第01話 04

 ……ちょうど卯月さんの話題となったので、もう少し触れたいと思う。先ほども述べたが、(憶えておられるだろうか?)彼女はおれの恩人である。どのあたりがと問われれば、まず第一に仕事の斡旋と答えよう。もともとアルバイトはするつもりでいた。家賃が安く済んだという僥倖に恵まれはしたが、もちろんその分がお小遣いとして回されることはなかった。ただ単に両親の仕送り額が少なくて済んだというだけである。食費は前述のとおり、だいぶ節約できている。光熱費は……、たぶん可もなく不可もないと思われる。(世間一般の標準のあたいが、まず分からない。)だが両親の仕送り額からかんがみるに、まあ妥当といえるのではないだろうか。つまりである。それら生活費を別にした、純粋に自由に使える金は、月一万円。それに加えて、食費の浮いた分がだいたい二万円。計三万円ほどが、交際費として充てられるのである。それを多いとみるか、少ないとみるかは、育ってきた環境に左右されるだろうが、遊びたい盛りの大学一年生としては、少少。今までの貯金も勿論あるのだが、なるべくなら切り崩したくない。そんな吝嗇家りんしょくか……ではなく、節約家であったおれは、働いてお金を稼ごうと当然の結論に帰結していた。しかしこれが一筋縄ではいかない。何しろ、人人のほとんどが、第一次産業に従事しているのだ。日の出と共に起き、日の入りと共に帰る。そのような規則正しい生活の中に、学校が終わってから働きたいというおれの出る幕はなかった。そして夕方から夜にかけての時間、働けそうな場所――つまりショッピングセンターか、コンヴィニエンス・ストアは、今のところ人員の募集はしていない。となると、打つ手なしである。友人にそれとなく仕事を探していることを匂わせても、なら稲刈りのときに手伝い来てよなどと、言われる始末。(これは書かずにいわれないくらい、本当に驚いたことなのだが、この一帯は、義務教育中であろうと、田畑の仕事が優先される。ちょうど稲穂を収穫する時期に、一週間ほど学校が休みになる。今は他聞をいるのか、『秋の中間休み』と言葉を濁しているが、ひと昔前は、そのものずばり、『秋のお手伝い休み』と呼ばれていたという。そして一家総出で稲刈りをするのだそうだ。……ちなみに、そのを食って、夏休みが削られている。おれの育った場所では、当然のように八月三十一日まで夏休みだったが、ここでは違っていた。お盆をすぎれば、もう二学期が始まった。この話になると、友人たちは腹に据えかねていたのか、小学生のころ、八月いっぱいでちょうど観終われるようにスケジュールが組まれた、午前中のアニメの再放送を、途中で諦めなければならなかったことを、まるで昨日のことのように悔しがって語った。いまだに根に持っているのだ。アニメの最終回を観ると、ああ、これで夏休みも終わりかと、子供心に感慨を覚えていたおれの小学校時代とは、ずいぶんと違っている。)

 そんなときである。

「関口くん、仕事、探しているの?」

 どこで話を聞きつけたのか、卯月さんが尋ねてきた。そして続けて、もしよければ、わたしのとこで、一緒に働かない? と誘ってくれたのだ。

 卯月さんの言う、“わたしのとこ”とは、共同入浴場、解りやすく言えば、銭湯だった。峠を上る途中の森を伐りひらいて造られたその建物は、なかなかに洒脱で、そしてまだ木材の香りが生々しかった。肺胞に入れるとしまうくらいだ。落成されてからまだ日が浅い証左であろう。卯月さんの話によると、前々から温泉の水脈があることは知られていたのだが、場所が場所なだけに、なかなか開発はしなかったのだという。たしかに市の中心地からは遠い。気軽にお風呂、というには、距離がありすぎた。補助金対策なんじゃないかしらとは、彼女の弁だ。年末に無意味な舗装工事をしてみたり、あるいは緊急を要するわけでもないのに、新たな機器を研究室が購入してみたりする、それのことだ。つまり、次年度から予算を削減されてしまわぬよう、与えられたそれを使い切ってしまおうという、浅ましい目論見のことである。……だがしかし、本当に必要なときに、なかなか増額を許可しない行政の側にも、非があるのではないか、そうおれは反論した。もちろん、心中でだ。スウィッチが入ったのか、熱弁をふるい始めた卯月さんに、おれは空気を読んで口をとざしていた。なるほど、たしかに、と、いちいち相槌を打ちながらも、胸中では、この話題を巧く用いれば、仕送り額を上げてもらえるかもしれないなどと、良からぬ計画を立てていたものだ。(まだ実行には移していない。)

 さて、くだんの入浴場である。いわゆる悪しき“ハコモノ”だとの卯月さんの指摘は、まんざら的外れではない。というより、現場で働いている彼女だからこそ、実感として出た感想だろう。おれも働き始めてから、卯月さんの意見に同調するようになっていった。

 施設の側に、採算をとろうとする気がないのだ。

 ……先ほどここを、理解しやすく『銭湯』と呼び表わしたが、実際は市の公共施設である。それだけに、立派な建物だ。相当な費用をつぎ込んだのだろう。浴場は広いし、露天風呂もある。ほぐれたからだを休める休憩室も完備されている。売店もあり、また軽食であればその場で食べることもできた。(ちなみにおれの仕事は、その食事の準備だ。売店の売り子と兼業で、注文が入れば調理をする。はじめはおれにそんな仕事ができるのかと不安を覚えたが、実際は注文のほとんどがソフトドリンクか、アイスクリーム。ごくたまに、たこ焼きとか焼きそばとかラーメンとかを頼まれるが、レンジで解凍して器に移すだけなので、苦労はない。これなら売店に並んでいる既製品のほうが、よほどといえただろう。)

 その売店も、かなりの充実度をほこっている。お土産には最適な地元の名産品をはじめ、契約農家がつくった作物なども置かれている。ちょっとした野菜の直売所だ。……しかし如何せん、農業を営んでいる人ばかりの地元民には、魅力不足である。どうしてわざわざ金を払って他人の作った野菜を食さなければならないのだろう、と。“お裾わけ”という、都会ではに廃れた原初的物物交換制度がいまだに根づいているこの一帯において、融通し合えるものに金を使うという発想はない。もらえるものは喜んで受け取り、また余ったものは喜んで分け与えるのだ。そして農作物は、その最たるものだった。

 結果、野菜は売れ残り、そして従業員に安価で投げ売られる運命さだめとなるのである。……それでも友人たちは納得できないらしく、そんなとこにお金使うなんて、もったいないよと助言してくる。しかし本当に二束三文ので売ってくるのだ。元々の値段を知っているこちらとすれば、ぎゃくに申し訳なく思うくらいだ。だがせっかくの社員特権である。友人たちの好意に甘えてばかりもいられないので、食材の提供くらいはおれも貢献することにした。(でもどうせだったらお肉やお魚なんかが良かったなどと言われ、おれ、なみだ目である。)

 経営陣の怠慢は、それにとどまらない。働き始めて間もないおれでさえ目につくような、明明白白の無駄遣いも、改善される兆しはない。放置されたままである。個人的な意見を述べれば、払うものさえ払っていただければ不満はなかったし、何もかもが緩い職場は、天国のようなものだ。社員特権として風呂は入り放題だったし、(しかも従業員通路をつかえば、真夜中にだって入ることができた。)野菜は安く下げ渡される。ここで働いたら、もう他所では働けない躰となってしまうのではないかと、真剣に心配になるくらいだ。納税の義務を負わない気楽な学生の、他人事な意見である。反して卯月さんは違う。将来の納税者の一人として、行政の職務怠慢には、心底腹を据えかねていた。当然といえば当然だろう。民間業者であったなら、赤字を垂れ流したあげく、経営が立ち行かなくなっても、それは完全に自己責任といえるだろうが、果たしてここの責任者は、公益法人の看板をかかげた行政そのものである。財政危機に陥れば、必然市民の血税は投入される。努力に努力を重ねた結果、どうしても回避できなかったならばまだしも、老朽化した家屋のごとくに、あちこちから随時無駄な費用が雨漏りしている今の状態では、税金での補填は、市民に対する背信行為だと言わざるを得ない。いくら社会一般の利益が優先されるからといって、経営努力を放棄して良い理由にはならないはずだ。

 きっとここでお野菜いる人も、甘い蜜を吸っている一人なのよ、そう彼女は憤懣やるかたない様子で語っていた。“利権”っていうんでしょ、こういうのって――、面倒見が良く、正義感の強い卯月さんは、不正の匂いがするものを看過できないらしい。おれに勢い込んで尋ねてくる。契約農家と経営陣との間で、どのような契約が交わされているかは知らないが、まあ確かに、これだけ売れていないにもかかわらず注文をし続けていることは、怪しいといえば怪しい。優遇措置を受けていると勘繰られても仕方がないかもしれない。だがおれはどちらでも良かったし、(むしろ安価で売ってもらえる分、なくなってしまうのは惜しいと思っている。)をつついて蛇が出てしまっても困る。(つまり、おれの馘首くびが切られる危険だ。それくらい、はっきりいって人手は足りていた。)それは卯月さんにしても同様で、舌鋒鋭く批判してみせるが、でも仕事やめてって言われたら困るでしょ、と水を向けると、途端に黙り込んでしまうのが、何とも可愛らしい。もしかしたら、自分の精神衛生を健康に保つために、共犯としておれを招き入れたのではないかと、そんな穿った見方さえできそうだ。(……さすがにそれは穿ちすぎか。)

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