第01話 07

『…………』

 おれは沈黙で応える。言われてみれば、至極当然の結論である。値段を下げなくても売れるのであれば、わざわざ下げる必要はない。小学生でもわかる理屈だ。だがおれがきたかったのは、そこではない。そもそもの出発点からして、違っていたのだ。おれが尋きたったのは、、ということだった。

 ……おれの住んでいた市、実家のある場所では、自動車というのは、贅沢品であった。一部の無駄もないように区画整理された土地に、自動車を遊ばせておくスペースはない。最近では住宅を縦に伸ばして、一階部分をガレージにする家も増えてきたが、となり近所との兼ね合いもあり、(つまりは日照権の問題だ。)普及と呼べるまでには至っていない。よって住民は、自家用車を諦めるか、なけなしの土地を割いて車庫を設けるかの、二者択一を迫られるのだ。

 実家は後者だった。そのせいで四人兄妹にもかかわらず、子供部屋はふた部屋しかなく、(だがこれは、家よりも子供のほうが後にできたので、責めるべきは両親の無計画ぶりかもしれない。)おれは一ばん年下の妹と、高校卒業まで相部屋を余儀なくされていた。(おれが家を出ると言ったとき、妹たちは大そう喜んだ。そしてすぐに、誰が一人部屋を手に入れるかで、侃侃諤諤かんかんがくがくの口論を開始した。さっそくおれの存在は眼中から外された。“血は水より濃い”なんて嘘なんだ、と達観したのが、去年の冬のことだった……。)

 その常識が、ここでは通用しない。ここでの常識、それは、――自動車は、生活の足、というものだった。みな自転車に乗る感覚で、車を運転する。些細な用事でも、移動手段は自動車だ。今までの反動なのか、友人たちは本当に歩こうとしない。すぐに運転席に坐りたがる。たしかに楽といえば楽なのだが、おれの育ってきた環境――つまり自動車を動かすのは一大イヴェントのとき、という感覚からすると、なかなかに衝撃的だ。ぞんざいな、などといっては語弊があるかもしれないが、家の次くらいに大きな買い物であるはずのそれを、あまりにも気軽に使いすぎているんじゃないかと思ってしまう。本来はもっと大切に扱うはずのもので、間違えても道に横づけしたまま放置して良いような代物ではないはずだ、と部屋で騒ぐ友人たちを見やりながら感想をいだいたものだった。(土地があり余っているこの場所において、駐車場問題というものは存在しない。主要幹線道路と私有地を除けば、あとは邪魔にさえならなければどこにめようが構わないのだ。有料駐車場などである。もしも店の駐車場が有料だったなら、その店は一ヶ月もたずにつぶれてしまうだろう、それくらい住民にとってはあり得ないことだった。)

 そして普段づかいの足として最適なのが、そう、軽自動車なのだ。小回りは利く、燃費も良い、自動車税をはじめ維持費が安いと、良いこと尽くしである。おれの実家のように、大型車を購入して乗り合わせるという発想は、ない。それぞれが自分の車を出せば良いだけなのだ。有料道路を走るときや、本当に数時間もかかるような遠くに行くならば、大型車に乗り合わせたほうが効率的だが、(道中もそのほうが楽しめるだろう。)ちょっとそこまで、という場合には、その大きさは持て余してしまう。軽自動車くらいのサイズで充分……、いや、むしろ有利なのだ。

 そのような理由で、この一帯では軽自動車の需要が大きいのである――、と、おれは卯月さんの解説を聴いて納得した。なるほど、首肯する。たしかに規定年齢に達していない児童をかかえている家長でもない限り、三列目の坐席など不要であろう。無駄なスペースだと言わざるを得ない。少なくとも、ここではそうだ。都会のように、一台だれかが所有していて、どこかへ行くたびにその車を出す、といった用い方はされない。重宝がられることはないのである。

『……だとしたら、おれも軽自動車を選んだほうが良いのかな?』

 多少は張るが、そこは仕方ない。長期的にみれば大して差がないというのなら、(つまりは買い値も高いが、売り値も高いということだ。)軽自動車を買うのが無難な選択かもしれない。お金なら、両親に借りて分割で返すといえば、まあ許してもらえるだろう。というより、許してもらわなければ困る。そうおれの意思は半ば決定していた。思いはすでに金の無心の方向へと飛んでいた。どう切り出せば両親の理解が得られるだろうか――――、

 と。

『あのね、関口くん』

『!』

 予想外の真剣な口調に、おれの思考は中断を余儀なくさせられていた。ほとんど独り言のようなもので、から返答は期待していなかったおれは、(せいぜい簡単な同意が返ってくるくらいだろうと安易に考えていた。)驚いて彼女に焦点を合わせた。するとそこには、

『そのことでね、関口くんに相談があるんだけど……』

 両のに緊張をみなぎらせ、柔らかそうな頬を上気させた卯月さんが、とこちらを射抜いていたのである。


 ……。

 ……。

 卯月さんの“相談”とは、こうであった。

『……あのね、わたしの友達にね、自動車を手放したいって人がいるの。でも最初はね、中古屋さんに持っていって、査定してもらったの。そうしたらね、なんと、引き取りって、つまりお金になりませんよって、言われちゃったらしいの。その友達はね、自分の車に、とっても愛着をいだいていて、本当なら手放したくないんだって。でも事情で、どうしても買い換えなくちゃいけないの。だからね、どうせお金にならないんだったら、いっそのこと誰かに譲っちゃおうって、そう思っているみたいなの。ただ大事に乗ってくれればそれで充分だって。

 ……それでね、関口くん。その……、関口くんは、どうかな? 友達の車、引き取ってくれる気、ない?』

 つまりはおれに、卯月さんの友人という人の自動車の、次の所有者オーナーにならないか――という相談であった。

『大丈夫よ、日ごろからと整備もしてあるし。……たしかに少し旧い車だけど、でも普通に調子いいし。関口くんも、きっと気に入ると思うわ』

 ね? と畳みかけてくる卯月さん。その情熱におれの気持ちも傾きはじめた。何はともあれ、懐を痛めずに車が手に入る好機チャンスなのだ、旨い話にだまされないでねとの両親の忠告もあったが、(何でも独り暮らしをはじめた、まだ勝手の分からない大学生をカモにしようと、いろいろな販売業者がやって来るらしい。)その相手はほかでもない、大恩を受けている卯月さんなのだ、裏をうたぐる必要はない。おれは詳しい話を聴こうと姿勢を改めた。

『本当? 良かったぁ』

 卯月さんはと笑顔の花を綻ばす。それを見られただけで、もう充分に対価は得られた。たとえお世辞にも状態の良い車ではなかったとしても、不平をことはないであろう。もとより譲り受ける品である、文句などお門違いも甚だしいというものだ。

『それでね、関口くん』

 いたずらっぽく瞳を輝かせて――それはまるで、これからおれが驚くのが、すでに決定事項だといわんばかりであった――そして含むような口調で、卯月さんは、

『その――、』


 に乗ってみたいと思わない――?


 微笑んで告げたのだった――。


     *  *  *


 以上が、納車日へと至る道程である。いささか冗長になってしまったが、新天地の背景の描写に迫られてでのことである。どうか許してほしい。今までの暮らしから一転、まるで別の国のようなここでの毎日は、前置きとして述べておかなくてはならない、そうでなくては、なぜこのおれが自動車を所有するまでになったかが理解されないであろう。そう思ってでのことである。それはいわば、突発的な出来事であり、予測済みの、織り込み済みの出来事ではなかったのだ。さらに重ねれば、おれがを所有することもまた、まったく偶発的な出来事だった。おれは何も好き好んで、それを欲しようとしたのではない、卯月さんの友人とおれとの利害が一致したからにすぎない。もし探すのがもう少し早ければ、おれは中古車情報誌から手ごろな一台を物色し、入手していただろうし、ぎゃくにもし、もう少し遅かったならば、その車はおれではない別の誰かの手に渡っていたことだろう。……それを想うと、おれたちの出逢いを『運命』と“彼女”――“あいつ”の言を一笑に付すことに、躊躇いを覚えてしまう。出逢いは一期一会などというが、おれたちのそれはまさしく運命的なそれではなかったのだろうか、などと柄にもない感情をいだいてしまう。(“彼女”――“あいつ”にはもちろん告げていない。)

 卯月さんの友人の乗っている車――その車種は、自動車というものに疎いおれでさえ常識として知っている、それくらい世間に認知された車だった。何しろ、その分野で世界一生産された車として、あのギネスブックにも載っているくらいなのだ、(これは“彼女”から直接た知識だ。)もはや一般常識のレヴェルの車である。記録に、そしてそれ以上に、記憶に残る、名車中の名車であった。卯月さんから、びっくり箱を開けるようにして告げられたときに、おれが両者――一般知識としてのそれと、彼女の口から語られたそれ――を結びつけられなかったのも、ある意味当然であろう。たとえるとすれば、世界的芸術家がこの近所に住んでいるんだよ、と言われたようなものだ。人口に膾炙した有名人と、市民との日常が、陸続きになっている――、それと似た違和感である。そんな、ごく平凡なおれの日常には決して非日常の代名詞を、彼女は紡いだのだった。

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