第03話 04

「関口くん、また独りで笑ってるよ?」

 それを目ざとく卯月さんに見られてしまう。彼女はおれの視線を伝う。それが閉められた私室への出入り口にぶつかっているのを視認する。そして、ん、どうしたの?無邪気に問い尋ねてくる。おれのニヤついている理由に至れないのだ。周囲の友人たちも、倣って視線を移動させる。何もない空間にそれを移す。しかし移したところで無駄である。“菜子”はもう向こう側に行ってしまったし、そもそも皆は“菜子”が見えないのだから。

 それを裏づけるように、みな一様に首を。何か見える? ううん、何も、と目線で会話する。そしておれへと戻す。まさに視線の集中砲火だ。疑問の表情いろをのせて、友人たちは見つめてくる。

 

 と。

「…………」

 おれは皆の視線をと受け止める。しかしひょうげた表情かおは忘れない。本気ではないと印象づけるために。冗談の一種と受け止めてもらうために。そうしてから、もったいぶった口調で語りだす、

「あのさ、前前から感じてたんだけどさ、ここってさ…………」

 と。そう思わせぶりに語尾を濁す。話術の初歩中の初歩だ。あたかも相手がこちらの結論を先回りしたかのように思わせて、そのこちらが相手の思考を誘導しているという、会話技術の一つである。相手の誰かが、こちらの予想どおりの単語を連想し、口にしてくれれば、しめたものだ。後は簡単にそのミスディレクションにくれる。他人に言われたことならまだしも、自分で思いついたことには、人は客観的になれないものだ。その心理を突かせてもらおうと、センゴク譲りの操心技法そうしんぎほうを用いていた。

 果たして女友達の一人が叫ぶ、

 !?

 と。

 内心でほくそ笑む。だが反して、表面は曖昧な微笑である。そのまま頼りなく言を紡ぐ。う~ん、はっきりと、ってわけじゃないんだけど~、白っぽいものがしてんの、何回か見たことあるんだよね~、と。でも見間違えかな~、そう付言することも忘れずに。

 ううん、そんなことないっ、とは先刻の友人である。すっかり己の下した結論に、確信をいだいているようだ。実際に見たこともないのに、さらになぜおれが笑っていたのかを、その答では説明できないというのに。……あとは楽なものだった。おれの怪しい行動に対する追及は終了し、話題は簡単に逸れていった。侃侃諤諤かんかんがくがくの討論が巻き起こる。もちろん議題は、この世ならざるものの存在の有無である。ときたまこちらにも意見を求められたが、おれは中立的な立場に終始した。見たといっても間違いなのかもしれないし、と逃げ道を残して語っていた。

「ほらー、やっぱり見間違えなのよー」

「そんなことないっ。きっと、ほら、ここ、もうふるいおうちだから、そういうのが引き寄せられてんのよ」

 旧いおうちって……、内心で苦笑する。いや、彼女の言葉には、誤謬ごびゅうはまったくない。確かに年数は経っている。だが旧家らしく造りは立派なものだし、住んでいて不都合を感じたことはほとんどない。破格値で借り住んでいるということも手伝って、おれは大家の老夫婦に同情を禁じ得なかった。

 ……結局、議論は深夜にまで及び、おれが一人の時間を得たのは日付が変わってからとなっていた。途中、否定派の友人が、見なきゃ信じられないと言い出し、おれの家に寝泊まりすると言い出したときには、冷や汗を搔いたが、おれの私的時間をこれ以上けずってしまっては申し訳ないと、その提案は立ち消えとなった。おれもには覗かせなかったが、安堵した。私的時間とは、畢竟ひっきょうおれと“菜子”との蜜月関係に相違ない。生活の最重要事項に位置づけられているそれが切り崩されるのは、本位に沿わない。正直を言ってしまうと、おれはこれでも我慢しているほうなのだ。本当は、一日中、一晩中でも、“菜子”と戯れていたいのだ。だがこれまで積み重ねてきた人生経験が、それを危険と断じていた。生活のバランスが崩れだす――、それはある種の兆候といえた。そしてそのような綻び、隙は、センゴクのような人種を呼び寄せてしまう。怪訝が不審、不審が異常へと、簡単に昇華を果たし、そのようなを決して容認しないセンゴクのような人人の、格好の餌食と化してしまうのである。それを実体験として知っているだけに、慎重にならざるを得なかった。真実と虚構とを絶妙に配合し、消臭ではなく薄臭はくしゅうを心がける。真実を薄めようとする。痕跡を完全に消すことはできない、それも知った真実だった。完全犯罪などというものが、所詮、絵空事であるように、真実は必ず、何かしらの跡を残す。それを否定しようとするから、余計にが出てしまうのだ。……なのでおれは、逆の戦略をとっていた。非実在を認めるとも認めないともとれる言動で、うっかりと致命的なを口走ったとしても、何とかよう擬態していた。“菜子”の生活臭が残されていても、なんら問題はない。おれはそれを、別の『何か』に責任を負わせ、さらにその『何か』にさえ疑問を呈す。勘違いだったのではなかろうかと。そのように十重二重とえはたえに防御壁を巡らし、その内側の真相を悟られないよう、腐心しているのである。

 庭に下り、友人たちを見送る。またねー、と、今度は写真、撮っといてねー、と口口に言いつつ帰っていく友人たちに手を振った。じゃあね、関口くん、また明日、にっこりと笑う卯月さんには、うん、また明日と、とびきりの笑顔を返した。

「…………」

 しかし彼女は立ち止まる。もはや見えなくなった友人たちと距離を置く。

「……どうしたの、忘れ物?」

 おれは尋いた。何なら代わりに取ってこようか、と。

 ううん、卯月さんは首を振る。そしてと瞳を伏せる。あ、あのね、そう声を上擦らす。まっすぐな彼女には、それは珍しい所作である。何か、言いにくいことなのかな、おれは思った。台所の食器とか、割っちゃったのかな、と。

 無論そんなわけはなく、永い逡巡の末に紡ぎだされた言葉は、まったく別のものだった。あ、あのね、関口くん、そう前置きしたあと卯月さんは、


「こ、今晩も、ドライヴ、しに行くの――?」


 上目づかいで、問いかけてきたのだった。

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