56皿目 湯。

 クワガタとの思わぬ遭遇から2時間後、夕食が用意された。ここは食事も口コミサイトで好評だった。海の幸、山の幸がたっぷりの豪華な食事は、ドライアイスによる煙の演出などが加わり、見て、味わって楽しめるものだった。

 夕食後は、いよいよ貸し切り野天風呂だ。正式には『南国野天風呂』と呼ばれるそのお風呂は、旅館の1階、熱川のすぐ側で湯気を漂わせていた。

 ドアを閉めて、外に出る。階段を7〜8段降りると、6畳ほどの脱衣場があり、蚊取り線香が焚かれていた。脱衣場は野天風呂より1.5mほど高い位置にあり、風呂の全貌を見渡せた。その名の通り、ジャングルをイメージさせるように植物が植えられている。特に、旅館の南側に大きく育っているゴムの木の根が、岩風呂の上に垂れ下がり、熱帯地方の森の中を想像させた。風呂の大きさは12畳ほど、小さな屋根が旅館からせり出しているが、大きなゴムの木がその役割のほとんどを担っていた。その木の脇から、水が打たせ湯のように流れ落ちて来て、景色を一層風情あるものにしていた。

 脱衣場と踊り場などのスペース、それに風呂の広さを合わせると、50畳はあるように思われた。こんな素敵な空間を貸し切れるなんて、贅沢だなと思った。

 私は先に風呂に入り、家族が脱衣場から降りて来るのを見守った。子供達が歓声を上げながら、降りて来て桶に湯を取り、温度を確認してから慎重に足を入れた。最後に妻が脱衣場から降りて来た。

 花子が声を上げた。

「ひろ〜い。ここで泳げるね!」

 おいおい。やはり、子供だな。言い出しそうな気はしていたよ。泳ぐって。

 今から4年前にみんなで奥湯河原の温泉に行った時、お前達はまだ泳げなかった。大きなお風呂に興奮していたが、熱い湯を楽しむ事もできなかったな。あれから、おまえ達はスイミングスクールにも通った。少しぐらい熱いお風呂も我慢できるようになった。

 だけどな、花子。ここの旅館は歴史もあって、由緒もあり、趣もある。いいか、花子。温泉てのは日本の美しき文化だ。そこには、日本人にしか解らない『わび、さび』の世界があるのだよ。川のせせらぎに聞き入り、流れ込む原泉の香りを堪能する。自然の生み出した奇跡の中に、静かに身をおき、心を休ませて『湯』を楽しむのだ。

 わかるか?『湯』を楽しむってことが?それは、泳ぐってことではないんだ。いいか?

 その時、私の前を、妻が、『平泳ぎ』で横切った。それはとても優雅で美しかった。

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