59皿目 薮。
「さっさと歩かんか!」体験プランは、旅館のご主人による叱咤で始った。
この15分ほど前、私たちは懐中電灯を渡され、車に乗り込み、夜の8時丁度に旅館を出た。山間の道を行く途中に、ご主人より注意事項の説明を受けた。
「興奮しないこと。慌てて動くと、薮の小枝が目に刺さったりして危ないからね」
子ども達は神妙に耳を傾けた。
「それから、大きな声を出さない事。蛇が寄ってくるからね」
これは方便だろうと思った。
「最後に、捕まえていいのは5匹まで。来年いなくなっちゃうからね」
ここまでの説明を受け、ほぼ確実に収穫があるということが伺えた。大自然を相手に、これほどまでに自信を持って言い切れることなどあるのだろうか?私の疑念は膨らんだ。とても効果的なトラップを開発し、かなりの数の昆虫を囲っているのだ、と思った。
そして、目的地に着いた。車を降りた。真っ暗でなにも見えない。明らかに子供達はビビっている。人工的な気配がひとつもないのだ。
「昨日はここで大きなミヤマクワガタを捕まえたんだよ」ご主人が言った。
「ここで、ですか?」
「ここから少し、中に入った所です」ご主人はそう言ってから、薮の中に足を踏み入れた。その2分後に、冒頭の叱咤が飛んだのだ。
「さっさと歩かんか!」
なぜ急ぐのかはわからなかったが、急かされるままに、薮をかき分けた。クモの巣が顔に張り付く。静かな山間に、踏みつけて折れる小枝の音が響いた。そして、私たちはいつの間にか、クヌギ林にいた。そこは丸っきりの大自然。人の手により作られたものでもなく、また、トラップをしかけるといった様子もまるっきりなかった。
懐中電灯でクヌギの木を照らした。いた。
「うわっー!」太郎が叫んだ。
先ほど受けた注意はもう太郎の頭の中にはなかった。ご主人が太郎の興奮に釘を刺した。
「カブトなんてたくさんいるから!興奮するなって!」
しかし、都会の子どもに、この状況で興奮するなというのは酷だった。そこら中にカブトがいるのだ。それも野生のカブトが、自然のままに木に止まっているのだ。
なんてことだ。こんな光景は想像すらできなかった。凄過ぎる!これが『体験プラン』の本当の姿か!いや、本当の姿はもっと違うものだった。
樹液に群がっている数匹の中から、大きなカブトを一匹選び、虫かごに入れた。あとは、クワガタ狙いだ。
「メスは捕るなよ!卵もってるからな。来年いなくなっちゃうから!」
ご主人は子供達には少々言葉が荒くなる。妻が大きなコクワガタを見つけた。それを、カゴに入れた。
一通りクヌギの木を見た後、別の場所に移動した。そこで、ご主人がミヤマクワガタを捕まえてくれた。そして、3カ所目のポイントに向かった。
そこは、これまでの所よりは遥かに鬱蒼とした木々が生い茂り、薮だらけ。腰を屈めたまま進む事を余儀なくされ、野生のイバラに刺されつつ、子供達の様子を見守りながら歩いた。ここにもカブトにクワガタが、そこら中にいた。
そんな中、花子の懐中電灯のバッテリーが切れた。次に私のも切れた。そして妻も、最後に太郎のも。あたりは真っ暗になった。なにも見えない。月明かりも届かない薮の中。心に不安の火が灯った。
ご主人はどんどん進む。足音の聞こえる方へ移動を試みるが、薮に阻まれ、小さな迂回を繰り返すうちに、はぐれそうになった。妻が機転を利かせ、持って来ていたケータイのライトを灯した。
「ひゃあ〜〜〜!!」
妻の悲鳴が轟いた。目の前に、見た事もないような巨大なカミキリムシがいたのだ。もう、そこはインディージョーンズの世界。
ようやくご主人に追いついた。
「ライト切れちゃいましたか?」
「ええ、全員のが切れました」
頼りは妻のケータイとご主人の持つライトだけだ。
「あれ〜どっちだっけなぁ?」ご主人がキョロキョロと辺りを見回した。
おいおい。なにも見えませんよ。右を向いても、左を向いても薮ですが・・・本気で迷ったなんて言わないで下さいね。
「こっちかな〜」
あの〜。そんな不安を煽るような発言はやめません?
「よし、こっちだ」
そっち?そっちは薮の中ですが?
「みんな、小枝に気をつけて」
ライトを持っているのはご主人だけです。私たちは何も見えません。妻のケータイもバッテリーがいつまでもつか・・・
かき分けること数分。再び、真っ暗に。完全に方向感覚を失った。
こんな時はどうすれば・・・・そうだ!星だ!大航海時代を支えた星の位置をみるのだ!私は、夏の代表的な星座はなんだったろうか?と考えながら、上を見上げた。しかし、そこに見えたのは、星ではなく・・・薮。薮。薮。薮。ひたすら薮。全方位が薮だった。
遭難?そんな言葉が頭をよぎった。頼れるのは妻のケータイ。たしかGPS機能があったはずだ。ただ、その機能を使った事はない。
子供達は、今や完全に無口だ。あの興奮状態はどこへ行ってしまったのか。カブトを見つけても、もう見向きもしなくなった。薮をかき分けるのに必死なのだ。
突然、視界が広がった。ようやく薮を抜けたのだ。ご主人が言った。
「ほらね。出たでしょ」
たしかに。でました。切り立った斜面に・・・・
落ちないように慎重に歩きながら、車を目指した。そして生還。車に乗り込み、ようやく息をついた。熱帯夜だというのに、冷や汗をかいていた。
みんな無口の帰り道。貸し切り風呂の時間にはギリギリ間に合いそうだった。
期待していた『クワガタ獲り体験プラン』には『遭難訓練。薮との戦い』というオプションもついていた。
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