第02話 06

 これが“彼女”との、初めての邂逅の記録である。この世に生をけて十八年、ここまで衝撃的な出来事は、初めてだった。いま改めて振り返ってみても、到底受け容れられるような話ではない。

 おれにしか見えない“少女”。

 こんなこと、信じてもらえるはずがない。きっと友人に話したとしても、冗談と受け止められるか、憐れむような視線で応えられるかの、いずれかであろう。センゴクに至っては、卒倒してしまうかもしれない。ボクの傍にいてあれほどの超常現象を暴いてきたキミがそんなことを言うのかと。だがそれらをこの世界のことわりに従えさせたのは紛れもなくセンゴク本人であったし、(おれはただの付き添いにすぎない。)そもそも真実を知ることと幸福とは、必ずしも等号では結ばれないのである。そのことを教えてくれたのもまた、センゴク自身であった。知らないほうが幸せだったと落胆する依頼人――あるいは不幸にもセンゴクに嗅ぎつけられてしまった人ら――を、おれは何度も目の当たりにしてきた。当然だろう、ネッシーはいないんだよと言われて喜ぶ奴がどの世界にいるというのだ。打ち砕かなくてもいい夢や幻想は、確実に存在する。望んでもいないのに嬉嬉として手品の種明かしをする行為は、無粋の極みであろう。ミステリー小説の犯人を未読の読者に伝えるようなものである。少なくとも無害であるうちは、放置しても構わない……、いや、放置するべきなのだ。

 と、おれは思うのだが、果たしてセンゴクは違う。そっとしておいてほしい人にはただただ迷惑でしかない、そんな無用の情熱と使命感に衝き動かされているのだ。その根底に潜むものが何なのか、いちど自己分析をしてもらいたいものである。(知り合いが霊感商法にでも引っかかったのだろうか。)

 なのでおれは、多くの者たちと同様、秘匿することを選んでいた。糾弾や迫害をわざわざ身に招くこともあるまい。“彼女”には悪いが、積極的に同胞を探そうなどとは考えていないのだ。……それに、そうそれに、“こいつ”はおれだけで良いって言ってるんだ、だったら敢えて危険を冒してまで視える人を探す必要はないんじゃないか。

「なーんだ、やっぱり独り占めしたいしたいんじゃない」

 呆れた声音で、だがその裡に嬉しさを滲ませて、“彼女”が放言する。勝ち誇った笑みを浮かべる。おれは慌てて反論する。そんなんじゃないと。

「そんなんじゃないって、じゃあどんなん?」

「それは、その……、ほら……」

「ほら?」

「べっ、別に良いでしょ? そっちだって、言ってたじゃん。三十数年の間、誰にも見つけてもらえなかったって。だからきっと、もう他にはいないんだよ」

「わたしを見れる人がー?」

「うん」

「キミ以外にー?」

「うん」

 おれは恥ずかしさのあまり、“彼女”の心情に一切配慮を示さない、冷酷な意見を述べてしまう。おれの言葉を聴いて、そっか、と呟く“彼女”を認めて、ようやく己の迂闊さに気づく。瞳を伏せる様を映して、ようやく失言に至る。おれは一体、何を言っているんだ? よく知りもしないで、希望をってしまうようなことを言って。これじゃあセンゴクと、何も変わりはしないじゃないか。

「ご、ごめん、そういう意味じゃなかったんだ」

 慌てて今度は弁解を試みる。つい非道ひどいこと言ってしまったけど、決して悪気があったわけじゃないんだと。

 しかし“彼女”は答えない。無言で俯向うつむである。長い睫毛が弱々しく震えている。それにおおわれた黒曜の瞳は、どんな表情いろを宿しているのか。ただでさえ眼鏡に遮られている上に、この距離である。表情は量りようもなかった。だが近づけない。躰がまるで、石になってしまったようだ。“彼女”の拒絶を恐れて。“彼女”の希望をしまったおれに、臆面もなく接近する度胸はなかった。ただと反応を窺う だった。

「…………、――じゃあ、」

「!」

 その“彼女”が、唐突にを挙げた。にっこりと微笑んで、こちらを見つめてきた。表情にも、声音にも、消極的な感情は見いだせない。本心から気にしていないのか、それとも巧妙にかくしているのかは判らない。だがおれが救われたのは事実だ。柔らかそうな“彼女”の笑顔に、おれは強張らせていた筋肉を弛緩させる。ん? と続きを促す。“彼女”の紡ぐ言葉に耳を傾ける。

 おれに手をかれて、再び“彼女”は語りだす。おれに向け、媚びるような眼差しで語りはじめる。……いや、実際“彼女”は媚びていた。正坐を崩して腕をつき、 を作る。覗き込むような上目づかいで、顔を斜めに傾ける。熱っぽい視線を作りながら、そして“彼女”は咽喉を鳴らす。

 じゃあわたし、キミに嫌われないようにしなくちゃね、と。

 挑発的に微笑んで、“彼女”は後ろに手をついた。両腕をつき、上体を反らす。弓なりになった肢体がおれの目を射る。深緑のワンピースが、“彼女”の凹凸を強調する。まったく理想的な、それは躰だ。両胸で盛り上がる双つの膨らみは、重力に屈することなく天頂を仰いでいる。しかし決して青いなどではない。とろけるほどに柔らかいことは、先刻承知済みである。さらに視線を移動させる。“彼女”が背を反らしたことによって、ただでさえ危ういほどに露出している太ももが、今や付け根までいる。すらりと伸びた二本の脚に、否応なく瞳が奪われる。血管が透けるくらいに白い肌は、しかし健康的な印象を与えている。程よく脂肪のおかげだろう。しなやかな曲線はまさしく脚線美のそれだった。

 昼間のことを想い出す。あの一件、“彼女”との、疑似性交のことを。途端、血液が逆流を開始した。肉茎にくけい隆起りゅうきする。もう貯蔵庫には一滴の余裕もないはずなのに、反して陽根ようこんは鋼のように硬くなる。布地ではそれを抑えきれない。あたかも大地を突き破る筍のごとくに、おれの股間は大きく張り出していた。

 その一部始終を、“彼女”に見られていた。

 視線を感じて目を戻すと、果たして“彼女”と目が合った。“彼女”はまるで、獲物を甚振いたぶる猫のように目を細めていた。獲物というのは他でもない、このおれだ。言葉では幾らでも言い繕える、だが肉体をことはできないという歴然たる事実を、認められてしまったのだ。……おれたちの上下関係は、この時点で決してしまったといっても過言ではない。本能の誘惑にてないと看破されてしまったおれに、もはや戦うはない。己の肉体が武器になるとってしまった“彼女”に、降伏するしかないのである。

“彼女”は秋波しゅうはを作ったまま寝そべり、無防備な体勢をとる。腕を差し伸べる。まるで誘惑するかのように。おれは視線に絡め取られる。あたかも哀れな昆虫のように。抵抗もむなしく、(……いや、そもそも抵抗などしていなかった。)おれは手繰り寄せられる。“彼女”のもとへと。

 横になった“彼女”のかたわらにまで接近する。熱い。視線が熱量を孕んでいるかのようだ。しかし瞳は逸らせない。逸らせられない。“彼女”を見ていたいという欲求に、おれは圧倒されていた。踏んだ場数が違いすぎた。生まれた瞬間からこの姿だったという“彼女”の言葉が、不意に脳をよぎった。人間とは異なり、誕生したその瞬間から、ある程度の知識と知性とを獲得していたのだと。そしてさらに、製造されてから三十余年、実体験ですら“彼女”はおれよりも上なのだ。敵うはずがない。対象の関心を、殊に異性のそれを惹く手腕が、卓抜していた。異性といえば乳臭い妹くらいしか知らないおれとは、雲泥の差である。おれが“彼女”の虜になってしまったのも、仕様がないと言えよう。

 主導権は、完全に“彼女”のものだった。――“彼女”が、おれの『所有物』であるにもかかわらず。そうだ、力関係でいえば、おれが絶対上位のはずである。それが純然たる事実だろう。おれは己の意思一つで、“彼女”をどうとでもすることができた。本来ならば先ほどのように“彼女”は媚びを売り、おれの機嫌を損ねぬよう心魂を傾けねばならないはずである。所有される者のとるべき当然の態度であろう。しかし実際は違っていた。無防備で無抵抗に見える“彼女”。おれが少しでもを用いれば、すぐさま制圧されてしまうであろう華奢な肢体を、恐れることなくいる。だが“彼女”は確信しているのだ。おれはそんなことしないと。絶対の自信をいだいているのだ、己の肉体の価値について。

 真実その通りであった。おれに“彼女”を害する気持ちは毛頭ない。“彼女”があらゆる意味で傷を負わぬよう、むしろおれが心を砕いていた。……おかしいだろうか、“彼女”を愛おしく想うことは。おれは狂っているのだろうか。美しく、そして、


 ――人間ではないこの“少女”に、惹かれていることは――……。

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