第03話 06

 ……。

 ……。

 張り詰めた緊張は、唐突に破られた。おれが大笑したのだ。寸刻を待たずして、“彼女”から抗議の声が挙げられる。ちょ、ちょっとー、真面目な話なんだけどー、と。だがこらえきれない。この世の終わりみたいな表情かおして、何を言い出すのかと思えば、よりによってそんなこと考えてたんだ――、おかしくて仕様がなかった。終いには腹ばいになり、畳をと叩き出す始末であった。

 頭上から、声が降り注ぐ。歩美くん、笑ったら失礼じゃない、と。おれは泪まじりので頭上を仰ぐ。果たして声のした場所には、諭した口調そのままの、年長然とした“彼女”が、柳眉りゅうびを持ち上げていた。おれと視線が交わると、もう一度、真剣な想いをそうやって軽んじるのは、とってもいけないことなのよと諫言かんげんを入れてきた。もちろん、解ってるよ、おれも答える。だが笑波しょうはが収まらず、声が切れ切れになってしまっている。これではまったくの逆効果だ。その証拠に、“菜子”の眉間に皺が寄っている。明らかに不快感をいだいている。しかし、事情を知っているこちらとしては、“菜子”の憶測は、ただの冗談の域を出ないのだ。彼女――卯月さんは、共同体意識の強いこの土地に縛られているのである、そのことをおれは理解しているので、“菜子”の無用な心配を、こうして一笑に付しているのである。

「ちょっと、歩美くん、いい加減にしなよ」

“菜子”の声にけんが混じる。このままだと本気で怒られてしまいそうだ。なのでおれは種を明かす。菜子の考えていることなんて、絶対あり得ないからと。

「絶対って……、そんなこと、どうして言い切れるの? 相手がどんな気持ちでいるかなんて、言われなきゃ判んないじゃない」

「それが判るんだな」

「どーしてよっ?」

 まあ、落ち着きなよ、おれは前のめりになる“彼女”を。……しかし、“菜子”にこんな一面があるとは意外である。浮雲のようにとした側面しか、今までおれは目にしていなかった。(あとは人懐っこい子猫のようなそれと、肉欲の炎がともったときの、みだらなそれである。)案外と激情家だ。それとも話題が、恋愛のそれだからであろうか。えてして女性は、それらを神聖視するものと聞く。自らの価値観では、聖域に等しいそれを、わらわれたと思っているのかもしれない。土足で侵された上に、踏みにじられたと感じているのかもしれない。だとしたら、誤解は早く解くに限るか……、おれは気持ちを改め、“彼女”と対峙する。得心が行かないと、ありありと表情で示している“彼女”に、詳細を開示する。ここでは個人の感情よりも、共同体ののほうが優先されるという、卯月さんのを復唱する。

「だから万が一、卯月さんがおれにそういう感情をいだいていたとしても、それはで終わるはずだよ。きっと心に秘めたまま、綺麗な想い出として、しまわれるんじゃないかな」

「そう、なんだ……」

「うん。卯月さんだったら絶対、和を乱すことなんて、しないはずだよ。だから菜子が気を揉まなくても、良いんだよ?」

「そっか……」

 との言葉とは裏腹に、“菜子”はまだ不承顔である。納得、できないのだろうか。それとも恋愛至上主義者よろしく、人を愛する心の前では、どんな障害も障害りえないと考えているのだろうか。まあ、“菜子”がどう思おうが、現実は前述のとおりなのだ。納得してもらうほかあるまい。……っていうか、これってもしかして、やきもち、ってヤツ?

 そう言うと、“菜子”はこれ見よがしに、ため息をついた。歩美くんって、ホント、おめでたいのね、呆れた口調で肩をすくめる。なにやら馬鹿にされている。でもこれも、照れ隠しの一であろう、本心ではきっと、ほっと安堵しているに違いない、そう“彼女”の心中を忖度そんたくした。それじゃあ、と気分を一新する。菜子、今日もドライヴしに行こう? “彼女”を誘う。

「おれ、もう我慢できないよ」

 それは紛れもない事実である。ただ何に対して我慢ができないのかをだけで。しかし浅はかな欲望は簡単に見抜かれてしまう。真剣にかくそうともしないおれは、情けないものを見るかのような目つきで応えられてしまう。やれやれと嘆息して、本当に我慢できないのは、別のものなんでしょと、寸分たがわずに本心を捉えられていた。

 だったら、とおれは開き直る。近寄って、“彼女”のを這わせる。ゆっくりと、ねえ、良いでしょと了承を求める。おれは一秒さえも惜しんだ。この場で“菜子”の許可が下りるのなら、それに越したことはないのだ。

 だが期待に反して、スカートの内側に潜り込んだおれの手は、止められてしまう。布地の上から、“菜子”のに押さえつけられてしまう。ダメよ、花の蜜のような甘い声が奏でられる。まずはわたしを喜ばせてくれないとね、と。

前戯ぜんぎを疎かにする男性ひとは嫌われちゃうわよ」

 ――とおれは反応する。官能的な表現を“彼女”に用いられるだけで、おれはパブロフの犬のごとき反応を、解りやすく言えば、陽根ようこんをそそり立たせていた。“彼女”に目をやる。“彼女”もまた艶めかしい視線を、こちらに贈っている。紅を差したかのように赤らんでいる。なんだ、菜子もその気じゃんか、そう立ち上がる。“菜子”に差し入れていた腕を抜き、両腕で“菜子”を抱きかかえた。羽毛のように軽い“菜子”は、簡単に持ち上げられる。一秒後には、しっかりとおれの懐にしまわれていた。

「それじゃあ、早く行こ?」

 慎重派を自認しているおれも、今ばかりは異なっていた。即断即決である。“菜子”が変心してしまわぬうちに、屋外へと連れ出してしまおう、そう行動を起こしていた。ひとたび運転してしまえば、あとはこちらのものである。温められた“彼女”は、まるで微酔びすいしたかに機嫌を良くし、そしてこちらの求めにも快く応じてくれる。いや、むしろ“菜子”のほうが積極的になるくらいだ。その事実を知っているからこそ、おれはこうして急いでいるのである。

「ちょ、ちょっと~」

“菜子”の抗議も馬耳東風、おれは有無を言わさず歩を進める。駐車場に転がり出、“彼女”を助手席の脇に降ろしていた。“菜子”は靴下のまま地面に立つ。だが“彼女”の足が汚れることはない。“彼女”の両足は、後輪タイヤのホイールと連動している。したがって、そこが綺麗である限り、“菜子”が汚れを負うことはないのである。(逆説的に言えば、タイヤが汚れているときは、“菜子”の手足も汚れていた。いや、実際は、で、その靴下で室内を歩こうが、その手袋で物を持とうが関係ない。おれが触れても、土ぼこりがおれの手につくわけでもない。ただ目に見える形で主張するだけだ。汚れていると。他の部分、洋服や、肌についても同様だ。綺麗にしてあげないと、汚れが浮かんでくる。しかしそれに、臭いや感触は伴わない。泥が跳ねた箇所に舌を這わせても、何の味もしない。ただ“菜子”の、甘い体臭がするだけである。なので放っておいても実害はないのだが、それでもおれは定期的に“彼女”を洗車していた。“彼女”も口には出さないが、それでも身だしなみはとしていたいに違いない。真実そのとおり、洗ってあげると“彼女”は大そう喜んだ。そしてその姿は、おれが時間と体力を消費するに足る、充分すぎる理由となっていた。)

 さあ、とドアを開け、“菜子”をエスコートする。“彼女”相手にその行為は、まったくの無意味であったが、いつの間にかそれが定着していた。もう、しょうがないわね、そう言いつつ、“菜子”は車内へと滑り込む。飽きずに体裁を繕っている。これまた毎度のことであったが、おれが懇願し、“菜子”が渋渋と同意する、これが二人の間での、暗黙の了解となっていた。あくまで請われたから、という姿勢を“菜子”は堅持する。どのような心理が働いているかは、想像にかたくない。じらっているのだ。そんな奥ゆかしい様は、大変に好感が持てる。やはり大和撫子とは、こうであってほしいと思う。

 ねえ、とさらに大胆に迫る。“彼女”が受身でいる以上、こちらが手を曳いてあげないといけない、使命感に背を押され、おれは“菜子”に告げる。、と。

 もう~、再び甘い声があげられる。歩美くんったら~、と。だがその声音には、否定の意思は感じられない。形ばかりの抗言だ。なのでここは、押しの一手だ。

「ね、お願い、菜子?」

「…………」

「ね、ね?」

 臆面もなく願望を述べるおれに、ばかりの楼閣は、あっさりと開門する。“菜子”は両手を胸の前でとさせながら、うん、と小さく頷いていた。

 やった、おれは小躍りする。そして嬉々として、を繫ぎ止めている二つの金具を外しにかかる。軽快な音がに響く。、咽喉の鳴る音と共に。“菜子”がこちらを向く。おれの鳴らした音を耳ざとく捉えていた。だが目が合うと、直ちに逸らしてしまう。硬直させたまま、羞じらいに瞳を伏せてしまう。と背が震えた。背徳感に冒された。嫌がってはいない、だが羞恥に沈んでいる“彼女”の姿態に、この上なく本能が刺戟されていた。

 ゆっくりとを開ける。視軸しじくを“彼女”に固定したままで。ゆっくりと、丁寧に、焦らすように畳んでいく。呼応して、深緑のワンピースが、上からゆっくりと消滅していく。光の粒子となり、大気に拡散していく。そしておれがを完全に開け放ったときには、“彼女”は初めて目にしたときと同じ、わずかな布地で上下を隠すの姿と変わっていた。(……精確に記すと、ただ一点、あのときと異なる箇所が、“彼女”にはある。上下の下着の左側、ちょうど車輌本体と同じ場所、そこに握りこぶしサイズの徽章きしょうがついていた。若葉マークの形をしたそれは、まさしく所有権が初心者のおれに移譲された証拠であった。)

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