第01話 05
以上がこのおれ、関口
もったいぶる理由もないので簡潔に記そう。ここでの不満点、それは、交通手段である。電車、バス、ともに壊滅状態であった。自家用車が一家に一台どころか、一人に一台までに普及しているこの地域、公共の乗り物はまったくの無用といえた。利用者はほとんどいない。学生にしても、ほぼ全員が自転車で通える距離の学校を選択する。住民の安定気質は、青少年のころより萌芽しているのだ。あえて学区外へ出ようなどとは考えない。
いっぽう老人たちはというと、家族に送迎してもらえるので、これまた公共の交通機関を必要としない。それにこの世代の人々は、驚くほど足腰が鍛えられていた。どれだけ歩いても、まるでへっちゃらである。時間も潤沢にある。石垣に腰をおろしたり、公園でのんびりと陽を浴びたりしながら、ゆっくりと移動する。もともと農業畑の人間なだけに、時間に拘束されることを快く思わないのかもしれない。まったく羨ましいかぎりである。
そのようなわけで交通機関は、散散たる有りさまなのだ。……おれも以前、ここのバスに乗ったことがあった。が、おれのほかには誰もいない。運転手と二人きり、へたな恐怖映画よりも、よほど薄気味悪い光景だったことを憶えている。大袈裟な、と思われるなら、どうか想像してほしい。無人で走るバスの中に乗っている自分の姿を。機械的に流れるアナウンス。だがバス停には人影がないゆえ、バスは減速さえせずに通過する。まるでそれが存在しないかのように。そんな状態が永くつづくと、もしかしたら存在しないのはこちらのほうではないのかと、そんな妄想が脳裡をかすめ始める。自分は
しかし不便には違いない。利用客が少ないので、採算を得るために料金を上げる。料金が上がるとますます利用客が減る。利用客が減るのでますます料金を上げる――との負の連鎖におちいり、そして今では、走らせる本数を減らして対処せざるを得なくなり、より不便になった交通機関に、利用客は一そう離れていくという、末期状態にまでなっていた。何しろおれの実家を走るバスの運賃の、倍近くもするのだ、ほかに交通手段を有している利用者からは、そっぽを向かれても仕方がない。……バスや電車は、バイト先の共同浴場なんかよりも、よっぽど公益性が高いはずなのだが、接する頻度が違うからなのか、地元住民の目は厳しい。利益が確保できないなら廃止してしまえなどという過激な理論もあるくらいなのだ。皆がどのような感情をいだいているのかは、推して知るべしであろう。
そんな市民の足たる交通の便の悪さは、自家用車を持っていないおれを直撃していた。……住まいから大学までは、だいたい自転車で十五分ほどである。大学は高台にあり、朝から汗をかきながら登校する破目となった。だがしかし、その程度ならば努力次第で何とでもなる。早めに家を出、坂は自転車を押しながらゆっくり上ることだってできる。いくらでも対処の仕様があった。ところが仕事先となると、話は変わった。単純に距離は大学までの数倍。さらに峠の途中にあるため、必然どこまでも登り坂である。職場に到着するころには、もうふらふらとなっていた。よって、卯月さんとシフト時間が重なったときには、彼女の車に同乗させてもらうのが習慣となっていった。最近では背の高い、いわゆるワゴンタイプに押されぎみなハッチバック式の可愛らしい軽自動車。優しい若草色をした卯月さんのそれは、包容力のある彼女に大へん良く似合っている。車内に床しく香る若葉の萌える匂いがより一層それを際立たせる。最近の芳香剤はとても良くできていて、まるで本物の草木を活けてあるかのようだ――と、助手席に躰を沈めながら、つらつらと思ったものだった。
しかし当然ながら、毎回かのじょと時間が重なるわけではない。時間帯がずれることもある。そのようなときは、ひと昔まえの流行歌よろしく、お互いを待ち合うことが暗黒の了解となっていった。(……とはいっても、乗せてもらっている側のおれは、『待つ』こと以外に選択肢を持てないのだが。)おれのほうが早く終わるときは、風呂に浸かりながらのんびりと卯月さんを待っていた。卯月さんもまた、早く終わる日には、ゆっくりと湯に入り、休憩室でおれの上がりを待っていてくれた。これだけでも、彼女には感謝してもし足りないだろう。
では卯月さんが休みの日にはどうするのか。……先述のとおり、自転車である。(さいしょ卯月さんは、送迎を申し出てくれた。わたし、いつだって暇してるし、お風呂に入りに行くついでだから、と気づかいを示してくれた。だがそんなの建て前であることくらいは、誰の目にも明らかだ。これ以上卯月さんに甘えるわけにはいかないと、おれはバスで通うことにした。不便きわまりないが、背に腹は代えられない。こちらで時間の都合をつければ何とかなる……との思いつきは、しかし楽観でしかなかった。おれはまだ軽く考えていた。『壊滅的』などと表現しておきながら、そのじつ実感として身に沁みていなかったのだ。本数が少ないこと自体は理解していた、だが最終便が七時台だとは、夢想だにしていなかったのだ。……行きは良い、だが帰りのバスがない。厳然たるその事実は、おれにバス通学を諦めさせるには充分であった。(まさかバス内に自転車を持ち込むわけにもいくまい。)そして結局、くたくたになりながらも一時間近くかけて自転車をこぎ続けるしかなかったのである。)
しかし数回もすると、それがいかに無謀かがいやでも判った。両脚はぱんぱんに膨らんだ。仕事中も、忙しくないがために、ぎゃくに疲労は一そう重く躰にのしかかっていた。立っていられないほどだ。仕事が終わってから風呂に入ると、浴槽でまどろむこともしばしばだ。帰宅してもそれは変わらない。自宅にはすでに友人たちが集まり、楽しく時をすごしている。だがその輪に加わる体力が、まったく残っていなかった。せっかく心身を湯で清めたにもかかわらず、また汗をかいてしまった躰を引きずって、挨拶もそこそこに布団に倒れ込んでしまうのが常であった。講義にも身が入らない。教授の話は催眠術のようだ。うつらうつらと舟をこぐくらいならまだしも、気がつくと机に突っ伏していたこともあった。これでは一体、何のために働いているのか分からなくなってしまう。もともと交友費の捻出のために稼ぎを求めたはずなのに、肝腎の
仕事を辞めようか真剣に悩んだ。もとより生活に困っているわけではないのだ。切り詰めるべきところを詰めていけば良いだけなのだ。……しかしそう簡単に現在の職場をあとにするには、そこはあまりにも魅力的にすぎていた。甘い毒はすっかり全身に回っていた。もう他所の職場に移れないどころか、辞めることさえ勿体ないと思うまでになっていたのだ。
だからといって卯月さんに送り迎えを頼むのも、やはり気が引けた。間違いなく卯月さんは快諾してくれるだろう。これはのちほど聞いた話なのだが、彼女が送迎をするというのが、おれが採用された際の条件だったのだ。(そのことに思いが至らなかったのは、迂闊だったと言わざるを得ない。少しでも考えれば解ることだったのに。移動手段を持たないおれが、どうして遠方にすぎるその施設に採用されたのかを。面接の時点で尋ねられなかったので、すっかりと失念してしまっていたのだ。というよりそのときのおれは、当然バスが運行しているものだと思い込んでしまっていたのだ。よく確認もせずに。)……彼女の厚意に甘えるのは簡単だ。卯月さん自身もそれを望んでいる節があるだけに、一そう容易だといえた。水は低き所に流れる、同じように楽をしようとすれば、いくらでもできるのだ。本人がそれを
しかしおれは躊躇した。たとえ本人がやりたがっていたとしても、片道十数キロをこちらの都合だけで、一日に二度も往復させるのは、いくら何でも傲慢すぎた。卯月さんは便利な女ではないのだ。ただ大変に親切な気質を具えているだけで、それにつけ込むことは許されなかった。(……さてここで、おれがハーレムものの主人公のごとく、異性の好意に鈍感なのではないかの誤解を解いておく必要がある。おれは他人の感情を察知できないような阿呆ではない。むしろ積極的に勘違いをしていくほうだ。ではなぜ、と思われるだろうか。たしかにここまでの記述を読むに、彼女――卯月さんは、おれに好意を持っている、ありていに言ってしまえば惚れていると誤解しても仕方がないだろう。しかしそれは、誤解である。なぜなら、いまだ開示されていない情報が含まれていないからである。またも本筋からは逸れるが、紙面を少し割いてそのことに触れたいと思う。
“他所者”のおれは、ここではまったく珍しい存在だった。皆は競っておれに好印象をいだいてもらおうと奮闘する。それに男女の別はない。少し前に、異邦の地にいるおれをあたかも外国人のようだと評したが、実際はもっと極まっている。珍獣に対するそれだ。動物園の檻に群がる見物客――友人たちはおれの目にはそう映っていた。(極端な例を挙げよう。おれはあるとき、スマートフォンを向けられた。何かと思ったら、ここに通っていない友達に自慢したいから写真撮らせてとのことだった。さすがにおれも閉口した。)そしてここからが重要なのだが、おれは自惚れではなく皆に好かれてはいたが、それには脚注が添えられていた。すなわち、おれはみんなのものだと。抜け駈けをして個人的に親密になることは、許されなかった。その事実を、おれは直接卯月さんから聴かされていた。ここでは個人の感情よりも、共同体の決まりごとが優先されるの、だから――、と。いわば好きになる前に振られたようなものだ。ほの淡いおれのつぼみは、膨らむ前に剪定されてしまったであった。)
その事実のゆえに、おれは卯月さんに今以上の傾倒をを行なわぬよう、己を律しているのである。妙な誤解を周囲に与えてしまっては、卯月さんの立場が悪くなってしまう。それはこれだけ世話になっている彼女に対して、恩を仇で返すことにほかならない。おれはどちらかというと律儀な性格だと自認している。与えられた親切には充分に報いるよう、常日頃から注意を払っているつもりだ。だが卯月さんには与えてもらっているばかりだ。彼女を筆頭として、こちらの友人たちは、皆が集まれる場所を提供してくれるだけでもう充分だと言ってくれているが、そういうわけにもいくまい。殊に卯月さんに対しては、絶対にこれ以上の迷惑をかけてはいけないのだ。そうでなければ皆とのバランスが取れなくなってしまうだろう。
……以上の推論を経て、おれはある一つの解決策を決行することにした。
それは、
自分専用の自動車を所有することだった――。
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