第02話 05

 ……どれだけのときが流れたのだろう。茫漠としていた意識がようやく輪郭を取り戻しはじめた。おれはシートに身を沈め放心している。いまだ復調は果たしていない。喘ぐような呼吸が鼓膜をつ。それが自身の息だと気づくのにさえ、時間を要した。まるで神経が焼き切れてしまったかのようだ。外界から送られてくる情報をうまく感知できない。処理もできない。おれの脳内は、あたかもおれが放った体液のごとくに煮こごっていた。

 四肢が動かせない。完全に脱力してしまっている。なのでおれは早早に諦める。を内側へと傾ける。先刻の出来事を想い起こそうと試みる。

(……たしか、そう、“彼女”の声が……。)

 そうだ。“彼女”――あの“少女”の陳謝する声――、ただちに脳裡によみがえった。ご、ごめんなさいっ、わたし、まさか、そんなになるなんて思わなくって……、軽いのつもりだったんだけど……、ほんと、ゴメンねっ、そう一方的に言い棄てて、視界からいなくなった“彼女”のことをおれは想い出していた。

(まったく……。)

 嘆息する。感情は何も働かない。満足感と充実感と虚無感と脱力感に満たされていた。精根尽きたとは、まさしく現状を指していた。指一本動かせない、そんな有りさまであった。

『ゴメンね、関口くん、大丈夫?』

 視界を翳らせて、覗き込んできた卯月さんを、瞳に映すまでは。

『…………、っと、……え?』

 と回路に通電される。異常な状況に思いが至る。慌てておれは言を紡ぐ。思慮を経ずに唇を開く。卯月さんに釈明を試みる。……けれども声が出ない。咽喉が に嗄れ果てていた。本当にどれだけの間、放心していたのだろう、現状に認識が追いつくにつれ、おれは怖くなっていった。いつの間にか停車している。両端には若穂の絨毯のごとき田園がどこまでもひろがっている。微風に揺れている。そんな長閑な風景を両脇に従え、農道がまっすぐ伸びている。その端に車体を寄せて、車は停まっていた。

『あ、良かった、気がついた?』

 反応を示したおれに卯月さんは相好を崩す。ほっと安堵の吐息を洩らして、優しく語りかけてくれる。声の出せないおれは首肯して答える。それを認めてようやく卯月さんも脱力した。先刻“あいつ”がしたみたいに、おれの肩に額を預けてきた。もー、驚かせないでよー、と怒った声音を作ってみせた。だがそれが安堵の裏返しだということは明白である。無事ということを判断したからこそ出せる軽口だった。よほど心配させてしまったのだろう、おれは無理を承知で言の葉を拡げる。ごめんと割れた声で謝罪を重ねた。

『ううんっ、違うのっ、関口くんは全然悪くないのっ、悪いのはわたしのほうっ、わたし、つい調子に乗っちゃって……』

 それに対する卯月さんの反応は著しいものだった。即座におれのを搔き消さんばかりに、声をかぶせてきた。首と両手を大げさに振ってみせる。『ごめんね』と『関口くんは悪くない』という二つを、音飛びした音盤のように、延延と繰り返していた。……どうして卯月さんが謝るんだろう、疑問が浮かんだ。が、それは直ちに氷解された。

(ああ、そっか、卯月さん、自分の運転で、おれがこうなっちゃったって、思ってるんだ……。)

 たしかに、おれと結びついていた“あいつ”――あの“少女”を視認できなければ、そう結論づけてもおかしくはない。というより、自分の荒い運転でおれがしまったと考えるより他ないであろう。だからこそ、先ほどから懸命になって謝っているのだ。

(…………。)

 卯月さんには本当に悪いけど、この誤解は解かないでおこう、脳内で謀略を巡らせる。いや、本当は違うんだよ、と真実を語るよりは、不名誉な称号に甘んじてしまおうと、に計算を働かせた。いっ時の恥に甘んじさえすれば、この窮状を打破できるのだ、それならば――、と。

『こっちこそ、ごめんね。卯月さん、びっくりしちゃったでしょ。おれ、自分では結構、乗り物に強いほうだと思ってたんだけど……』

 彼女に苦笑を送った。まだ酸素の供給は充分ではない、だがそのことが逆に幸いした。途切れ途切れの言霊は、結果、迫真を獲得していたからである。それに実際、恐怖によるものではなかったが、精神が臨界まですり減っていたのは、紛うことなき事実であった。心身ともに、くたびれきっていた。こんな体験、初めてだ。独りでするのとは、全然ちがう。そう先刻の出来事を反芻し、想いを募らせた。独りで己を慰める行為とは、明らかに一線を画していた。それは刹那の快楽を得るために行われていたものではなかった。ただだけだった。だがおれは精を放つ瞬間、たしかに思い描いていた。それがたどり着く場所、着床する場所を。目的を持って放ったのだ。繁殖行為として、まさしく本来の目的のために行なっていたのだ。

 ……だからだろうか、普段ならば恍惚感が最高潮に達した後は、まるで引いていく潮のように、それらは跡形もなく消えてしまっていた。あとに残るのは、ただ形容しがたい虚しさだけであった。だがこのたびは少々異なっている。虚無感よりもまず、充足感、達成感が訪れていた。、その想いに包まれていた。……そう至ると、この疲労も心地好いものとして転化できてしまえるのだから、現金なものである。おれは今では、“彼女”に感謝すら贈りたくなっていた。目をひらかせてくれてありがとう、と。

 そんな余韻に浸っていたおれを現実へと引き戻したのは、またしても卯月さんであった。

 関口くん――、息を呑む音が聴こえた。その帯びる感情がおれを覚醒させる。内的世界に没入していたおれは、再び卯月さんを放置してしまったことに思い至る。甘い乳のような余情にながら、酔眼を向ける。どうしたの、そう軽い気持ちで。

 だが。

 瞳をこれ以上ないくらいに見開く彼女に、おれの皮膚はあわ立った。口もとを両掌りょうてで被って、彼女は最大級の驚きを表現していた。いったい何に驚いているのだろう、まさか卯月さん、“彼女”が視えるようになったのか――、寸時淡い期待をいだいた。しかし即座に否定される。卯月さんは驚愕に身をすくませていたのだが、――それだけではなかった。真っ赤である。お風呂上がりの火照ったそれよりも烈しいくらいである。どうしたんだろう、二たび不思議に思う。彼女の見つめる先、ただ一点を凝視する卯月さんの、その視線の先をたどった。

(卯月さん、おれの、下腹部を、見てる……?)

 そう、通常ならば然るべきであるはずのそこを、卯月さんは遠慮することなく見つめていたのだ。

(…………。)

倣っておれも視線を落とす。彼女の凝眸ぎょうぼうの、その理由わけを知ろうと。……今になって思い返すと、なぜ理由に至れなかったのかと己の愚昧ぶりに恥ずかしくなってしまう。しかし脱力し、放心していたその時点のおれに理解を求めるのは、いささか酷にすぎよう。(自分に甘いとのそしりは甘んじて受けよう。)何しろそのときのおれは、“彼女”の宮殿を満たしたという錯覚を、半ば事実として認識していたからである。おれの放った粘液は、“彼女”が余さず受け止めてくれたのだと。

 しかし果たしてそれは妄想にすぎず、事実とは異なっていた。落とした視線の先に映されたのが、紛れもない現実であった。そう、真実は、現実は、――色こく変色しただったのだ。

 神速の速さで理解する。己の置かれている状況、いや、窮状を。途端、五官が回復する。それを視認した瞬間、まるでそれまで遮断されていたかのように、情報が堰を切ってはじめる。むせ返るような刺戟臭――鼻腔になじんだ、それは臭いである――に包まれていることを悟る。当然だ。何しろした量が尋常ではなかった。丸い染みなどというレヴェルではない。股の付け根から上、そのほとんど全域が侵されていた。一体どれだけ射精したのだろう、こんなの初めてだった。

 ――と。

(そっ、それどころじゃないっ!)

 ようやくおれは至る、より緊急性の高い懸案に。慌ててシートベルトを外す。気が急いているせいか、なかなか巧く外せない。に気が狂いそうになる。やっと外れた。ただちに車外へと飛び出した。周囲の確認を怠らぬよう教習所で教わっていたが、そんなことを気にしている余裕はない。一秒でも早く坐席から離れないと! 頭にあるのは、ただそれだけであった。

『…………』

 道端は運よく無人だった。飛び降りたおれが、誰かの妨害をしてしまうことはなかった。だがそれは後ほど思い返して安堵したにすぎず、実際に行動を起こしたときは、そのような配慮に心を割いたわけではなかった。ただただ必死だった。向き直って屈みこむ。シートに触れる。…………濡れては、いない。さらに強く。掌を圧しつける。……やはり乾いている。どうやら坐席には沁み出していないようだった。

(良かったー。)

 そのままの体勢で突っ伏した。今まで坐していたところへ顔面かおをうずめた。……臭いも、しない。いや、微弱なくらいは移ってしまったかもしれない。あまりにも濃厚に漂っていたゆえ、鼻が機能不全に陥っていた。嗅覚を司る細胞にしまっている。新鮮な空気を摂り入れても、その臭いが混じってしまう。それとも本当に、いまだ大気を汚染し続けているのだろうか。坐席に顔を埋めたまま、鼻を みる。どちらにしろ、鼻が利かない現状では、それは意味のない行為にすぎなかったのだが、果たしてそのような正論は無意味だった。おれは納得のいくまでそうするつもりだった。そうしないと休まらなかった。よごしてしまった可能性に、おれはまったく冷静さを欠いていたのである。

 そして結局またしても、おれは卯月さんを意中から外すという愚を、犯してしまっていたのだった。

 肩が遠慮がちに叩かれる。関口くん、名が呼ばれる。おれは声の主に、またも最速でたどり着く。

(――卯月さんっ!)

 と。

 そうだ、彼女の存在を、すっかり失念してしまっていた。焦ったあまり、同じくらいに重要な、卯月さんへの対処を怠っていた。なんと言って弁解しよう、どうやって誤解を、

 そろりと上を向く。卯月さんを視界に入れる。予想どおり卯月さんは、心配そうな表情かおを浮かべている。おれはまず彼女の憂患の根を探る。シートはよごしていないということを、伝えてみる。果たして返ってきたものは、彼女にしては珍しい、どこかな返答だ。どうやら卯月さんの思い煩いは、別のものであるらしい。そしてそれは、おれに対する憂慮の念に相違ない。自動車の懸案が解決されて彼女の心配がれないのなら、それはおれを心配しているとしか考えられない。当然の結論である。

(だったら……。)

 一分の十分の一を用いて、思案にふける。果たしてどちらを選択しようかと、濃厚な刺戟臭を嗅いだときに、おれはもう一つの打開案を閃いていたのである。そう、乗車時の昂奮を、性的昂奮と繫ぎ合わせてしまって、それで――、という言い訳だ。もし卯月さんがこの臭いの正体を看破しているのであれば、それしか道はないであろう。それに、恐怖のあまり失禁してしまったと情けない弁明をするよりかは、昂奮のあまり射精してしまったと開き直るほうが良いのではないか。異性の生理現象、ことに外聞をたぐいのそれであれば、卯月さんも深く追及しようとは思わないはずだ。そうだ、そうに違いない、おれは確信を得た。卯月さんに口を噤んでもらうのにも、そちらのほうが何かと都合が良い。

 よし、決断した。卯月さん、そう彼女を呼ぼうとして――、

『ごめんね、関口くん』

 ――再度あやまる彼女に遮られていた。

『…………』

 おれは彼女を見なおした。卯月さんは、相も変わらず鬼灯色に顔を染めている。含羞がんしゅうに囚われている。その原因はどこにあるのだろう、おれは見きわめようと観察する。だが確信をいだくまで、それほど時は要しなかった。

 鼻が、微弱に活動している。否応なく吸い込む空気の、その内に混ざった異臭を嗅ぎ取っている。そして嗅ぐごとに、彼女は赤みを増していく。じらいに身をいく。……だが、。彼女の発する空気が、潤んだ瞳が、瑞々しい唇が、どこか艶めいた印象を醸し出していた。

(!)

 瞬間、おれは至った。卯月さん、と。意識的にかどうかは判別できない、だが卯月さんの躰が反応していることは判った。オスの臭いに。おれという獣が発散しているそれに、てられているのだと。

 その彼女と、目が合った。

『っ!』

 卯月さんは息を呑む。総身そうしんの毛を逆立てる。そして須臾しゅゆを待たずして、熟れた果実のごとく全身に朱をいた。おれも悟る。卯月さん、と。抗えない本能に侵されていたことを知られてしまった――、彼女の反応は、如実にその事実を指し示していたのだ。

 それを裏づけるかのように卯月さんは早口で。ごっ、ゴメンね、本当にっ。わたしっ、ちょっと調子に乗っちゃって。運転、荒かったでしょ? おっかないって、関口くん思っちゃっても、しょうがないよねっ? ねっ? ねっ? と必死の懇願である。懸命になって伝えていた。関口くん、怖かったんだよね、と。怖かったから、そうなっちゃったんだよね、と。――、卯月さんは言葉の裏にそんな含みを持たせていた。わたしはこの臭いが何なのかも分からないし、ましてや影響なんて受けていないんだからね――、そう言外に匂わせていた。

『…………』

 無言で卯月さんを見つめる。彼女の哀願する様を目に入れる。いつの間にか立場が逆転している。なぜかおれに決定権が委ねられている。しかしこれは、またとない好機であると言わざるを得ない。本当に卯月さんには申し訳ないが、このまま有利に事を運ばせてもらおうと、今までの恩も忘れ、薄情な選択を下すことにした。

 うん、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、怖かったかな、そう言を紡いだ。卯月さんに失礼がないよう配慮しながらも、でもやはり怖かったと伝えた。普段乗せてもらっている車は全然平気なんだけど、とに責任を押しつけた。同じスピードでも、体感速度が全然違うんだね、と。

『そっ、そうよね。ほら、視線低いから、どうしても実際のスピード以上に、速く感じちゃうのよね。ハンドル握ってて、メーター見ていたわたしはともかく、助手席の関口くんは、ちょっとビックリしちゃったかもね』

『うん、ゴメンね、卯月さん』

『ううん、関口くんのせいじゃないもの。全然、全然問題ないわよ。むしろ運転に夢中になっちゃって、関口くんのこと考えていなかったわたしのほうこそ謝らなきゃ。ほんと、ごめんなさい』

 そう言って深々とを垂れる卯月さんを、複雑な思いで目に映す。本当はまったくおれが悪かったのに、卑怯にもこうして彼女に責任を転嫁している。その事実に胸が痛んだが、背に腹は代えられない。この借りは必ず返すからね、深く心に刻んで、おれは主導権を握りつづける。それでさ、卯月さん、核心に触れた。恥ずかしいから、このことみんなには……、そう緘口かんこうを願った。果たして彼女は、おれが言い終わる前に、もちろんっ! と確約してくれた。……こうしてお互いの利害が一致した結果、真相は闇へと葬られたのであった。おれは追及の手を逃れ、いっぽうの卯月さんも、己の面目を喪わずに済んだのである。(ただ一点、おれが納得できなかったのは、卯月さんがどうして恥ずかしがるのかという、その理由であった。いま振り返ると、少々特殊な家庭――恥じらいをまったく知らない妹たちに囲まれて暮らしてきたおれには、卯月さんがそれを隠そうとする理由が解らなかったのだ。……個人の倫理観、貞操観念というものは、大部分が育った環境に左右される。そしておれの育った家はというと、『スンスン、ねえ、お兄ちゃん、この部屋、ちょっと臭わな~い? あ~、お兄ちゃん、もしかして~』、と下卑た笑みを浮かべる妹と枕を並べてすごすような家だったのだ。羞恥心を母親の胎内に置いてきてしまったかのような三人の妹たちと、四六始終おなじ空気を吸っていれば、異性の感情の機微に疎くなるのも、仕方がないというものである。結果、おれは女性に幻想をいだかない、どこか達観した青年へと育っていったのだった。)

『卯月さん、悪いんだけど、一かい家に帰ってもらえる? ちょっと着替えたいから』

『そっ、そうよねっ、うんっ、分かった。じゃあ関口くん、乗って乗って』

 おれは話題を切り替える。この話はこれでお終いにしようと暗に伝える。卯月さんも同様の考えでいる。ただちに了解してきた。

 接地面に注意を払い、再び坐席に坐る。若干不安定な居住まいだが、文句は言えまい。完全に自業自得だ。そう腰を浮かせて坐るおれに、卯月さんは不安げな表情かおを覗かせる。大丈夫? 危ないよ? と。しかしすぐに、自分が安全運転を心がければ良いと思い直したようだ。それじゃあ、ゆっくり走るから、関口くんも気をつけてね、にっこりと微笑んで言った。おれも頷いて応える。了承の意を送った。ようやく卯月さんも肚を決めたらしい、前を向いて、ゆっくりと発進させた。まるでオートマティック車のクリープ現象のような滑らかさだ。低速走行のほうが技術を要するマニュアル車とは思えない挙動である。両足にかけるが、精妙にコントロールされている。は一切ない、完璧な操縦だ。おれは卯月さんの技倆ぎりょうに感歎した。数か月の差とはいっても、彼女自身、まだ若葉マークを着けている身である。おれと経験値は、さして違いはないはずである。にもかかわらず、ここまでの熟練の域に達しているのは、どうしてなんだろう、やっぱり運転にも、向き不向きがあるのかな、そんなことを想った。

 そのときである。


『そんなことないよ?』


 まるで心中を読んだかのごとき返答が、後方より投げかけられていた。

 

 自然とおれは振り返る。声の主――先ほどの“少女”へと。……つい先刻、あれほどのことを仕出かしたはずなのに、おれは“彼女”に対しては、一片の照れも、恥じらいも、宿していなかった。なぜだろう、後ほど思い返してみても、納得のできる結論は導き出せなかった。どのような感情が作用していたのだろう、おれと、そして、“彼女”との間に。

 おれは振り返り、“彼女”を認める。“彼女”――あの“少女”は、またしても腰から上だけを外界にいる。まるでプールの縁で、水から上がろうとする一瞬を切り取ったかのようである。

“彼女”は、大そう嬉しそうに微笑んだ。“彼女”もまた、先刻の出来事に対する屈託は、いだいていなかった。それを証明するかのように、“少女”は気さくに話しかけてくる。もう一度、大丈夫だよと、励ましの言葉を贈ってくれる。

『大丈夫だよ? 技術なんて、関係ないから。きっとわたしたち、うまくいく。このわたしが言うのだから、間違いないよ?』

 ね? と小首をかしげて“少女”は言を紡ぐ。何が大丈夫なのか、それよりも、どうしてこの“少女”が保証できるのか、疑問が渦巻いた。それを“彼女”に尋ねたくて、しかし恐れた。答を知ってしまうことに。今まで生きてきた世界での常識が覆ってしまう可能性に。

 だが“彼女”は頓着しない。一方的に伝えたいを綴り続ける。

『わたし、ようやく出逢えた。もう逢えないかと思ってた。でも逢えたの』

 あなたに、あなたにようやく逢えたの――、唇を引き結んで、そして初めて“彼女”は頬を染めた。薔薇色に美しく色を刷き、含羞はにかむように微笑んだ。

 万感の想いのこもった眼差しで見つめられた。抱きしめられた。眼差しの抱擁のはずなのに、なぜだか温もりが感じられた。

 ふう、と“彼女”は息をつく。熱を逃そうとする、それは吐息だった。体内に蝕むそれを、排出するかのように、“彼女”は重く息をつく。

 そして“彼女”は、言った。


 ――きっとわたし、あなたに逢うために、生まれてきたんだわ――、


 と。

 そう一方的に言い棄てて、そしてさすがに羞ずかしかったのか、全身を紅く染め上げて、“彼女”は車の中に消えていった。瞬間、、と、音が聴こえた。そんな気が、した。

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