第02話 02

『――ねぇっ、ほんとっ、ほんとに見えてるのっ?! ほんとに聴こえてるのっ?!』

 まなじりからこぼれるしずくもそのままに、“彼女”は助手席から身を乗り出して訊ねてくる。それに外聞を様子は一切みられない。切迫した有りさまは、鬼気迫るとの描写がふさわしいものだ。

 露出した腕が伸ばされる。透明なほどに白い、それは肌だった。すらりと細い五指が、おれに触れようとする。薄手の手袋――防寒目的でなく、装飾目的のそれだ――に、指はかくされている。(……後ほど知ることとなるのだが、“彼女”は同色――銀鼠色ぎんねずみいろの靴下も身に着けていた。)一旦の躊躇の後、(まるでそれは、触れると壊れてしまう雪の結晶に接するかのようだった。)“彼女”は意を決しておれの腕を握りしめた。

 ――、電流がはしった。双方に驚いて、躰を引いてしまうほど、それははげしいものだった。おれは熱湯に触れたかのように、脊髄反射で手を引いた。“彼女”もそれは同様らしく、おれたちは合わせ鏡のごとく同じ体勢をとっていた。

(こいつは、いったい“何”なんだ……?)

 奇妙なのは装いだけではなかった。今やおれは遠慮することなく目の前の“彼女”を凝視する。……下着姿の“彼女”は、おれと触れた指を抱きしめるようにして胸にいだいている。ようやく、ようやく逢えた、そんな呟きが運ばれてきた。おれに向けてではない。完全な独言である。自分自身に言い聞かせているかのように。嚙みしめるように繰り返し呟いて、“彼女”は瞳を閉ざしている。と落涙させながら。温かな雫を溢れさせながら、“彼女”は微笑みを浮かべている。

 その光景は、おれの胸をはげしくった。おれは背景を忘れた。“彼女”の恰好がどうだろうと、言動がどうだろうと、関係なかった。今までの印象の一切を脱ぎ去った。ただ心を占拠するのは、この“少女”のことを深く知りたい、という純粋な欲求だけだった。

 ――そう、このとき、おれの心は強奪されてしまったのだ、目の前の奇妙な、しかし可憐な“女の子”に。


『……どうしたの、関口くん?』

 その声がなかったら、おれは日が暮れるまで“彼女”を見つめていたに違いない、だが果たして、卯月さんがおれを現実世界へと引き戻してくれた。先ほどとは異なり、おれが卯月さんの呼びかけで我に返ったのは、かろうじて残された理性によった。(……いや、それを『理性』とよぶには、いささか逡巡を催す。それはどちらかといえば閃きに近く、思案の末に導き出されたものではなかったからだ。集団生活の中で培われてきた、危機回避能力だった。)それはおれの背を強く押す。叫ぶようにして伝えられる。

 このままではまずい、と。

 そう、おれは結論に半ば至っていたのだ。理由までには及んでいない、だが現象としてひろがる光景、つまり、というそれを、現実として受け止めなくてはならなかったのだ。……どうして、という理由は、ここでは不要だ。考えるだけ時間の無駄である。それよりも、より喫緊きっきんなことに着手せねばならない。つまりは弁明だ。きっと彼女の瞳には、おれが独り芝居を、とつぜん奇矯な振る舞いをはじめたと映ったことだろう。相手――“彼女”が見えないのなら、そう思うのが自然なはずだ。

 その誤解を、最優先で解かねばならない。おれは言を尽くす。素敵な車に舞い上がっちゃったんだよと伝える。現にそのとおりであったし、(車が素敵だという意味で。)また舞い上がったのも事実だ。何も嘘はついていない。二たび顔を綻ばす彼女を見ても、別に咎めを感じる必要はなかった。

 しかし、

『ほんとー、うれしーなー』

 なぜか眼鏡の“少女”も喜んでいた。それだけではない、照れている。

『そんなー、素敵だなんてー、わたし困っちゃうー』

 まるで自分が褒められたみたいにと身をいる。くすぐったそうにそうしている姿は大変に可愛らしく、刺戟的な恰好も相まって、おれはもうなってしまいそうだった。

 あ、あのさ、提案する。今は昂奮状態で、とてもじゃないけどハンドル握れないから、だから助手席で良いかな? ながら卯月さんにお願いする。卯月さん、運転してもらっても良い? と。

『もっちろん!』 

 優しい卯月さんは満面の笑みで答えてくれる。彼女にとっても、おれの提案は願ったり叶ったりのはずだ。つねづね自動車の運転を愉しいと公言していた卯月さんにしてみれば、スポーツカー、とりわけオープンカーを運転できる好機を、みすみす見逃す手はなかった。現に今でも卯月さんは、シートベルトを外していない。一応の確認はしたものの、じつは席を譲る気はないのである。じゃあ関口くん、早く乗って乗って、と急かす彼女は、一刻も早く運転したくて仕方がないご様子であった。

 助手席に躰を沈める。沈める、という表現は誇張ではない。文字どおり沈んだかと錯覚するほど、視界は低くなる。こんな目線は初めてだ。見慣れた風景が一変して見える。新たな視点を獲得したおれは、昂奮につつまれる。運転席の卯月さんも同様だ。彼女にしては珍しく、茶目っけ溢れる表情を向けてくる。自分が味わっている愉悦を共有できたとの同族意識が芽生えたのかもしれない、そう気さくに話しかけてくる卯月さんの心中を、忖度そんたくした。

『あのねあのね、走り出したら、もっとすごいんだよ? 視線が低いから、体感速度はね、もうジェットコースター並みなの。……あ、そうだわ、関口くん、絶叫系の乗り物って、平気?』

『うん、まあ……、普通、かな?』

『じゃあ最初はゆっくり走るからね? それで大丈夫そうだったら……、ちょっとスピード上げちゃおっかな?』

 笑顔を保ったまま、何やら物騒なことを言いはじめた卯月さん。おれは念のため、法定速度を遵守するよう釘を刺すことにした。

 そんなやり取りの中で、おれはほんの一瞬……、わずか刹那の間くらい、“彼女”を失念してしまった。昂揚した卯月さんを視界に納め、弾んだ声音に耳をなでられ、おれはすっかり彼女の虜と化してしまったのだ。(……ただ、その一例を殊更に前面に掲げて、おれを移り気な青年と判断してもらっては困る。おれの心は、あの半裸の“少女”にまったく傾注していた、それは間違いない。しかし物事には何事にも、特例というものが存在する。喩えていうならば、甘いものは別腹だということだ。……理解していただけただろうか。)

 ふと想い出す。あの“少女”のことを。おれがここに坐っているということは、つまりは“彼女”の席がなくなったということだ。“彼女”を置いて行ってしまっても良いのだろうか、そう首を巡らす。おれのために席を譲って車外へと出てくれた、“彼女”を求めて。

『…………』

“彼女”は…………、。驚いて辺りを見回しても、気配の残り香さえも窺えない。おれは狼狽する。……たしかに、いた。“彼女”は、たしかに存在していた。無意識のうちに剝き出しの腕をいた。“彼女”に触れられた腕を。あのときの感覚は瞬時に憶い出せる。断じて錯覚などではない。と紫電が奔ったかのような衝撃だって、即座に追憶できるではないか。

(……?)

 傍点を打たれたがのごとき強力な反問が、心に一石を投じた。穏やかだった心の泉は、いとも容易く波紋を描く。思考が次次と反転する。“彼女”の実在は、もっぱら“彼女”を知覚できるという一事に立脚していた。それは裏を返すと、“彼女”を知覚できなければほかに信じる理由がない、ということだ。

 おれは劇しく動揺した。心の中の“彼女”の姿が、まるで絵の具を水に溶かしたかのごとくにいく。すべて、すべて幻想だったのか? 疑心が“彼女”を腐蝕していく。あれほどまでに鮮烈だった二人の出逢いが、蜃気楼のように揺らいでいく。もし隣に卯月さんがいなければ、おれは“彼女”を求めて叫んでいたことだろう。だが果たして卯月さんはここにいる。“少女”を探しに行くことはできなかった。

『準備は良い、関口くん』

 おれとは別の意味で、卯月さんははやって落ち着きをうしなっている。おれの返答いかんでは、すぐさま発進しそうな勢いである。……観念するしかなかった。また再び還ってきたときに、“彼女”がここにいることを願うしかなかった。

(いてほしい。)

 おれは願った。……いや、それはもっと切実な感情だった。もはや祈りに近い願いだった。こいねがった。もう一度、せめて目だけで良いから、“彼女”を瞳に映したかった。息を呑むほどに美しい、あの“彼女”の姿を。

 そしてそれは、その祈りは――、

『どーしたの、元気ないわよ?』

 ――唐突に叶えられたのである。

『う、うわああああっ?!』

『どっ、どうしたの、関口くんっ?!』

 突然の絶叫に卯月さんが躰を強張らせる。しかしおれに配慮を示す余裕はない。卯月さんに割く心のは、残されていなかった。

 灼熱を連想おもわせる吐息に耳朶が焦がされていた。それだけではない、あかい鉄の鎖でいましめられたかのようだ。皮膚細胞が音を立てたかと錯覚おもった。それほどまでに熱い二本の腕で、おれは拘束を受けていた。

 シートの後ろというトゥーシーターではあり得ない場所からの抱擁に、思わずおれは叫んでいたのである。

『わ、びっくりしたー。もー、いきなり大声出さないでよー』

 その元凶、おれに絶叫を出させた張本人は、自分のことを棚に上げて非難してくる。誰のせいで、と動転していたおれはと熱くなった。今まで隠れていたことへの憤りも、それは孕んでいた。不必要に心配させて、とおれもまた、責任を転嫁させていた。恥ずかしかったのかもしれない。己を見失うくらいに取り乱してしまったことが。隙を、弱みを見せてしまったことが。

 それらぜになった感情が、体内で膨れ上がった。行き場を求めた。そうしないと内側から破裂してしまいそうだった。おれはそれを“彼女”に求める。当然の選択だ。あんなに心配したんだぞ、そうひとこと言ってやらないと気が治まらない――、とおれは振り向いて、

『――――!!』

 今度は言葉にならない絶叫を挙げていた。

 車体から二本の腕が、。おれの肩に顎を預けている“彼女”の、その躰は、。外界に露出しているのは肩より上と、ふたつの腕、それだけだった。まるでグロテスクな彫像のようだ。躰の一部分だけを残し、あとは壁の中に塗り込められたそれだ。恐怖と苦悶の表情を浮かべて石化した人間、それを想起させるものだった。

 ……ただこちらの彫像は、

『あ、ごめんね、わたしがさせちゃったんだ』

 可愛く舌を覗かせて、微笑わらっているものだったが。

 その“彼女”が、腕の拘束を解く。そのまままるで水面から上がるみたいに、車体から浮き上がりはじめる。終いには、折り畳んだの部分から、完全に上半身を露出させる。

 それら一部始終を、おれは呆気にとられながら見ていた。徐々にせり上がる“彼女”に呼応して視線を上げながら。完全に仰ぐ形になるまで。

“彼女”は太陽を背に負っている。おれの視界はくろかげった。と慌てて前に向き直る。両のてのひらを宙に掲げる。おれのは…………、だ。視線を落とす。膝の上には、十指を拡げたそのままの影が転写うつされている。二たび振り仰ぐ。と、“彼女”を瞳に入れた瞬間、おれはまた遮られ、陽の光は届かなくなっていた。

(これは一体……?)

 物理法則が、――常識が、通用しない。いや、通用した。いや、していない。してはいないのだ。。……“彼女”が無機物を通過したときから、(……それとも『透過』と呼ぶべきか?)それ――“彼女”が普通の存在ではないことは、分かっていた。だがしかし、実体がないのなら、どうしておれに触れられるのだ? どうしておれに影響を及ぼせるのだ? おれに限って現実世界のルールが遵守されていただけに、余計に混乱を招く結果となっていた。さらにセンゴクに教化された時間が拍車をかける。怪異とは、そのほとんどが見間違い、勘違いなのだというそれに骨髄まで染まっていたおれには、幽霊という結論は俄かには受け容れがたい。だがそれを消去すると、あとに残されるのは、自分は正常ではないという、またも受け容れがたい結論であった。

(無意識のうちに何か感じ取ったのだろうか。)

 その可能性を展開させる。これもセンゴクからの受け売りなのだが、一目ぼれ、運命の出逢いといった、ロマンティックで耳心地の好い言葉も、正体はただの勘違いか、さもなければ、そうなるに至る下地があったなのだという。記憶に残らない程度の出逢いは、すでに果たしていたはずだと、センゴクは語った。そう、雷に撃たれたような恋も、その実にすぎないのだと。以前に写真で見たことがあるとか、種を明かしてしまえばただの偶然なのだよ、そう舌も滑らかに持論を紡ぐセンゴクに、おれはと嘆息したものだった。その『偶然』を『運命』と置き換える乙女回路は、お前には具わっていないのかと。

 その辟易したはずの可能性にすがっていた。そんなことは恐らくないはずだが、昔に、フィクションでもノンフィクションでも構わないから、似たような状況――自動車に轢かれて亡くなった誰かが見えるようになった話、あるいはこの車と同じ型のそれが死亡事故を引き起こしたという話を、記憶から探ってみた。それを現状と重ねあわせ、投影しているのではないだろうかと。

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