第03話 02

「本当のことって?」

 樹樹の葉がような囁きで、おれは答える。だが声量とは異なり、述べるは挑発的である。先ほどまで俎上そじょうに上っていた当の本人――おれのに向かって、否定ともられかねない返答をするとは、思いやりに欠けていると言わざるを得ない。内情を知らない第三者には、そのように映ってしまうかもしれない。しかしこれがおれたちなりの、スキンシップなのだ。一けん意地悪そうなことを言ったとしても、それは本心から出た言葉ではないのだ。不慣れなおれたちの、それは微笑ましい愛情表現なのである。

 その証拠に、“彼女”も一向、気分を害した様子は見受けられない。この程度の応酬、日常茶飯事なのだ。いささかも怯むことなく寄り添ってくる。にっこりと笑顔を咲かせ、ほらぁ、と甘い声でじゃれついてくる。

「ほらぁ、『いい人なら、ちゃんといるんだ』って、言ってもいいのよ?」

「さて、おれにそんな女性ひと、いたっけ?」

「もう~」

 薄情きわまりない言葉にも、“彼女”は膨れたを作るである。絶対の自信をいだいているのだ、自分が掛け替えのない地位に坐しているのだということに。そして実際そのとおりであった。減らず口を叩いてみても、結果は変わらない。おれが心身ともに“彼女”に耽溺しきっているのは、覆せない事実であった。つまらぬ見栄を張ってみたところで、“彼女”の自信を強める一助としか、それはならないのである。

 なのでおれはほこを収める。もとより深い意味などないのだ、固執する必要もない。ごめんね、そう謝る。ごめんね――――“菜子なこ”、と。

 おれの紡いだに、“彼女”――“菜子”は、破顔した。まるで子供のように純粋に、喜色をに描き出した。……どれほど壮麗に飾り立てても、そのふた文字には及ばない。たとえ日本でもっとも美しいふみを綴れる小説家が、その能力の限りを尽くしたとしても、このふた文字以上に“彼女”の心を動かせるとは思えない。それくらい、“彼女”――“菜子”にとって、そのふた文字――は、大切なものであった。(菜子の“菜”は、そのものずばり、“彼女”――『NA6C型 ユーノス ロードスター』のNAからとったものだ。安直にすぎるかとも思ったが、舌に馴染んだ今では、最良の名づけができたと自負するまでになっていた。そう自惚うぬぼれるくらい、本当に“彼女”は喜んでくれたのだ。)

「そうだね、おれには菜子がいるもんね」

 おれは眼差しで抱擁する。本当は抱き寄せ、抱きしめてしまいたかったが、人目を自重する。“菜子”が視えないみんなには、奇異に映ることは間違いないからだ。なんで代わりに、見えない手を用いる。熱い双眸そうぼうき焦がす。しばらくを待たずに“彼女”は融解する。と両眼が熱を孕む。歩美くぅんと濡れた吐息で甘えてくる。衆目の中心にもかかわらず、完全にスウィッチが入ってしまったようだ。おれも“菜子”の先導にこたえ応じ、血液を逆流させる。下半身の一点に集中させる。しかし寸前で踏みとどまる。このままお手洗いと中坐して、わずかに設けた空白の時間で親密になることも可能だったが、それでもおれは我慢した。“菜子”との時間は、あとでゆっくりと、幾らでも取れる。今は友人たちのために時間を用いるのが最善なのだと。そう告げる。あとで埋め合わせるから、それまで待っててね、と。

「うん、わかった」

 意外にも“菜子”は従順だった。あっさりと了解し、引き下がってくれた。きっと“菜子”も、わきまえているのだろう。それだけではない、理解もしているのだろう。二人の関係の露呈とは、その関係の終焉に近しい意味合いを、いだいているのだということを。……もしも“菜子”が見えないまま、おれが“彼女”に(この場合の“彼女”とは、車体そのものを指す。)欲情をいだいていると知られたとしたら、おれはまず間違いなく狂人扱いされ、病院へ連れていかれてしまうだろう。また一方、もしも“菜子”を他の誰かが認識できたとしたら、遠からぬ将来、“彼女”は研究対象として、しかるべき機関に接収されてしまうかもしれない。より多くの人に存在を認識してもらいたいと“彼女”が望むなら、それはそれで構わないのだが、だがおれたちの蜜月関係に終止符が打たれることは明らかだろう。おれの自惚れかもしれないが、“彼女”――“菜子”は、現状に満足しているように見受けられる。(“彼女”の感情の必要をおれ一人で賄えるかは疑問だが、まあ当面は問題ないと思われる。)そのようなわけで、おれは“菜子”を友人たちから隠匿していた。しかし本心は、やはり“菜子”を独占したいだけなのかもしれない。“菜子”を他の誰にも渡したくない、そんな我欲に囚われているのかもしれない。……どうやら自覚している以上に、おれは重症のようだった。

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