第01話 06
おれの人生に、そのようなものは一生縁がないと思っていた。なるほど父は、免許証を持っている。休日に家族で遠出できるよう、七人乗りのミニヴァンも有している。だが普段の通勤には使用しない。バスで事足りてしまうからだ。おれの学生時分も、通学は徒歩か自転車で、それが当たり前だと思っていた。これから先も、公共の機関か、己の躰ひとつで用は果たせると思っていた。(実際に母は運転免許を持っていない。日常の買い物であればバスと徒歩で充分であったし、大きな荷物は、休日に父に車を出してもらうか、配達してもらえばそれで済むからだ。母は自分が車を運転できないことに、不便さを感じていない。そしてそれが、実家の周辺に住む女性たちの共通認識であった。)
ところがここでは、事情は異なっている。自分用の車――自家用車ではない――がなければ話にならないのだ。そういえば、と
そのここでの常識に、おれのそれも変革させた。己の人生の中でハンドルを握ることはまずないだろうと、もしくは遥かな将来の話だろうと漠然と考えていた……というよりは考えたことすらなかったおれは、新たな環境に適応すべく、行動を起こすことにしたのだった。
まずは教習所である。これは思いのほかスムーズに事が運んだ。免許の取得が常識のこの地域、それに対するサポートは万全であった。通うには遠い人のために運行されている教習所のバスは、公共のそれよりも充実していたくらいだ。(幸いにしておれは自転車で通える距離に住んでいたため、利用したことはほとんどない。)講義が終わってから直接その足で向かう。アルバイトの回数を減らし、(理由を言うと、むしろ先輩がたに応援された。免許の取得は仕事に優先されるのだ。)短時間でとれるようスケジュールを組んだ、これまた幸いなことに、おれが通い出した五月の中旬は、あらかた皆の取得が終わって、閑散とした時期であった。なので実技教科も日に二回きちんと受けることができた。坐上の空論と揶揄されんばかりに組まれた理想的なスケジュールは、しかし果たして計画どおりに進んでいった。(一番の難関は両親への受講料の無心だったくらいだ。)そして一ヶ月後には、おれの手元には自慢げな表情の写真が貼られた、新品の免許証がばっちりと納まっていたのである。
いよいよ準備は整った。おれは自動車を運転する資格を手に入れた。あとはそう、乗る車を選ぶだけだった。
……これは大変に愉しく、充実したひと時であった。おれは実際に自動車を所有している友人たちにアドヴァイスを求める。するとまさに、十人十色、百花繚乱、千差万別な意見が返ってくる。皆それぞれに、実体験に基づく私見を確立しているのだ。それはなかなかに興味深い。歩んだ歳月はたかだか二十年足らず、さらに育った環境でさえ大差ないはずの彼らが、どうしてここまで意見の対立をみるのかと、おれは面白く思いながら耳を傾けていた。
しかしここでも立ちふさがるのは、やはり金銭の問題である。例えばある友人は、事故を起こしても怪我をしないよう、頑丈につくられた外車を勧めてきた。なるほどたしかに一理ある。……そう、たしかに一理あるのだが、おれにとっては夢物語でしかない。現実性に乏しい提案である。ただでさえ教習所の受講料を、親に肩代わりしてもらったばかりなのだ。そのうえ外車を乗り回したいなどと言った日には、仕送りを止められてしまうかもしれない。扶養家族の身でありながら両親より贅沢をしようなどとは、言語道断であった。それに、別の友人の言葉――市場に出回っていない車、または希少な車は、それだけ維持費がかかるよ、との忠告もあった。外車は部品の調達ひとつとっても、選択肢から外すのに充分であると友人は告げてきた。のちのちのことも考えると、なるたけ市場に出回っている車、つまりは売れた車を選ぶのが正解なのだと。……なるほど、言われてみればそのとおりだ。中古部品になるかもしれないが、それでも融通できる確率は、ぐんと高くなるはずだ。ふむ、と中古車情報誌を開く。求める部品は、おのずと限られる。なかでも際立って多かったのが、
『それはね、関口くん、需要のほうが大きいからよ?』
と。
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