第02話 01

 その晩。

 平生どおり友人らが帰宅した後、この広すぎる家もまた、平時どおり静寂に包まれた。音を立てるのは家の外の数数だ。葉を揺らす涼しげな風の。野生動物――それらは犬猫などではない、本来ならば動物園で目にするのそれだ――のまわる音。それらがを縫って運ばれてくる。それはまったく普段どおりの光景で、もはや耳なじんだおれの日常である。ただ、そうただ、今までとは異なる“非日常”が、一つの部屋、友人たちが足を踏み入れなかった奥の部屋で、鎮座していた。おれはまるで衆目からかくすかのように、“それ”――“彼女”を奥の間に押し込んでいた。“彼女”は交誼の輪に加わりたいなどと不平をこぼしたが、とんでもない。万が一、おれのほかに“彼女”が見えてしまう人がいたらどうするつもりなのか。見ず知らずの少女を連れ込んでいるなどと伝播されてしまった日には、おれはもう、表を歩けなくなってしまうではないか。

「とか何とか言っちゃってー、ほんとーは、ただわたしをほかの人に見せたくなかっただけじゃないのー? キミってば、淡泊そうな見かけによらず、けっこう独占欲つよいのねー」

「…………」

 これが昼間、感極まって頬に泪の軌跡を描いたあの“少女”と同一人物なのだろうか、やれやれと嘆息する。あの瞬間、おれは誇張ではなく、本当にうつならざるものが降臨されたと感じたのに、実際はご覧のとおりである。気さくに話しかけてくる年齢相応の少女がいるである。

 ……しかし、たしかにこの“少女”は特別であった。何しろ卯月さんの目には見えないのだ、普通の少女でないことは明白だ。でも、だったら“こいつ”は“何”だというのだ、人間ではないのなら、たとえば、そう……。

「……やっぱり、っていうか、もしかして……、キミ、あの車に、いていたりなんかしているの?」

「『取り憑いている』だなんて、随分な言い方じゃない?」

「なら違うっていうんだ?」

「当然じゃない。昼間だって、キミ、あのお友達の女の子に、この車で誰か轢いたことないか、なんて尋いてたわよね? まったく、このわたしを、幽霊か何かかと思ったの?」

「そうじゃなきゃ何だっていうのさ?」

 おれは“彼女”の明確な否定のに引きずられて、つい核心に迫るような質問を発してしまう。ただちに失言に思いが及ぶ。言ってはならないことを言ってしまったと、息を呑む。目の前の“少女”を望む。しかし“彼女”に変化は見られない。気分を害した様子はない。そう、禁句を発したと感じたのは、もっぱら己自身に対してであった。を認めてしまうこと、受け容れてしまうことに、おれはまだ抵抗をいだいていた。だが現状はおれの意思とは無関係である。事態は着実に進展している。気がつけばおれは『境界線』に立っていた。一線を越えるの場所に立っていた。――常識と非常識という一線の真上に。……もし“彼女”の存在を受け容れてしまえば、おれは『そちら側』の、『彼岸』の住人を、現実の存在として受け容れてしまうことになる。それは畢竟ひっきょう、おれ自身も『そちら側』の住人となったことと、同義なのではないだろうか。狂人の仲間入りを、果たしたこととならないだろうか。

「なーに、キミ、まだわたしが“何”なのか、判ってないの?」

 とのおれの憂悶は、しかし“彼女”にはまったく関係がない。“彼女”はむしろ、おれの理解が鈍いと判断したらしい。呆れたような口調で答えてくる。おれは耳をふさぎたくなった。結論を“彼女”の口から紡がれることに、恐れをいだいた。聴いてしまえば、もう後戻りはできなくなってしまう。おれの積み上げてきた世界はその瞬間、と音を立てて瓦解してしまうに相違ない。そのあと――今までの常識が通用しなくなった世界で、おれは何をとすれば良いのだろう。

 ……情けないことに、このときまず脳裡に浮かんだのは、あのセンゴクであった。自己の塊のようなあいつだったら、この窮状にも揺るぎなく屹立しつづけることができるであろう。たとえ自身の世界の反証と対峙したとしても、詭弁を弄して突破してしまうような奴なのだ、あのセンゴクという人間は。

 それに引き換え、おれは、常識というに束縛され、容易に身動きが取れなくなってしまう反面、己の五官を裏切ることもまた、難しく感じていた。不可解な出来事を、錯覚、妄想だと断じてしまうことに、躊躇いを覚えてしまうのだ。その点、センゴクはいさぎよい。たとえ当事者であったとしても、平気で己の感覚を否定する。己自身が見たり聴いたりしたとしても、斟酌することなく五官の誤作動だと言い切ることだろう。そう、懐疑主義者の極北たるセンゴクは、自分自身にもまったく無慈悲に疑いのを向けられるような奴なのだ。自分に限って、などといった甘えは一切ない。きっとセンゴクだったら、“彼女”の存在を意識から抹殺するのだろう。たとえ目に見えようが、耳に聴こえようが、それを錯覚と断じて無視しつづけることだろう。それくらい強靭な意志をいだいて生活しているのだ、あいつは。

 しかしおれは、切り捨てられない。手を伸ばせば触れられそうな距離にいる“彼女”を、ただの幻だとは。この圧倒的な存在感を前にして、それでも気の迷いだと思えるほどには、おれは理性的な人間ではなかった。まっすぐに向けられてくる視線も、に香る甘い匂いも、鼓膜をなでる気味の声も、そして触れ合った温かで柔らかな肌の質感も。それらをすべて幻想のとして葬り去ってしまうには、それはあまりにも真に迫っていた。……それに、そうそれに、おれは“彼女”の正体が“何”なのかを、すでに理解していた。九分九厘くぶくりん間違いないであろう。日中“彼女”が垣間見せた言動から、明らかであった。

 そう、“彼女”とは、つまり――――……。

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