん、施設から最も離れた、従業員用の駐車場へと。ぽつりと一本、まるで何かの間違いのように点灯している、屋外灯おくがいとうとして。

 人工的なそれは、どこか寒寒しい印象をいだかせている。星星の明かりとは趣を異としている。だが今は違った。あの光の下に菜子がいる、それを思うだけで性質はと一変した。無機質なそれから、“彼女”を庇護するそれへと変容する。光のヴェールで“彼女”を包み、悪しきを防いでくれるとさえ思えてくる。しかしそれでも歩みは鈍らない。全速力で駈け続ける。“菜子”を見たかった。“菜子”の姿を瞳に映したかった。“菜子”の声を耳に入れたかった。“菜子”の体温ぬくもりを肌に感じたかった。そうしないと、おれは、おれは、おれは――! 焦燥に焦がされていた。得体の知れぬ感情が、まるでおりのごとくに溜まっていた。心が侵蝕され、腐蝕されていく。吐息すら悪臭を放つ。それら生理的嫌悪感を催すものその全てから、解放されたかった。“菜子”に接し、浄化されたかった。そうだ、菜子に癒してもらえば、またいつもどおりの日常が、安穏な毎日が送れるはず、だから、そう、だから――!

 闇夜が白色はくしょくのナイフで切り取られている。星月のもそれなりの明るさを誇っていたが、やはり外灯の前ではしまう。あまりの照度に、辺りは相対的に暗くなる。には、まるで舞台のスポットライトのように、それは映っている。その真下に、一だい車が駐まっている。指でつまめる大きさでしかなかったが、それでも見間違うはずはない。そう、深緑のロードスター、何よりも大切なおれの愛車だ。不可視の群衆の喝采を浴び、美しいボディーを外界へとさらしている。光の粒子が反射して、跳ね踊っている。きらきらと輝いている。そして、ああ、そして、車輌に寄り添うように、人影が浮かんでいる。――菜子! 思わず叫びそうになる。だが酸素が足りない。ただでさえ体力は消耗している。その上この全力疾走だ。足は、息は上がっている。咽喉に鉄の味さえ混じるほどである。それでも残されたを振り絞り、おれは駈け続ける。おれのため、そして“菜子”のために。ごめんね、菜子。すっかり待たせちゃって。寂しくなかった? 独りにして、悪かったね。でももう大丈夫。ずっと、ずっと一緒にいるから。おれはもう離さない。一秒だって、奈子を独りにしない。おれだってごめんだ。ずっと、いつまでも、二人でいたい。いつまでも、二人でいたい。二人で過ごすんだ、今までも、そしてこれからも。だから菜子、笑ってみせて。おれに、いつもの眩しい笑顔を――――。



 ――“菜子”は、泣いていた。



 まるで子供みたいに、外聞をことなく泣きじゃくっていた。



 ……遠くで物の落下する音がする。おれが提げていた、入浴道具を納めていただ。おれは投げ捨てていた。それは全力疾走の邪魔でしかない。そんなものを持ちながら奔る余裕なんてない。なので躊躇いなく手放した。丁寧に扱うという発想さえ抜け落ちていた。舗装された地面に衝突し、無残な音をそれは立てる。プラスティックのそれは、もしかしたら割れてしまったかもしれない。しかしどうでも良かった。今はまったくそれどころではない、それどころではないのだ!

 菜子! おれは叫ぶ。途端、酸欠で倒れそうになる。供給不足が明らかな今、絶叫することは自殺行為に等しかった。その場で気絶してもおかしくはなかった。それでもおれは咽喉をらす。はじめて見る、“彼女”の痛ましい姿に駈り立てられて。

「!」

 おれの呼号に、“菜子”はと硬直する。と顔を挙げる。驚いたことに、今この瞬間まで、おれを認識していなかったようだ。慌てて口を開こうとする。何かを告げようとする。しかしそれは、おれが乱暴に抱き締めたことにより、果たされずに終わっていた。有無を言わさず懐に搔きいだく。華奢な双肩に両腕を回し抱く。あたかも自分が原因であるかのように。“菜子”の啼泣ていきゅうの、その理由が。

“菜子”はまったくの無抵抗でおれの胸に顔をうずめていた。まるで糸が切れた操り人形みたいに。感情の波も引いてきたようだ。いまだ呼吸は荒いものの、幼子のように大泣きしていた先刻に比べると、だいぶ落ち着きを取り戻したように見える。時おり肩が上下する程度である。むしろ体力を限界まで削ったおれのほうが、復調に時間を要したくらいだった。

 頃合いを見計らい、“彼女”に尋ねた。どうしたの、と。どうして泣いていたの、と。

「…………」

 まさか、寂しかったとかではあるまい。たかだか一時間弱である。その程度、菜子にすれば待つにも入らないだろう。独りで時をつぶさなくてはならなかった“菜子”。三十数年の間、そうやって生きてきたのだ。それを思えば待ちきれず号泣するなど、あり得ないであろう。……だったら、どうして、泣いて、いるのだろう――。

 と。

「どうして?」

 との声で、おれは我に返っていた。“菜子”は質問に質問を返していた。おれの問いに答えず、自らの感情――激情に背を押されるまま、と視線を鋭くして訊ねていた。充血したそのままで。

「菜子……」

 戸惑うおれにもかかわらず、“菜子”は何度も繰り返す。どうして、どうして、どうしてと。述部を省いたそれに、おれは返答を返せない。“菜子”が何についての疑問を、詰問をしてくるのか、一向に解らない。しかし尋くことに逡巡を覚える。“菜子”は怒っている、悲しんでいる、だったらこれ以上“彼女”を刺戟するのは得策ではない、そう判断した。なのでおれは、口を噤む。“菜子”本人から理由がこぼれるまで待ちに徹することにした。……どうして至れなかったのだろう、“彼女”の疑問の、その回答こたえに。何について訊いているかなど、一目瞭然であっただろうに。……だが気づけなかった。ただでさえ、正常な判断力は鈍磨どんましていた。さらにおれは盲目的に、“菜子”は先刻の一件を知らずにいると信じていた。“菜子”を現場へ連れて行っていないこと、そしてここに卯月さんがいないこと、それら判断材料から、おれは妄信していたのである。

 だから“菜子”の口から、卯月さんの名前が飛び出したとき、おれは心臓の音が実際に鼓膜を揺らしたかと錯覚おもうくらいに驚愕したのだ。

「どっ、どうしてっ?!」

 思わず叫んでいた。そして数瞬後、と正気に立ち返る。再び泣き出しそうな“彼女”の相貌そうぼうを視認して。

「やっぱり……」

“彼女”は独言する。おれの反応を目に映し、確信に至っていた。おれと卯月さんとの間で何があったのかを。その概要をあやまたずに捉えていた。

 だが一方、愚鈍なおれは一手先の正着すらも導けない。疑問はいつまで経ってもそのままで、一歩たりとも前進できてはいなかった。なので考えることを放棄する。こたびは直接“菜子”に尋ねる。無神経だとの謗りを受けようが構わない、それ以上に知りたかった、どうして菜子が知っているのかを。

 それに対する回答は、簡潔なものだった。

「泣いてたもの」

 ぽつりと“彼女”は言った。彼女――卯月さんが泣いていたと。

「きっと見ている人は誰もいないと思ったんでしょうね。わたしが見えないんだから、それも当然だけど。……あの女性ひと、ずっと泣いてた。車の横で、うずくまって、ずっと、ずっと泣いてたんだよ? ……わたし、初めて聴いた。あんなにも悲しげな声、初めて聴いたの。聴いてるだけで、胸が張り裂けそうだった。――だってそうでしょ?彼女、」

 ――、

 そう“菜子”は感情もに口にしていたのだった。

 なん、で……、覚えず言葉が紡がれていた。自身のそれを外的刺戟として、疑問は一そう明確な輪郭を描き出していた。そうだ、おれは“菜子”に疑問を呈す。どうして卯月さんが告白したことまで知っているのかと。

「だってわたし、見てたんだもん」

「見てた?」

 そんな馬鹿な……、施設を振り仰ぐ。お客様の迷惑にならぬようにと、従業員の駐車スペースは、建物から最も距離を置いている。(だがそれはまったく無用な心配で、無駄に広い駐車場が自動車で埋まったことなど、一度もありはしなかった。)直線距離でおよそ百メートルほどだろうか。少なくとも“菜子”の移動半径である五十メートルよりは確実に長かった。それは間違いない。鍵だって、車に置きっぱなしだ。……だったらどうして知っているのだろうか。

「ううん、違うよ」

「えっ」

 まるで頭の中を覗いたかのように、“菜子”の返答は疑問の正鵠を貫いた。おれは慌てて振り返る。気づかわしげな“彼女”を己の目に入れる。どういうこと? 考えるより先に口が動いていた。菜子、一体どうやって一部始終を知ったのだろう。だが応えて紡がれたは、おれの想像を超えていた。“菜子”はおれにこう告げたのだ。

 わたし、ここに来る前から知っていたよ、

 と。

 どうしてっ、勢い込んで尋ねるおれにも“彼女”はまったく動じない。むしろ動揺するおれに、慈しむような憐れむような眼差しで応えていた。そしてゆるゆるとを振る。歩美くん、本当に、他人ひとを疑うということを知らないのね、と。

「わたし、見てたの。ずっと……、そう、あの女性ひと――卯月さんが、台所にいるところをずっと」

「台所……?」

「そう。……歩美くん、彼女に、こう、言われたんだよね。『本を読んでたらこんな時間になっちゃった』って」

 唇を結んで、“菜子”はと見つめてきた。狼狽うろたえながらも首肯する。果たして“彼女”の述べたとおりだ。卯月さん、読書に熱中しちゃってて、だから真夜中までうちにお邪魔しちゃったのだと。……え、違うの? 本当はそうじゃないんだって言うの?

「――そうよ、歩美くん」

 表情の変化を目ざとく捉えた“菜子”は、またしてもおれの思考を完璧に捉えていた。沈思黙考にもかかわらず、あたかも実際に対話しているかのように答を発していた。

「わたしもね、ずっとお勝手にいたの。卯月さんをね、ずっと見てたの。……女の子たちが、お夕飯のお片づけをして、しばらくお話に花を咲かせたあと、卯月さんだけがね、そこに残ったの。ご本みたいからって。そうしてみんなが帰るまで、読書をしていたの。でもきっと、内容なんて頭に入っていないはず、それくらい、読むって言っちゃっても良いくらい、ぱらぱらと流し読みをしていたわ。お友達が挨拶に来たとき以外は。そのときだけ、彼女、一生懸命に文字を追うをして、アピールしてたわ。だから一緒に帰ろう、って誘われても、そのたびに断わってた。二、三回は確実に言われてた。それでも彼女、もうちょっとしたら帰るから、って辞退してたの。……それでね、歩美くんのグループ以外、誰もいなくなってからは、もう読書どころじゃなかった。本は開いているだけ。もう全然見てないの。卯月さん、深呼吸して落ち着いてみたり、大丈夫、大丈夫って、小声で自分に言い聞かせてみたり、たまに本当に幸せそうに微笑んでたりしてた。それを見て、ああ、って気づいたの。

 ああ、この女性ひと、今夜『勝負』するんだわ――、ってね。

 そして実際、お風呂に誘ってた。だからわたしね、見なくても何があったかは、ちゃんと解るの。彼女が歩美くんに、『告白』したんだって。

 ……そして、」

 そして断わられたんだって――、呟いて、“菜子”は、複雑な表情をたたえたで、おれを射抜いた。泪が、まなじりに溜まっていた。そしてそのまま“彼女”は、“菜子”は、絞り出すように言った、

 どうして断わっちゃったの?

 と。

「どうしてっ、どうして歩美くん、断わっちゃったの? 女のわたしから見ても、あんなにいい人いないのに。可愛くって、優しくって、気づかいもできて、お料理もできて……、不満なんてどこにもないのに。それなのに歩美くん、もったいないよ。断わることなんて、なかったのに」

 喋っているうちに感情が昂ったのか、“菜子”は二たび大粒の泪で頬を濡らし始めていた。リトラクタブル・ライト――格納式のヘッド・ライトは、今晩は仕舞っていなかった、なので“彼女”も、今宵は裸眼のままである。車体と同色のふちの眼鏡は、前頭部にかけられている。その状態で見つめられた。必然“彼女”の明眸は、より一層の美しさをもっておれに迫る。潤んだ瞳は、清流の水底で、黒曜石のようだった。

 だが反して、述べられて言葉は残酷なものである。おれの心臓は、に切り刻まれた。ああ、どうか想像してほしい、この世界でもっとも愛するその相手から、どうしてほかの女性と交際しないのかと責められる、その心痛のほどを! おれは絶望に呑まれる。ややもすると涙腺が崩壊しそうだ、それくらい幻想の刀傷とうしょうは、劇痛を伴うものだった。

 ――しかし直後に痛感することとなる、おれがいかに自己本位で、甘えていたのかを。そう、“菜子”の告げたひと言から、おれはったのである、“彼女”――“菜子”のかかえている葛藤と、そして絶望を。

“菜子”は唇を嚙み締めて、そして血を吐くように言ったのだ、

 ――、

 と。

「……そうよ、わたしがと我慢できてれば、立場をわきまえてれば、こんなことにはならなかったはずなのに。それなのに、わたしが、わたしが寂しさに耐え切れなくて、独りに耐え切れなくて、だから歩美くんと出逢ったときに、自分の願いを抑えきれなかったの。――全部、全部わたしのせいっ! わたしが悪いのっ! わたしのせいで、あの女の人も、そして歩美くんも、本当なら普通に手に入れられるはずだった幸せを、台なしにされちゃったのっ! ねえっ、そうでしょっ?!」

「菜子……」

 愚昧なおれは、ようやくそれに達していた。それ、つまり、“菜子”がどれだけ罪悪感をかかえながら、今日まで過ごしてきたのかという、その事実を。の曇っていたおれは、“菜子”という初めての異性に溺れきっていたおれは、まったく気づけずにいた。無根拠に信じていた、おれたちは薔薇色の毎日を送れていると。ほころびは何一つない、唯一無二の幸福を享受し合えているのだと。おれが“菜子”に耽溺し、至福へと手を曳かれているように、おれも“彼女”を、楽しませ、悦ばせていられたのだと――。“彼女”の反応から、おれは疑いもなく信じきっていたのだ。……しかしそれは、表面的な観察でしかなかった。その裏で、きっと“彼女”は、毎朝毎夜まいちょうまいや、自問自答を続けていたのだろう。と。なこの関係を、保ち続けても良いのかと。そんな葛藤にさいなまれていたのだろう。そう、心の平安はあり得なかった。いつでも心の片隅に異物が、このままで良いのかという呵責が、転がっていたのだ。“彼女”はそれをかかえつつ、それでもおれには悟られまいと、巧妙に隠匿しながら過ごし続けていたのだった。

 しかしで均衡を保っていた“彼女”の心は、ついに今日、第三者である卯月さんの決起により、破綻を迎えていた。目を背向そむけていた、自分という存在のために起こる弊害、これを目の当たりとして、“菜子”の麗しい良心は遂に悲鳴を挙げたのだ。もうダメ! と。これ以上、自分のに巻き込んではいけないと。……でも違うんんだ、巻き込まれたなんて、おれはちっとも考えていない。むしろ最初に行動を起こしたのは、おれのほうだ。おれが求めたんだ。おれが菜子に求めたんだ、一緒にいてくれと。おれと一緒に歩んでくれと。だから、だから――。

 ……果たして心中を吐露すれば、未来は変えられたのだろうか。激声げきせいを迸らせる“彼女”を遮ってでも、この心に涌き立つ真情しんじょうを伝えれば、納得してもらえたのだろうか。だがおれはできなかった。苦しそうに、辛そうに言を結ぶ“彼女”に、おれは躊躇してしまったのだ。一瞬、よぎらせてしまったのだ、本当に菜子の幸せを願うのなら、身を退くべきではないのかと。菜子に負担を、心労をかけさせている現状は、果たして正しいといえるのかと。おれでは彼女を傷つけてしまうだけ、ならばいっそ、いさぎよく関係を終わらせるのが、彼女のためではないのかと――。

 その一瞬が、分水嶺ぶんすいれいだった。一しきり感情の発露をし終えた“菜子”は、一てん安らいだ表情を浮かべていた。重荷から解放されたかのような、どこか諦観の情を覗かせる、そんな和らいだ微笑みを。そして“彼女”はつづり始める、おれの心に言霊を、――永訣えいけつ文言もんごんを。


 ごめんね、と。


「ごめんね、歩美くん。わたしなんかのために、歩美くんの貴重な青春を、掛け替えのない日常を、無駄に浪費させちゃって。でもきっと、もう大丈夫よ? あの女性ひと、卯月さんとも、きっとうまくいくはずよ? ……今までほんとにありがとう。短い間だったけど、わたし、本当に楽しかった。製造うまれて三十二年、歩美くんといたときが、本当に一番だったよ? だからもう平気。充分しあわせだった。……だから、だから、」

 そう“彼女”は繰り返す。そしてもう一度、視線を向ける。紅涙こうるいを流す瞳を構わずに贈ってくる。笑顔を作りながら。その笑みを保ちつつ、“彼女”はおれに囁いた。



   さようなら



 そうして“菜子”は、おれの懐にいだかれたまま、ゆっくりと、消滅したのだった。

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