第01話 12

「…………」

 視線が上向いた。掲げられた卯月さんの、その手の先をたどって。自然、おれの瞳には、その先の風景もまた、映された。見てはいけないと自制していた、それを。

「…………」

 それ――“彼女”は…………、。初めて目にしたときと変わらぬ恰好で、


 ぶつかった、視線が。


おれたちは暫時、お互いを見つめあった。形容できない感情――あるいは実は、何も考えていなかった、もしくは考えられなかったのかもしれない――を裡にいだいて、お互いをに映し合った。


 ……永遠とも感じられる時間が流れた。


 変化は、“彼女”の側に起こった。


 眼鏡の奥の瞳、大きなふたつの瞳が、開かれた。文字どおり、目いっぱいに開かれた。

 そして“彼女”――“少女”は、固く鎖していた唇の、封印を解いた。紡がれた音色は、意外にも高いものではなかった。可愛らしい、歯にきぬ着せぬ物言いをすれば、幼げな容貌に、それは独特な声だった。

(本当の声じゃない。)

 なぜだか確信した。理由などない。ただそう閃いたのだ。だがおれは己の断定に、微塵も疑いをいだかなかった。判ってしまったのだ。それで充分だった。

 本当に……? 二たび“少女”は言葉を紡ぐ。先ほどと変わらない言葉を。決して聴き間違いではない。たとえ、たとえ卯月さんの耳には、届いていなかったとしても。


 ……?


 そう、決して、見間違いなどではなかった。“少女”が、“彼女”が、大きく身を震わせたことは。信じられないと、描いた唇は。息を呑んだことは。両手を口の上におおったことは。

 そして、

 そして、


 大粒をなみだを産み落としたことは――――。


 ……。

 ……。

 ……これが、おれと“彼女”との、初めての出逢いであった。きわめて美しく、まるで映画のワンシーンを連想おもわせる“彼女”の挙措は、おれの心臓に一撃を与えていた。網膜に、脳髄に、決して癒えることのない傷跡を、残していた。今でもを閉ざすと、即座にそのときの“彼女”をよみがえらすことができる。鮮烈な印象は色あせることなく、むしろ時を経るごとに強固なものへとなっていった。おれ自身が望んでいるのだ。絶対に忘れたくないと。おもを、風化させたくないと。まるでそれが、おれの務めであるかのように。

 いや、実際それは、義務なのだ、このおれの。

 このおれ、この世で唯一、“彼女”を見、“彼女”に触れ、“彼女”を感じることができる、このおれの。

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