第02話 03
『…………』
だが見つからない。記憶の底を浚ってみても、憶い当たる事象はない。なのでおれは考えることをやめる。これ以上は危険だと経験から判断したのだ。(……おれは五官から送られてくる情報は割と信頼するほうだが、それに反して自身の記憶にはそれほど信を置いていない。記憶とは、平気で捏造され、改竄されてしまうものだからである。そうであってほしいと願ううちに、それが捻じ曲がって、そうであったと既成事実に置換される、そのような事例は、センゴクとの武勇譚を紐解けば幾らでも挙げられた。)
ならば、と標的を卯月さんに変える。彼女に、この車の事故歴の有無について尋ねてみる。しかし芳しい答えは返ってこない。今の
『でもどうして?』
『え? あ、うん、その……、ほら……、』
無垢な眼差しで問いかけてくる彼女に、言葉を詰まらせる。まさか本当のこと――得体の知れない“少女”が車に取り憑いているなどとは言えない。かといってみだりに嘘をつくのも好ましくない。結果おれは口ごもるしかなかった。
そんなおれに、頭上から声が注がれる。
『だいじょーぶだよ、事故なんて、いっかいも起こしたことないから』
『…………』
どうしてこの“少女”が断言するのだろう。断言、できるのだろう。卯月さんと会話中だったので、黙殺で応じながら考えた。“この
『それより卯月さん、そろそろ出発しよ?』
そう、無視である。見ざる聞かざるを徹底し、意識から“彼女”を排除することに決めたのだ。
うんっ、と辛抱を重ねていた彼女は、待ってましたとばかりにギアをローに押し入れた。短めのシフトレヴァーが、小気味好い音を立ててギアを連結させる。教習所の車は初心者未満の素人が扱うせいか、ギアが引っかかって、なかなかスムーズにシフトチェンジできなかった。でもこの車には、同じ心配は要らなそうだ。まるで吸い込まれるようにして左上、一速の位置に収まった左腕に、ほっと胸をなで下ろした。
『じゃあ行くよー』
卯月さんは、徐徐に右足にちからを入れはじめる。右端のペダル、アクセルペダルが加重されはじめる。まるで精密な秤のように、タコメーターの針が振れはじめる。反応速度は上上だ。卯月さんの言うとおり、まさに『人馬一体』を体現している。こんなに意のままに操れる車、きっと他にはないわよとの彼女の言は、誇張ではなかったのだ。
呼応して、排気管が低い音を奏でる。実際車内に乗っていると、それは大変に耳心地が好い。はた迷惑だと思われがちだが、法律の許す範囲であるのなら、マフラーを変えるのも悪くないな、おれは体験をもとに、認識を改めていた。
『それじゃー、行ってみよー』
完全に躁状態に入った卯月さんが、声も高らかに宣言する。比例しておれの期待も高まった。初体験に胸をときめかせる乙女のようだ。あの卯月さんをここまではしゃがせる車とは、一体どのような乗り心地なんだろうか。挙動はどうだろうか。回頭性に優れているとの評判だが、初心者のおれにも、違いが判るレヴェルなんだろうか、屋根がないという初めての乗車体験に、おれの心身も解き放たれた。期待は空気を入れた風船みたいに、ぱんぱんに膨らんだ。鼓動が耳もとで鳴っているかのようだった。そんなおれを認めて、卯月さんが一つ頷く。おれも頷いて応える。心の準備が整ったことを表情で伝える。さあ、いよいよだ。ハンドルを握る手にちからが込められた。おれも前を向いた。障害物は何もない、広広とした舗道を望んだ。きっと、いいや、必ず、心に残るひと時になるに違いない、そうおれは確信した。
……その確信は正しかった。たしかに忘れられないひと時となっていた。ただし、おれの予想とは、それはまったく異なっていた――。
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