第03話 09
おれの天秤は、この日を境に一方へと急激に傾き始めた。もはや取り繕うことも億劫になっていた。躰の不調を言い訳にして、皆との接触を減らしていった。私室に閉じこもり、“菜子”と二人、濃密に時を重ねていった。友人らはみな優しく、おれを気づかい、心配してくれた。にもかかわらず、
しかし結論から述べれば、皆の温情は――悲劇の
温かな手に曳かれ、おれは復調を果たしてしまったのだ。
……おれは知っていたはずだ。幾たびも目にしていた。『彼岸』の住人の、その完膚なきまでに打ちのめされた有りようを。逆に言えば、センゴクという破壊者が現われるまで、人々は幸福だったという、紛れもない真実を。……なるほど世間からはずれているだろう、だがしかし、当の本人たちにとっては、それはどうでも良いことなのである。重要なのは、自分がどうかという、ただ一点なのだ。狂人には狂人のことわりがあり、そして世界がある。それを他者の物差しで測り、断罪するのは果たして正しいことなのだろうか。世界に迷惑を及ぼさない限り、許容しても良いのではないだろうか――、と、幻想が打ち砕かれ、
“菜子”がそれを望んだことも大きかった。……鎖された箱庭で二人、おれたちは誰にも邪魔されずに時を重ねる。息づまるほどの濃密な時を。だがそれは、おれには心地好い息苦しさだ。そのときのおれは、字義どおりの意味で、“菜子”以外は何も要らないと感じていた。しかし事あるごとに“菜子”は忠言を入れてくる。バランスが欠けているわと。お友達ともちゃんとお付き合いしないといけないわと。……“彼女”の言葉は、もちろん理解できた。おれ自身、実体験として脳に刻まれていただけに、“彼女”の危機感はなおさらに共感できた。このまま“菜子”に傾注を続け、その他を疎かにし続ければ、早晩その関係は破綻するだろう。望みもしないのに外部から矯正者がやって来て、治療という名目の、そのじつ無慈悲な鉄槌を下すに違いない。センゴクがまさにそれだ。そのような人々と係わりあいになりたくなければ、今まで行なってきたように、擬態をするべきと。(いちおう断わっておくと、“菜子”はそんな嫌らしい計算から助言してきたのではない。まったくおれを心配して、温言をかけてくれたのである。)だが視野が狭まっていたそのときのおれには、それは“二兎を得る”行為でしかなかった。“菜子”に対する背信としか捉えられなかった。おれしかいない“菜子”。
だがそれは、
『ううん、それは違うよ、歩美くん』
穏やかながらも一蹴されていた。
『違うって、何が?』
おれは即座に問い返す。
そしておれの焦燥は、“彼女”が、
『あのね、』
言いかけて、しばしの逡巡の後、
『ううん、何でもない』
ゆるゆるとかぶりを振ったときに、いよいよ頂点に達していた。……菜子、何を言おうとして、そしてどうして言わなかったの――、尋きたくて仕様がなかった。しかしおれは恐れた、決定的な亀裂の可能性に。それを尋いてしまうことで、事態が修復不可能なくらいに進展、あるいは後退してしまったら――。そんな根拠のない恐怖心に立脚し、おれも“彼女”に倣い、口を噤んでいた。
……結局、沈黙を破った“彼女”の、
『ね? とにかく、今のままじゃダメよ。だから歩美くん、前みたいにみんなと仲良くして?』
理由を明かさずにお願いするそれを、応諾するしかなかったのである。
それは結果的に正解だったといわざるを得なかった。あとで知ったことだが、変調をきたしたおれに、皆はそれぞれ、自分なりの解釈を試みていたそうだ。環境が変わったせいだとか、病気のせいだとか、(これは早早に否定したのだが、納得してもらえなかったようだ。)はたまた失恋しちゃったんじゃないかとか、様々な憶測が入り乱れたらしい。そして分けても危険だったのが、この家に棲みついている『何か』に、関口くん、取り憑かれちゃったんじゃないかしら、というそれだった。人によっては微苦笑で応じるしかないだろうその仮説は、しかし怪異に肯定的な人には、充分に考慮に値するものだった。この説の提唱者である、迷信深い女の子に至っては、これが真相で間違いないわと、信じて疑わなかったようである。
『だって、じっさい関口君も、見たって言ってたじゃない』
とは、その友人の弁である。そう、いつぞやの、あの友人だ。“菜子”から注意を逸らすためにでっち上げた幽霊話に、真っ先にかかった彼女である。……彼女の中では、おれの家は何か悪いものの
そう、まったく危ういところだったのだ。あと少しでもおれの行動が遅ければ、例の『矯正者』が召喚されてしまうところだったのである。(……ただこの土地でいう『矯正者』とは、近隣一帯の守護者だったという、
こうしておれは、寸時で災禍を身に招くことを回避できたわけだったが、反して根本的な問題は、何一つ解決してはいなかった。おれは今までどおり、皆のために時間を割き、共に語らい、交わり過ごす。そして友人らが帰宅した後、待望のひと時を、つまりは“菜子”との蜜のごときひと時を、二人で共に楽しんだ。平穏で安楽で、しかし刺戟的なひと時だ。このひと時のために生きているといっても、過言ではない。そう、過言ではなかった――、が、同時におれは、日常にも同様の情熱を注ぎ込んでいた。均衡を保つよう、今まで以上に心を砕いた。先の経験……いや、失敗から、学んでいた。他人の理解を得られぬ言動がたどるであろう、悲惨な末路を。その事実を誰よりも知っていたはずのおれだったが、果たして理解に至っていなかった。ずれた人物がひとり紛れ込むだけで、その組織がどれだけの不協和音を奏でるのかを。狂った音は、周囲に影響を及ぼす。周囲に伝播し、感染させる。そうして周囲もおかしくなる。歯車が嚙み合わず、軋み始める。最悪の場合、その一群は崩壊してしまうだろう。
……幸運なことに、おれはその手前で引き返せた。だが次はないだろう。もう一度おなじことを繰り返した暁には、必ず何らかの処理を受けることとなるだろう。望む望まないにかかわらず。……それだけは何としても避けなければならない。“菜子”の喪失――、それを回避するためだったら、おれは汚泥をすすることすら
しかし
それはまったくの自業自得であった。おれ自らが招いたものだった。……おれは失念、いいや、軽んじていたのだ、無意識のうちに。皆との関係の修復に粉骨砕身しておきながら、そのじつ真心は伴っていなかったのだ。おれにとっての世界はあくまで“菜子”と共にいる世界で、皆との日常は
なのでおれは、罰を受ける。
“菜子”を喪うという、最大級の厳罰を。
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