第03話 05

(!)

 心臓が、見えない手で握りつぶされる。と息を呑む。躰を強張らせる。……どうして、疑問が迸りそうになる。卯月さん、どうして知ってんの、と。

 ……たしかにドライヴはしている、それも毎日欠かさずに。一日の締めくくりとして、おれは“菜子”と遠乗りすることを日課としていた。“彼女”自身、自動車という、もともと乗られるために造られたものであったために、それを大変に喜んでくれた。“彼女”にとって運転されるということは、存在理由レーゾン・デートルに等しい。なのでおれがハンドルを握り、愉しそうに車を操るだけで、“菜子”はこれ以上ないくらいに満足していた。“彼女”の機嫌をとる方法は、極めて簡単だ。(まあ、不機嫌になるということ自体、あまりなかったのだが。)そう、運転してあげれば良い。それだけで“彼女”はご満悦なのである。わたしを運転してくれる人が愉しそうだったら、それだけでわたしは幸せなの、そんな殊勝なことを“あいつ”は言っていたものだ。

(それを、おれたちが睦まじくしている様を、見られたのか――?!)

 もしそうだとしたら、大問題だ。道中ずっと、おれは助手席の“菜子”と語りあかしている。しかし果たして、卯月さんの目にはどのように映ったのだろうか。一人芝居をしている奇妙な光景として映ったのだろうか。それとも見知らぬ少女を隣に乗せていると訝しんだのだろうか。いずれにせよ、あまり歓迎したくない展開である。おれは慎重に言葉を選ぶ。うん、そのつもりだけど、でもどうして、そう尋ねてみる。対面の彼女、卯月さんの反応を窺う。返答いかんでは、弁解に終始しなければいけない、そう覚悟を決めて。

 しかし彼女の返答は、予想のどちらでもなかった。うん、と一つ頷いてから、

「あのね、その……、またロードスター、運転したいなって……」

 面映く身を縮めたのだった。

(な、なんだぁ……。)

 どっとが抜けた。安堵のあまり、その場にしゃがみ込んでしまう勢いだった。なんだ卯月さん、運転したかっただけかぁ、拍子抜けするような結論に、気がれた人のごとく、哄笑しそうになっていた。……いや、じっさいおれは笑っていたようだ。ちょ、関口くん、そう卯月さんが心配げに声をかけてくれるまで、おれはと声を洩らしていた。ただ自覚がなかっただけで。

 ごめんごめん、みながら謝った。そして続けて、良いよと了承する。卯月さんが乗りたいって言うんなら、いつでも貸してあげるよと。(おれの車の任意保険は、家族制限を外してあるので、誰が運転しようが保険は下りる。それでも最高ランクの等級である、父の名義を用いているため、月月の保険料はそれほどでもない。貧乏学生には、大変ありがたいことである。)

 でも今晩はちょっと……、言葉を濁した。今晩の“菜子”との逢瀬は、邪魔されたくない。今日はいろいろと忙しくて、“彼女”と二人になれる時間を、まだ作れていなかった。渇望してやまない心身とは反対に。もはやおれは、一日として“彼女”なしではいられない躰に作り変えられていた。禁断症状が顕われはじめた依存症患者と同等なほど、もう我慢の限界に達していたのだ。

 その必死な空気を察したらしい、卯月さんは、もちろん今日でなくても構わないわと、柔軟な姿勢をみせてくれた。さすがは配慮に定評のある卯月さんである。あまりにも淡泊に望みを取り下げるので、知らない人には誤解を与えそうだ。しかし決して執着心に乏しいわけではない。乏しいわけではないのだが、だがしかし、それ以上に相手の心境をおもんぱかってしまうのである。そしてそれが対立をみるや、直ちに矛を収めてしまうのだ。利他的な精神に満ち溢れている、彼女ならではといえた。おれにはとても真似できそうにない。きっと両親の教育の賜物であろう、そうふた親に、責任を転嫁することにした。

 週末に時間を設ける約束を交わした。晴れると良いね、そう言うと、満面の笑みで応えてくれた。大きく手を振って、卯月さんは去っていく。おれも振り返して見送った。だが酷薄にも心は別の方角を、精確に表現すれば、真後ろを指していた。これからの二人の時間を夢想した。焦らされた分、いつもより貪欲に求めてしまうかもしれない。しかしひとしきり走らされ、温められた後の“彼女”もまた、平時の数倍の積極さを覗かせる。煌めく星空の下、熱烈に求め合い、躰を重ね合う悦びは、何ものにも代えがたい。その烈しいひと時のことを想うだけで、おれの血液はと煮えたぎっていた。

『歩美くん……』

 吐息と共におれの名が紡がれる。排熱機関がうまく稼働していないかと錯覚おもわせる、それは熱い吐息だ。耳もとで囁かれるたび、理性が融解する。おれも倣って唇を寄せる。形の好い“彼女”のそれに口づける。“菜子”はくすぐったそうに身悶える。軽く抵抗する様が、おれの嗜虐心に油を注ぐ。“菜子”が赦してと懇願するまで、執拗に責めつづける。抵抗力が喪われ、おれの胸中でと弛緩するまで。そうしてされるがままにまかせる“彼女”を、おれは隅隅まで堪能し尽くすのである。……いつものその工程を想い描いただけで、もう達してしまいそうだ。それくらい、おれはかつえていた。一刻も早く“菜子”と出かけよう、そう“彼女”を呼びに、室内へと駈け戻っていた。

「…………」

 しかし今度は、水を差される格好となっていた。奥の部屋、おれの私室で膝を抱えている“彼女”に、盛んだった火勢は、みるみると萎れ、消されてしまっていた。平時の様子を酸素に喩えるならば、今の姿――辛そうに俯向うつむくその姿は、二酸化炭素だろう、直ちに鎮火される欲情に、おれはそんな感想をいだいていた。

 ど、どうしたの、恐る恐る問い尋ねる。つい先ほどまでの幸福そうな状態から一転、まるで鉛を呑んだかのような沈痛な表情に、おれは不穏なものを嗅ぎ取っていた。おれのいない間に、何かあったのだろうかと、“菜子”に限ってそんなこと、他の誰かから影響を受けることなどあり得ないというのに、おれはそう考えていた。それほどまでに狼狽していた。

 しばらくを待ってから、“彼女”は顔をあげた。反応が鈍い。まるで音がゆっくりと伝達しているかのようだ。交錯した瞳にも、生気が感じられない。病人のような、うつろなである。時ここに至っては、認めざるを得ない。。影響を受けるはずのない“彼女”に。そしてそれは、喜ばしい出来事では、なかったのだ――。

 心を整え、“彼女”の前に正坐する。どうしたの、何かあった? 嚙んで含めるように話しかける。

「…………」

 またもが置かれる。しかしこのたびは、理由はしている。明らかな逡巡を、“菜子”はに顕わした。いまだ己の中で消化しきれていないと、言葉によらずに伝達していた。……だがそんなものを送られても困る。理由の伴わない感情を突きつけられても、返答に窮するである。そう送り返す。何か気にかかることあるの、と。そして辛抱強く待つ、“彼女”の唇の門が開かれるときを。

 ……やがて、きつく引き結ばれていた“彼女”の唇が、おもむろに開かれた。おれの忍耐は、たしかな報いを得た。歩美くん……、“菜子”はしっかりとおれの名を大気に刻む。しかし言葉は続かない。まだ一歩を踏み出そうか迷っていた。いったい何にだろう、沈黙の最中、おれはおれで心当たりを探っていた。だが一向わからない。この短時間に、“菜子”がここまで沈痛な表情かおまでの出来事は、何一つなかったはずだ。だったらどうして――?

 と。

「――あのね、歩美くん」

 今までのいたような口調から一転、毅然とした語調を用い、“菜子”はと目を向けてきた。尋常ではない迫力、そして真剣さであった。おれも慌てて背を正す。傾聴する様を躰全体で表わした。……だがそれは道化に終わる。“菜子”はおれの両眼りょうがんにしか注意しない。見据える眼光は、さながらきりのようだ。視野を狭める代わりに、驚くほどの鋭さで、おれの眼球を貫き通す。実際そうされたかのように、おれの瞳は“彼女”に向かって固定させられていた。

 その“彼女”が言を紡ぐ、

「歩美くん、さっき話していた女性ひと――なんだけど、」

 と。

「さっきって……、卯月さん?」

「そう、卯月さん。その卯月さんって、わたしをここに運んでくれた人よね」

「うん、そうだけど……」

 今ひとつ話が見えてこない。要領を得ない話し方だ。……重ねた時間はまだ短いものの、お互いの心情はある程度把握はあくし合える仲である。“菜子”が今どんな心境でいるかは、予測がついた。己を奮起させている。卯月さんのことを喋るのに、どうしてそれが必要なのかは分からないが、“彼女”が気力を費やしているのは事実だろう、そうおれは分析した。でもどうして――? 再び表層に上らせた疑問を、まるで聴こえたかのように“彼女”は口にした。その理由を。


 あの女性ひと、歩美くんのこと、好きなんじゃない――? と。

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