23皿目 トラトンボ。

 「おとうさん!そのあみ、伸びへんでぇ!」

 花子の完璧な関西弁に一瞬、感心してしまったが、すぐに意識を羽音に戻した。間違いなくこちらに向かって来ている。私はじっと立ちすくみ気配を消した。

 目を開いた。いた。

 1時の方向。高度1メートル。距離1.5メートル。これが最後のチャンスかもしれない。

 集中。いける!

 シュ!

 網を通して確かな手応えを感じた。空中で網をひっくり返して、地面に伏せた。

 カシャカシャカシャ。

 王者は網の中で、その美しさを漂わせていた。

 「お父さん!やったの!?」太郎が叫びながら走って来た。花子は父の一瞬の早業に目を丸くして驚いていた。

 「でっけぇ!!!」

 あまりの大きさに太郎は少し怖がり、その手で攫もうとうはしなかった。太郎の手よりも大きいのだから、それもいたし方あるまい。私は網に手を入れてそっと攫んで王者を取り出した。

「太郎、これがオニヤンマだ」

「でっけぇ!!」

 持って来た虫かごに入れたが、一匹入れただけで、もう他の虫が入る余地はなかった。太郎がベンチで休むおじいちゃんに駆け寄り、虫かごを見せた。

「おぉ、おっきいトラトンボやなぁ」おじいちゃんが言った。

「トラトンボ?」

「それはな、トラトンボっていうんや」

 二人のまわりにちょっとした人垣ができた。太郎が自慢げに大人達に虫かごをかざしてみせた。

「トラトンボだよ!」

 じーさんよ。うそを教えちゃいけないよ。太郎、それはオニヤンマだよ。近年めっきり数が減って、都会はおろか、郊外でも見かけなくなったんだよ。いいかい、太郎、それはオニヤンマって言うんだ。

 渋々ながら持ってくるのを許可した網が、父を尊敬させる出来事に繋がるとは思っていなかった。

「お父さんすごいね!」と太郎。

「よく捕まえたね」と妻。

 花子は、私が捕まえた時の網さばきを何度も真似している。

「しゅっ!こうだよ!こう! しゅっ!こんな風に!」

 後ろから間近で見ていた花子の目には、父がとてもかっこ良く映ったに違いない。私は家族の尊敬を勝ち得た事がとても嬉しかった。

 その後も行き交う人々に、太郎が誇らしげに虫かごを見せては「トラトンボだよ!」と言って回った。

 そろそろ、逃がしてやる時が迫っていた。私はオニヤンマの写真を取り、太郎に逃がしてやるように言った。太郎が虫かごを大きく開けた。王者はゆっくりと大空に舞い上がって行った。

 帰り道、車の中での話題はもっぱらオニヤンマについてだった。

「大きかったね。こ〜んなに大きかったよね」

 空っぽになった虫かごより大きな仕草で太郎が熱くなっていた。私はくすぐったく感じながらもまんざらではなかった。

 山のふもと付近まで降りて来た時におじいちゃんが車を脇に寄せて止めた。道路脇の膨らみに小さなテントを出して営業しているお店があった。看板には『カブトムシ・クワガタムシ販売中』とある。おじいちゃんが後部座席に座る子ども達に向かって言った。

「カブトムシこうたるでぇ」

「うっわー!ほんとにぃ!」

 二人は一目散に車を飛び出した。

 テントの中では押し入れの中に収納する衣装ケースがいくつか並び、それぞれの箱には様々な昆虫が入っていた。太郎がカブトムシを選んだ。花子がノコギリクワガタを選んだ。さっきまであの美しいオニヤンマが入っていた太郎の虫かごには、カブトムシが入る事となった。

「おじいちゃん!ありがとう!」

「ほんとにありがとう!」

「すっげー!どうする?名前なんてつける?えさはどうする?ねえねえ母さん、家に帰ったらカブトムシの家をつくろうね。百円ショップで買ってもいい?売ってるんだよ!昆虫マットとかクヌギの木とか、昆虫ゼリー(えさ)も!」

「ちゃんと面倒みられるの?」

「うん!図鑑で調べる!飼い方が載ってたよ!」太郎はこの夏一番の興奮状態。

「おじいちゃん!ほんとうにありがとう!」花子はノコギリクワガタの美しい流線型にみとれていた。「きれい・・・・」

 もうトラトンボの話題は持ち上がらなくなった。じーさんよ。そんな手をつかうのか。金の力で尊敬を得るのか。こうして帰りの新幹線では、昆虫も持ち帰る事となった。

 翌日。新大阪の駅で、帽子をかぶり、右手に網を持ち、リュックを背負い、カブトムシの入った虫かごを肩からぶら下げた夏休みを象徴するような出で立ちの太郎に、見知らぬおばちゃんが話しかけた。

「ごっついカブトムシやなぁ。ぼくが捕まえたんかぁ?」

 太郎が嬉しそうに答えた。

「ううん、おじいちゃんに

 花子から遅れる事一日。太郎も関西弁をマスターした。

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