22皿目 オニヤンマ。

 どうしても持って行くと言って聞かなかったので、仕方なく許可した。

 妻の実家(群馬)に帰省している時に、お義父さんが買ってくれた虫取り網と、魚釣り用の網だ。虫取り網は白い柔らかな生地で、柄が伸び縮みするタイプ。反対に釣り用は丈夫な素材で作られていて、柄もしかっりしているが、伸び縮みはしない。こんなものを持って、新幹線に乗り大阪(私の実家)まで行くのは骨が折れる。大阪と言っても、私の両親は引退して、郊外に引っ越した。とても長閑な所で、自然がたくさん残っている。子共達もそれを知っていて、網と虫かごを持って行きたがっているのだ。私は子共達に、まわりの迷惑にならないように気をつけて、自分で持って歩くように念を押してから許可した。

 新大阪には父が迎えに来てくれていた。車に荷物を積んで家に向かった。高速に乗り、運転が単調になった所で、翌日の過ごし方について父から提案があった。

「あしたはUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)にでも行こか?」

 私はあわてて否定した。

「そんな、混んでるとこ行きたないわ〜。どっか涼しいとこがええなぁ」

 私の意見が通り、実家の近くにある『金剛山』という山に登ろうとなった。登山といっても山頂のすぐ下までケーブルカーに乗って上がれる便利な山だ。

 翌日、朝早く起きて準備を整え金剛山に向かった。ゴンドラに揺られ頂上近くまで登る。思った通り涼しかった。国定公園だけあって、自然が多く残されていて登山客のマナーも守られている。この素敵な山は、子共達にとってはかけがえのない夏休みの経験になると感じられた。

 ロッジ風の休憩所に入ろうとした時、私の目にオニヤンマが映った。体長約10センチ。子どもの開いた手よりも大きい。吸い込まれそうなエメラルドグリーンの目。黒と黄色の縞模様は王者の証。

 「太郎、網!」

 私は太郎から虫取り用の網を奪い取り、オニヤンマの後を追った。見失わないようにする事はそれほど難しい事ではなかった。それは、オニヤンマが王者の持つ輝きを放ちながら悠々と飛んでいるからだ。しばらく尾行を続けると、王者の縄張りを一周した。オニヤンマは自分の縄張りをパトロールするのだ。5分ほどで同じ場所に戻ってくる事がわかった。私は決闘に最適な場所を探した。途中でギンヤンマを見つけて、練習がてら網をふるった。

 シュッ!まず一匹。さらに、シュッ!今度は交尾中のギンヤンマを2匹同時に捕まえた。ふた振りで3匹。上々だ。体長8センチのギンヤンマですら、子共達を驚かせた。

「でっけ〜」

「オニヤンマはもっとでかくて、綺麗なんだぞ」そう言って上空を指差し、パトロール中の王者の姿を太郎に教えた。

「うわ〜。小鳥ぐらいあるね!」

「あれを捕まえるんだ」

 それから約一時間。私はオニヤンマに振り回され続けた。何度か大接近してチャンスを得たが、その度にするりと網を躱された。

 太郎がしびれを切らし始めた。だらしない父さん。網を独り占めする父さん。動かない父さん。

 いいかい太郎。昆虫採集とはな、『辛抱と根気』これが重要なんだ。なに?そうか?わかった。そんなに言うのならおまえがやってみろ。もうすぐここに王者がまたパトロールに来るはずだ。私は太郎に網を渡した。

 やがて、オニヤンマがその姿を現した。太郎は待つのではなく王者を追いかけた。

 シュ!シュ!

 網はむなしく空を切った。しかし、太郎のその行動は王者をロッジの入り口に追いつめる効果があった。逃げる空間を失った王者は太郎と対峙した。太郎がにじり寄る。王者がホバリングする。時がゆっくりと流れた。蝉の鳴き声だけが山頂に響いた。両者はジリジリと間合いを詰めた。蝉の鳴き声が止んだ。静けさが二人を包んだその刹那・・・

 シュッ!

 太郎が渾身の一振り。網を地面に伏せた。

 15メートル先で行われた見事な決闘に目を奪われた。

 やったか!?

 いや。太郎の目は空中を見上げている。逃したのだ。私は王者の姿を探した。いた。こっちに向かってくる。

「はなこぉ!あみぃ!」

 まだ魚釣り用の網が残っていた。私は花子から網を奪い取り、王者がこちらに寄ってくるのをじっと待った。

 また山頂に静けさが漂った。私は目を閉じた。王者の羽音に集中した。少しずつ近づいてくるのが耳を通してわかった。その時、私の後ろから花子の声がした。

「おとうさん!」

 なんだ?花子!静かにしろ!とーさんは今集中しているんだ!

「おとうさん!」

 花子、応援したいのは分かる。だが今は黙っていろ。

 しかし娘は黙らなかった。

「おとうさん!そのあみ、伸びへんでぇ!」

 花子はいつのまにか、完璧な関西弁をマスターしていた。

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