第03話 06
……。
……。
張り詰めた緊張は、唐突に破られた。おれが大笑したのだ。寸刻を待たずして、“彼女”から抗議の声が挙げられる。ちょ、ちょっとー、真面目な話なんだけどー、と。だが
頭上から、声が降り注ぐ。歩美くん、笑ったら失礼じゃない、と。おれは泪まじりのまなこで頭上を仰ぐ。果たして声のした場所には、諭した口調そのままの、年長然とした“彼女”が、
「ちょっと、歩美くん、いい加減にしなよ」
“菜子”の声に
「絶対って……、そんなこと、どうして言い切れるの? 相手がどんな気持ちでいるかなんて、言われなきゃ判んないじゃない」
「それが判るんだな」
「どーしてよっ?」
まあ、落ち着きなよ、おれは前のめりになる“彼女”をなだめすかす。……しかし、“菜子”にこんな一面があるとは意外である。浮雲のようにほんわかとした側面しか、今までおれは目にしていなかった。(あとは人懐っこい子猫のようなそれと、肉欲の炎が
「だから万が一、卯月さんがおれにそういう感情をいだいていたとしても、それはいだいたままで終わるはずだよ。きっと心に秘めたまま、綺麗な想い出として、しまわれるんじゃないかな」
「そう、なんだ……」
「うん。卯月さんだったら絶対、和を乱すことなんて、しないはずだよ。だから菜子が気を揉まなくても、良いんだよ?」
「そっか……」
との言葉とは裏腹に、“菜子”はまだ不承顔である。納得、できないのだろうか。それとも恋愛至上主義者よろしく、人を愛する心の前では、どんな障害も障害
そう言うと、“菜子”はこれ見よがしに、ため息をついた。歩美くんって、ホント、おめでたいのね、呆れた口調で肩をすくめる。なにやら馬鹿にされている。でもこれも、照れ隠しの一であろう、本心ではきっと、ほっと安堵しているに違いない、そう“彼女”の心中を
「おれ、もう我慢できないよ」
それは紛れもない事実である。ただ何に対して我慢ができないのかをぼかしただけで。しかし浅はかな欲望は簡単に見抜かれてしまう。真剣に
だったら、とおれは開き直る。近寄って、“彼女”のももに
だが期待に反して、スカートの内側に潜り込んだおれの手は、止められてしまう。布地の上から、“菜子”の
「
前戯――とおれは反応する。官能的な表現を“彼女”に用いられるだけで、おれはパブロフの犬のごとき反応を、解りやすく言えば、
「それじゃあ、早く行こ?」
慎重派を自認しているおれも、今ばかりは異なっていた。即断即決である。“菜子”が変心してしまわぬうちに、屋外へと連れ出してしまおう、そう行動を起こしていた。ひとたび運転してしまえば、あとはこちらのものである。温められた“彼女”は、まるで
「ちょ、ちょっと~」
“菜子”の抗議も馬耳東風、おれは有無を言わさず歩を進める。駐車場に転がり出、“彼女”を助手席の脇に降ろしていた。“菜子”は靴下のまま地面に立つ。だが“彼女”の足が汚れることはない。“彼女”の両足は、後輪タイヤのホイールと連動している。したがって、そこが綺麗である限り、“菜子”が汚れを負うことはないのである。(逆説的に言えば、タイヤが汚れているときは、“菜子”の手足も汚れていた。いや、実際は、汚れているように見えるだけで、その靴下で室内を歩こうが、その手袋で物を持とうが関係ない。おれが触れても、土ぼこりがおれの手につくわけでもない。ただ目に見える形で主張するだけだ。汚れていると。他の部分、洋服や、肌についても同様だ。綺麗にしてあげないと、汚れが浮かんでくる。しかしそれに、臭いや感触は伴わない。泥が跳ねた箇所に舌を這わせても、何の味もしない。ただ“菜子”の、甘い体臭がするだけである。なので放っておいても実害はないのだが、それでもおれは定期的に“彼女”を洗車していた。“彼女”も口には出さないが、それでも身だしなみはしっかりとしていたいに違いない。真実そのとおり、洗ってあげると“彼女”は大そう喜んだ。そしてその姿は、おれが時間と体力を消費するに足る、充分すぎる理由となっていた。)
さあ、とドアを開け、“菜子”をエスコートする。“彼女”相手にその行為は、まったくの無意味であったが、いつの間にかそれが定着していた。もう、しょうがないわね、そう言いつつ、“菜子”は車内へと滑り込む。飽きずに体裁を繕っている。これまた毎度のことであったが、おれが懇願し、“菜子”が渋渋と同意する、これが二人の間での、暗黙の了解となっていた。あくまで請われたから、という姿勢を“菜子”は堅持する。どのような心理が働いているかは、想像に
ねえ、とさらに大胆に迫る。“彼女”が受身でいる以上、こちらが手を曳いてあげないといけない、使命感に背を押され、おれは“菜子”に告げる。もう屋根開けても良いでしょ、と。
もう~、再び甘い声があげられる。歩美くんったら~、と。だがその声音には、否定の意思は感じられない。形ばかりの抗言だ。なのでここは、押しの一手だ。
「ね、お願い、菜子?」
「…………」
「ね、ね?」
臆面もなく願望を述べるおれに、見せかけばかりの楼閣は、あっさりと開門する。“菜子”は両手を胸の前でもじもじとさせながら、うん、と小さく頷いていた。
やった、おれは小躍りする。そして嬉々として、ほろを繫ぎ止めている二つの金具を外しにかかる。軽快な音がしじまに響く。ごくり、咽喉の鳴る音と共に。“菜子”がこちらを向く。おれの鳴らした音を耳ざとく捉えていた。だが目が合うと、直ちに逸らしてしまう。硬直させたまま、羞じらいに瞳を伏せてしまう。ぞくぞくと背が震えた。背徳感に冒された。嫌がってはいない、だが羞恥に沈んでいる“彼女”の姿態に、この上なく本能が刺戟されていた。
ゆっくりとほろを開ける。
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