第03話 08

「…………」

 しかし果たして、おれの指は付け根まで到達してしまう。しっとりと汗ばみ、細胞が壊死しかねないほどに熱を放つそこへとたどり着く。わずかに刺激を与えると、“菜子”はと身を竦めた。おれの呼びかけにこたえ応じ、瞳を上げていた“彼女”はそれをっと固く閉ざし、下唇をきつく嚙む。引き結んだだけでは不充分なのだ、そうおれは“菜子”の変調を確信した。ねえ、菜子? 二たび呼びかける。そして返答を待たずに、おれは告げる、ねえ、良いでしょ、と。

「…………」

 二回目の要請は、即座には退けられない。“菜子”は沈黙に沈む。揺れているのだ。暖気された“彼女”は、もはや一しきり走行し終えた後と大差ないまでにでき上がっている。潤む瞳、荒い呼吸、発汗した躰など、兆候はに顕われている。決壊まで、わずか半歩となっていたのだ。

 菜子、と弱さを装い“彼女”に迫る。おれ、もう、と限界に来ていることを告げ報せる。殊更に強調する、おれの側が求めたのだと。菜子はただ、押し切られただけなんだからと。甘美な果実のためならば、のちのち不利になろうが厭わないと、そんな姿勢を見せていた。

 そのプライドすら乾坤けんこん一擲いってきは、“菜子”の同情を誘っていた。ふう、と一つ息を吐き、どうしても? と尋ねてくる。寸秒を待たずに返答する。うん、どうしても、と。

「……………」

 またも沈黙が挿まれる。だがしかし、このたびは、だいぶ質が変化している。変容している、“彼女”――“菜子”の心境が。もう一ど長嘆息ちょうたんそくが、あたかも躰の内部に溜まっていた不純物を吐き出したかのような、そんなため息が洩らされる。瞼が閉じられ、ゆっくりと開かれる。御簾のごとき睫毛の奥から姿を見せる明眸は、泉に映された星々のようだ。液体の被膜に被われ、揺らめき煌めいている。そんな瞳を用いて、“菜子”はおれを包み込む。そしてそのあと、“彼女”はと言った、


 いいよ、歩美くん、


 と。

「…………菜子?」

 良いの? 思わず口からこぼれていた。それを終着点として奮闘していたにもかかわらず、いざ了承の意が下りると、情けないおれは戸惑ってしまっていた。もしかして強要してしまったのではないかと、そんないかにも不慣れな懸念をいだいてしまっていた。しかし“菜子”は、おれのそれに、異なる反応を示していた。もう~、いじわる~、といよいよ甘えた声音で見つめてくる。ようやく気づいた。“菜子”はもう充分すぎるくらい、発情していた。エンジンはすっかり温められていた。それどころか、まるで危険領域まで回したあとみたいに熱くなっていた。放熱で大気が歪められているくらいだ。その証左が、先ほどのだろう。“菜子”はそれを、言葉責めの一として捉えていた。合歓ごうかんは、すでに始まっていたのだ。

 ただちにおれは、理性という名の手綱を放す。それによって抑制されていた、本能という名の駻馬かんばを解き放つ。時ここに至れば、賢しい駈け引きを弄するより、遺伝子の操縦に身を委ねるほうが良策であろう、そう主導権を放棄した。果たして無意識のうちに行なわれた言動は、ねえ、聴かせて? と“菜子”をさらに責め立てるものだった。

 、と“菜子”は身もだえる。幻視した己の姿に。おれ自身より手腕の優れたもう一人のおれは、あやまたずに“彼女”の最奥にかくされた欲望を暴き出す。“彼女”は今や、羞恥心さえも糧とする。己の行為の強要に、昂奮をいだく。甚振いたぶられた己の姿を夢想して、さらなる高みへとのぼりつめようとする。そんな“彼女”の被虐嗜好の素質に、おれは火を灯したのだ。

 、おれは追い詰める。もはや無意識なのかも判らない。期せずして露呈する結果となっていた、知らなかった己自身の一面を。……おもい返せば、素地そじはあったかもしれない。羞ずかしがる“菜子”の容態に、昂奮を覚えたのも事実である。でもいつもは、あくまでおれが懇願する側、という前提での話だ。許しを求め、それが得られてようやく行動を起こしていた。あたかも食餌えさの前で、坐ってをしている犬のごとくに。主従でいえば、完全な従、それがおれだった。

 ――しかしこの、逆転している今はどうだろう。と身震いが止まらない。窮境に陥って、憐れみを乞う眼差しでいる“彼女”に、新しい何かが開花してしまいそうだ。

 、真剣の声音で促した。双眸に映るは、小動物のような“彼女”の姿。ふるふると震え、眼前の捕食者の同情を求めている。しかしまったくの逆効果だ。おれはより一そう獰猛に、牙を鳴らす。荒ぶる呼吸は、皮膚呼吸のできない動物のそれを連想おもわせる。そしてそれは、“菜子”もまた同様だ。“菜子”もまた、躰ぜんたいで大きく息をする。“菜子”もまた、おれと等しく、快楽のに呑まれていた。

 その“彼女”が、行動を起こす。歩美くん……、甘露のごとき声を出す。泥酔したかのようなを向けてくる。そしてゆっくりと、きつく鎖していた両脚の、その緊張を弛めはじめた。

「歩美くん……」

 二たび“彼女”が声をこぼす、両脚を、大きく開いて。“彼女”の香気が大気を染める。雌蕊しすいを、それは源として。と目眩がした。“菜子”から発せられる蠱惑的な香りに、狂わされた。思考は単一化された。そう、この限界にまで怒張したおれの雄蕊ゆうずいを、一秒でも早く“菜子”の最奥に突き入れたいと。

「菜子……」

「歩美くん……」

「…………」

「…………」

 お互いの名を呼びあい、そしてお互いの姿を映しあう。それだけでおれたちは、相手の心情を完璧に把捉はそくすることができていた。おれが猛り狂っていることを“菜子”は知り、そして“菜子”が軽く絶頂に至ったことをおれは知る。だがそれだけではない。今やかくされた本心すらも知り得たおれは、“菜子”がまだ満足していない、というそれに至っていた。まだ足りない、もっと貪婪どんらんに官能を味わい尽くしてみたい、そんな願望に焦がれていることを嗅ぎ取っていた。なのでおれは、必死に踏みとどまる。通常ならばこの時点で、おれは“菜子”に没頭をはじめる。求め続け、そして許可が得られれば、あとはもう無我夢中である。“彼女”の反応を窺いつつ、点在する快楽点を探り求める作業に専心する。ただひたすらに奉仕をし、供物を捧げるだった。それゆえ必然、“菜子”はただ享受するとなる。肉体を弛緩させ、されるがままに委せるのだ。……はじめのうちは、それで満足していた。魅力的な肉体の前では、ほかのことを考える余裕は、まったく生まれなかった。だが回数を重ねるごとに、おれは“菜子”のそれを、怠慢だと捉えてしまうことがあった。まるでかしずかれるだけの女王様のようだと。しかし今、“彼女”の本心に触れ、その考えが誤りだと理解した。“。……きっと“菜子”も、当初は満足していたのだろう、おれの拙い愛撫に、も初初しく反応していたことからも、それが知れた。だが回数を経るごとに、及ばずながらもおれのそれが、“彼女”の肉体をたがやす結果となっていたのだ。そうして深いところにまでたどり着けるようになれた“彼女”の肉体は、反して進歩しないおれの技術では満足できなくなったのだろう。だが床しい“彼女”がそんなこと口に出せるはずもなく、またおれも、己の獣欲を満たすのに精いっぱいで“菜子”の願望に気づけず、結果“彼女”は、火照る肢体を持て余していたのだろう。もっと積極的になりたい、でも具わっている道徳心や羞恥心が邪魔をする、そんな懊悩おうのうさいなまれていたのだろう、そう分析した。

 だからこそおれは、こうして辛抱しているのだ。“菜子”が羞じらいという名の衣を脱ぎ捨て、自らの欲求の赴くままに行動できるまで。

「……あ、あの、歩美くん……?」

“菜子”が戸惑う声を出す。開かれた両脚が微動する。下着越しとはいえ、秘部をさらけ出すという、“彼女”にすればこれ以上ないくらいの意思表示を示したにもかかわらず、一向に進展をみせないおれに、“菜子”は困惑する。充分すぎるほど“彼女”は応えていた、おれの問いに対する回答を。それでもおれは満足しない。いや、おれの側はいつでも臨戦状態である。即時行動に移ることが可能である。そう、真に満足していないのは、“彼女”のほうなのだ。糸を垂らせば食いつく現状では、釣る側も退屈してしまうだろう、“菜子”もそうに違いないと、おれは考えていた。達成感、充実感を多く得ようとするならば、相応の対価が、つまり工夫や努力が必要なのだ。ゆえにおれは、目の前で魅了するその食餌えさに、傍観で応えるのである。

「――菜子」

「な、なに?」

「おれ、尋いたよね、何が『良い』のかって?」

「あ、」

「聴かせてくれる? 菜子の口から直接。どうして欲しいのかを」

 いいや、傍観にとどまらない。おれは不平を述べる、この程度ではもう満足できないと。もっと誠意を見せてほしいと。一歩まちがえれば不興を招きかねない、そんな際どい挑発を行なっていた。もちろん、勝算あっての行動だ。今までのように“菜子”が主導権を握っていたら、“彼女”は機嫌を損ね、だったらさせてあげないと、拗ねてしまう危険もあっただろう。しかしそうはならないはずだと、おれは確信していた。ほの見える“彼女”の本心が、秘しきれずに滲み出る悦びが、おれを励ます。大丈夫だと。むしろもっと強く押してほしいと。その無言の要請に、おれは応えたのである。

 無論、独りよがりな錯覚などではない。聴きたいと今一ど述べると、“菜子”も決心したのか、と小さく頷いていた。そして唇を震わせながら、大きく足を拡げながら、ついに“彼女”は打ち明けた、己の秘めた――――願望を。


 ……はげしく、してほしいの――。


 と。

「~~~~!!」

 こらえきれずに“菜子”はく。発したで、恍惚に至る。慙愧ざんきと全身を染めるその裏で、堕ちた自分に堪らなく昂奮している“彼女”がいた。

「歩美くん、わたし、もう……」

 酔眼で見つめられる。もはや泣き出しそうなである。切なそうな瞳を向けられただけで、痺れるような快感が奔り抜ける。もう我慢しきれない。

「お願い、来て……」

 その言葉が発火点だった。限界まで膨張した欲求は、その甘いひと刺しで炸裂した。全身の汗腺かんせんから性フェロモンを分泌させる“彼女”に、おれは抗しきれない。“彼女”の名前を連呼して、咆哮する。のようにたけり、“彼女”の上に覆い被さっていた――。


 ……月だけが見ていた。蒼い光を放つ月だけが。膝下しっかにて行なわれている、原初の営みを。清冽な光が、“彼女”を飾り立てる。飛び散るが、煌めき躍る。その一粒一粒は、もはや宝石のそれに等しかった。いわんや“彼女”は、まるで自ら発光しているかのようだった。それはなんと美しく、なんと麗しい光景なのだろう、明らかに“彼女”は、現実を超えた存在だった。

(……いや、真実そのとおりなのかもしれない。)

 そんな想いが脳裡をかすめた。それはもう、幾度となく自問してきたものだった。そう、果たしておれが狂っているだけで、現実は皆の観測どおりなのだと。

 ――“

 それが真実で、壊れたおれは、ただ妄想に取り憑かれているだけなのだと――。

(…………。)

 おれは無心で打ちつける。余分な考えが輪郭を形作ることを拒絶する。急に速度を上げたおれに、“菜子”は一きわ高い声を挙げて反応する。しかしそれは、ただちに搔き消える。“彼女”自身のによって、唇は封をされる。いまだ羞じらいから脱却しきれていないのだ。だが懸命になって忍んでいる様は、おれを残忍にさせる結果しか生み出さない。いやでも見たくなった、“菜子”の乱れる姿を。

 なのでおれは、無理やりに引き剝がす。さらに先回りして、車体にもたれ、自重を支えていた左腕をも捩じ上げる。その二本の腕を、手綱のように引き絞る。車輌の脇に立たせ、後ろから容赦なく突き上げていたおれは、さらに両手の自由さえも奪う。“菜子”に不安定な体勢を強要する。

 慌てて両脚にを込める“菜子”。それでも連続的に内壁ないへきこすられ、えぐられ、役目を十全に果たせない。産まれたての小鹿という表現そのままに震わせている。だがおれは手をゆるめない。より一そうの抽入ちゅうにゅうが可能となった今、それを用いぬ道理はない。“菜子”が脱臼しかねぬ勢いで両腕を引き寄せ、そして腰を打ちつける。ひと挿しごとに“彼女”の双丘が卑猥に揺れる。食い縛った歯の間から苦悶の声が洩れる。連結部は、もう何かいしたか判らない白濁液がさらに攪拌かくはんされ、あわ立っている。と下卑た音を響かせている。それら五官に送られてくる情報が、おれをさらに昂らせる。無我夢中で腰を振る。熱く“彼女”の中を押しわける。

(――これが妄想であるはずがない。)

 絶頂感が高まるにつれ、確信は強まった。いや、精確には異なった。おれはこう思っていた。

(もしこれが現実じゃないとしたら、!)

 と。

 ……いつの間にか“彼女”の腕を離していた。おれは“彼女”のに手を当てている。芸術的な曲線を描くそこを鷲摑みにして、ひたすら己を打ちつけていた。腰砕けになっている“彼女”は、車のドアにしがみついて、かろうじて状態を保っている。可愛らしい唇からは、絶え間なく嬌声がこぼれている。“彼女”はすでに決壊している。本能に導かれるまま快楽を貪っている。舌を垂らし、と糖蜜を洩らし落とす。糸を引いたそれは、なまめかしく光り輝いている。喘ぐ声も変化する。短く切られたそれから、長く伸びるそれへと変わっていた。限界が近いのだろう、それはおれも同様だ。おれは“彼女”の臀部でんぶを握りつぶす。豊かなを誇る“彼女”のそこは、おれの十指がくらいだ。そこにおれは爪を立てる。痛みを覚え“彼女”は緊縮するが、関係ない。問答無用で打ちつける。渾身ので“彼女”の内部に侵攻する。

 きつく狭まった隧道ずいどうは、おれをはげしく刺戟した。筋肉が強張ったせいだろう、全方位から締めつけてくる“彼女”の器官は、いよいよおれを絶頂へといざない始めた。柔肉に意識が融解する。単一化される。おれはまるで、その動きしかできない装置のように、“彼女”を引き寄せては腰を打ち、“彼女”を穿つ作業に専念した。

「あっ、あゆみくんっ、らめぇっ」

 もはや呂律が回らなくなった“菜子”が、それでも懇願する。手を弛めてほしいと。壊れちゃう、壊れちゃうよと繰り返す。しかしおれは弱めない。むしろぎゃくに、を増す。さながら削岩機のごとくに。

 兇暴きょうぼうな思いに満たされていた。“菜子”の言葉を耳に入れて、おれの中の何かが覚醒していた。

 

 獣心じゅうしんのごときその思いに、全身が席巻されていたのである。

 ……だがおれは、その理由に至れなかった。もう数秒の余裕があれば、到達できたかもしれない。何ものにも代えがたい、何よりも大切な“菜子”に対して、なぜそのような考えをいだいたのか、その理由を。

 しかしそれは叶わない。とつじょ訪れた射精感が、おれの思考を塗りつぶす。意識はただ一点へと収束を果たす。理性はそれに抗えない。荒波にさらわれたかのように、表層に浮いていたそれらは剝ぎ取られていた。

 菜子! おれは叫ぶ。雄叫びを挙げる。そして渾身ので、“彼女”の肢体を引き寄せる。応えて“彼女”も声を挙げる。音を発する。言語化に至れなかった感情を。ただ声質で、伝えてくる。! と。

「が――ああ、あああああっ!」

 咆哮した。絶叫した。生命維持をつかさどる、あらゆるを搔き集めた。この一瞬のために。“彼女”から手を離し、あけずに後ろから抱きしめる。呼吸いきができないほどに強く。躰の軋む音が聞こえるほどに劇しく。そう限界まで密着し、――そしておれは貫いた。肉の裂ける音がしたかと錯覚おもうほどに深く、深く、深く。先端が内蔵にまで達したかまでに突き刺した。そしておれは注ぎ込む。生産量の限界を超えて、血尿かと疑うほどの痛みを伴いながら、それでも歯を食い縛り流し続ける。それを緩和しようと、より一そう強く抱く。華奢な“彼女”が、壊れてしまうくらいに。

「~~~~!!」

“菜子”は全身を痙攣けいれんさせる。もはや自立は叶わない。おれの腕に躰を預け、脱力の限りを尽くしていた。……やがてそれすらも行われなくなる。時おり反射反応を示すで、あとは死人しびとのように動かない。見ると、喪神そうしんしていた。顔を桃色に染め、満足しきった表情で、瞳を閉ざしている。ゆっくりと呼吸が紡がれる。密着した今、おれは血流も感知できる。それでも鼓動は聴こえない。早鐘のごときおれのそれが、反響するである。耳朶じだを撫でるは、エンジンの駆動音。すっかり意識から締め出されていたそれが、夜気を震わせていた。

(…………。)

 一体どれだけこうしていたのだろう、燃料の残量を示す針は、ひと目盛り分下がっていた。もったいないことしちゃったな、そんな模範解答が紡がれる。感情は追随しない。ただ暗記した公式を復唱したかのようだ。まったく機械的で、非、思索的な感想である。もう何も考えられない。圧倒的な疲労が全身を被い尽くしていた。ぜいぜいと調子の悪いのような呼吸を繰り返すのが精いっぱいであった。“菜子”の胎中たいちゅうに精を放つ代償として、おれは寿命すら削っていた。脳細胞に始まって、あらゆる部位のそれが破壊されていた。いや、今げんざいもそうだ。頭蓋ではと生体部品が爆ぜてまない。思いどおりに動かない肉体は、“菜子”を抱きとめている現状を保つのがである。それでもおれは満足した。先の一瞬と引き換えになら、生命いのちなげうつことさえ惜しまないと、本気で思っていた。

(…………。) 

 ゆっくりと、おれのそれを“彼女”のそれから引き抜いた。おれの生殖器はすでに硬さを喪っている。平時の状態に戻ったそれは、もはや封の役目を果たせない。“彼女”の中からあっさりと生み落とされる、滴り落ちる体液と共に。酷使された“彼女”の器官は、の統制から解放された今、まったく怠惰な相を覗かせる。開口部は弛みきったまま、おれの直径をかたどっている。必然“彼女”の内部を満たしていた粘液も、重力に抗えずにこぼれ落ちる。ゆっくりと、白い糸となって。スローモーションのように線を引き、やがて地表に円を描く。おれはその一部始終を、茫漠とした瞳に映す。摩滅まめつした意識の中、それでも再び確信する。

 ――幻なんかじゃないと。

 そう、“彼女”は、“菜子”は、おれに与えられた祝福なのだ。平凡きわまりない日常に舞い降りた、天の遣いなのだ。なぜおれなのかは解らない。特別の素質があったのかさえ、判然ではない。。物語の主人公として。だったら疑問を挿む必要がどこにある? 理路整然な説明が必要か? ……。そう、を受け容れれば良いのだ。小説や漫画の主人公と同様、異常なまでの環境適応能力を発揮させ、この非、日常を日常として馴染ませ、破綻することなく綴り続ければ良いのだ。簡単なことだ。たった、たった一つの条件を呑みさえすれば。

 そう、

 

 他の誰かの賛同を得ようとするから、齟齬そごが生じるのだ。共感してもらおうなどと考えること自体、そもそものだ。“菜子”と、“菜子”以外の、その両者を得ようとすることが、間違いなのだ。そう、特別な何かを手に入れたいと願うなら、それが特別な分だけ、所有者は多くの対価を払うことが求められるのである。それが等価交換の法則というものであろう。両方を欲しがることは許されない。ことわざにもあるじゃないか、“二兎を追う者は一兎をも得ず”と。

 そう、

 だったら、

 ――――……。


 …………結局おれは気づけなかった。己の思考回路の危うさに。そう、まさしくその理論は、高校時代、あのセンゴクによって散々に蹂躙された人々が築いていた、


『向こう側』の住人のそれだったのである。

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