補習授業
ぼんやりとした意識の中で微かな痛みを覚えていた。
自我を保ってはいるが体のほうは動かせない。自分の肉体がいまどういう状態なのかはわからないが、戦闘不能に陥っているのは確かだ。
悪魔の攻撃を受けたと記憶しているが、まだトドメは刺されていない。それともこれからトドメを刺しに来るのだろうか。
そして先ほどから微かに走っていた痛みが風船のように膨れ上がっていくように感じる。
それに比例するように意識が覚醒していく。
痛みを訴えているのは右手のようだが目をあけても真っ暗でなにも見えず、周囲はおろか自分自身の状況すらわからない。
なにもかもわからないまま、ふと聞き慣れぬ男の声を耳にする。
「こっちは大丈夫だよ、そのちっちゃいの片づけたら終わりだ」
かなり浮ついた印象を受ける喋り方だ。
それに対し別の男が力の抜けた声で、
「ああ、すぐ終わらせる」
これもまた聞き慣れない声。
そして、その会話のおかげで自分の置かれている状況をある程度理解した。
どうやら俺の頭はなにかに埋まっているようだ。
声が聞こえたとき耳が塞がっているように感じたので、もしやと思って色々手で触ってみたが、やはり壁のような物体に頭が突き刺さっているらしい。悪魔化の影響で肌の表面に感覚がないので気づくのに大分遅れた。
状況がわかってしまえば話は早い。早速突き刺さっていた頭部を勢いよく引き抜く。
確かラティアクシスという名前だったか。自分が頭から塀に突き刺さっていたのは、おそらくその悪魔の仕返しだと思われる。
自由になったところで周囲の状況を確認。
巨体の悪魔はいない。生きているかわからないが比奈の救出には成功し、隼人と櫛田が疲弊しきった表情で途方に暮れている。越前は遠くのほうでうつ伏せで倒れており、こいつも生死は不明。
少女型の悪魔──ラティアクシスはまだ生きていたが、なぜか右腕がもげている。
そして見知らぬ男が二人。
両者ともに金髪に青い瞳。服装もスーツっぽい牧師の服といった感じで共通のものを着ているが、いままでに見たことがない衣装だ。
一人は隼人みたいに髪がふんわりツンツンしていて、いかにもチャラそうな雰囲気の若い男。年齢は二十代前半だろうか。
もう一人は口にタバコを咥え、片手に分厚い本を見開いた状態で持っている。こちらは三十代くらいだと思われる。
その男は手にしている魔導書のような本のページを青白く光らせ、空間で指を踊らせるような動作をとった。
どう形容していいかわからないが、見知らぬ文字で綴られたいくつかの文節と数式が合わさったような独特の魔法陣が空中にえがかれていく。
ラティアクシスはそれを妨害せんと左腕を荒々しく回転させ、その切っ先を男の眉間に向けて突進させた。
だが、到達する前に本の男の、
「≪
その一声で魔法陣が砕け、光の破片がラティアクシスを襲う。
血は出ていないようだが悪魔の肉体はズタズタに引き裂かれ、左腕に至っては肩の根本から切断されていた。
状況から考えて、見知らぬ男二人は助っ人とみていい。比奈が救い出されているのもこの人たちのおかげである可能性が高い。
何者かは知らないが、命を救われたのは確かだ。
ラティアクシスは両腕を新しく生やし、その再生したての左腕をもう一度男の眉間に伸ばす。
『そこまでです』
突如としてラティアクシスと本を持つ男のあいだに朝倉が飛び込んできた。
それは本当に唐突で、いままでこの場にいなかったのは確かであり、遠くから接近していた様子もなかった。
相変わらず黒スーツに黒いサングラスと、宵闇に溶けるような服装ではあるが、それでも少し離れたところから見ていた俺の目には、瞬間移動でもしてきたような登場の仕方だった。
そして本を持つ男は朝倉の登場とともに即座にバックステップで距離をとり、不敵な笑みを浮かべる朝倉に対して敵意を剥き出しにした言葉をぶつける。
「一体何者だあんた?」
さっきまで悪魔と対峙していたときは余裕だと言わんばかりに終始気怠そうにしていた男が、朝倉には眉をひそめて緊張感の漂う表情で睨んでいる。
それに対して朝倉は軽い態度で返す。
「私は朝倉と申します。見てのとおりただの教師です」
「ふざけてるのか?」
「いいえ……よく言われますが、ふざけてはいません。真面目さが私の唯一の美点と言ってもいいくらい私は真面目なんです」
朝倉はふざけたようにニタニタと笑っていた。
本を持つ男のほうは苛立ちすら覚えていたのかもしれない。それ以上言葉は出なかった。
一方ラティアクシスは朝倉のほうへトボトボと歩み寄り、
「こ、殺されるかと思った。ご……」
瞬間、なにかを言いかけたラティアクシスの口元を朝倉が荒々しく鷲掴みにし、こちらにも威圧が伝わるような低い声音で、
「やれやれ、こんなものに手こずるとは情けない話ですね」
言った直後、朝倉はラティアクシスの下顎を握力だけで握りつぶして砕く。さらに砕いた口元から頭部に向けて手を突き刺し、それからすぐに引き抜いた。
するとラティアクシスの体は肉片一つ残すことなく粉々に霧散して消滅した。
悪魔化しても倒せなかった悪魔をああも容易く倒してしまうとは……
もはや朝倉が人外以上の化け物にしか見えなくなった。
そして朝倉は何食わぬ顔で冷静にこう切り出す。
「月読くん……とついでにそちらでボロボロになられてる梛くんたちにも言い忘れていました。悪魔は核と呼ばれる部位を破壊しなければ死にません。逆に言えば核さえ破壊すれば一撃で倒すことが可能です」
と説明したあと、今度は金髪の男二人に向かって、
「それとあなた方にも言いたいことがあります。教え子たちのせっかくの補習授業です。邪魔をしないでいただきたい」
補習授業?
その表現には少しばかり不満を覚える。
こっちは死にかけたというのに、それを授業呼ばわり……正気すら疑う。
この補習授業という表現については本を持つ男も不審に思ったようで、
「補習授業? どう見ても殺されかけてたが」
問いかけるとともに、口に咥えていたタバコを口元から離し、それを朝倉に向かって放り投げる。
タバコは朝倉の胸ポケットあたりに当たりそのまま地面に落ちたが、朝倉は特に気にしていない様子で、口角を上げたまま動じない。
本を持つ男が続ける。
「あんた本当は何者だ? ただの教師が素手で悪魔を握り潰せるわけねーだろ」
朝倉は軽いトーンで返す。
「あなたこそ何者です? 烙印つきがこの町になんの用でしょうか」
「烙印のことを知ってるってことは、やっぱりあんたイストリアの人間か……どこの所属だ?」
「平和を愛する南国の公務員ですよ。こちらに敵意はありません」
不真面目な態度で返す朝倉に、本を持つ男は顔を深々としかめ、両者ともに沈黙する。
次第に空気が重くなっていくような気がした。いつの間にか朝倉の表情も、どことなく威圧的に見えてきた。とても会話を遮れるような雰囲気ではないが……
その会話を聞いた俺としては≪烙印≫や≪イストリア≫という単語が気になって仕方がない。
日を改めて朝倉に聞いたとしても絶対はぐらかされる自信があったため、なんとしても金髪の男たちから聞き出しておきたいところではある。
とはいえ空気が重苦しいうえにチャラそうな金髪の男が先に沈黙を破ってしまったことで、さらに会話に混ざりにくくなってしまう。
チャラそうな男は見た目に反して温和な口調で、
「ボクはヴィクセン・スチュアート、そしてこっちがグリフィス・ブラウン。もうわかってると思うけどボクたちはイストリアの魔術師だ」
そして咄嗟に本を持つ男──グリフィスが怒声を放つ。
「お前、なに喋ってんだ?」
あっさり名乗ってしまったことに対して怒りを露わにするが、朝倉は薄っすらと笑い、
「知ってますよ、すでに調査済みです。あなた方は祖国を裏切り楽園送りにされた哀れな罪人たち……そして目的は異世界イストリアに帰ること」
冗談っぽく説明するが、グリフィスは食い下がるように反論する。
「裏切ったわけじゃない。裏切られたのは俺たちのほうだ」
それをヴィクセンがなだめる。
「まあまあ、それはここで話しても仕方ないでしょ。それよりもこの人が事情を知ってるなら話は早い。交渉次第ではボクたちをイストリアに帰してくれるかもしれない」
と、なにやらいい感じに仲裁になってくれている。どこか重苦しかった空気がこのヴィクセンという男のおかげで少しは軽くなっていた。が、
朝倉は彼の言葉に対し首を横に振り、
「いえ、私も罪人をイストリアに連れ帰るほど暇ではないので、あなた方のお力になるつもりはありません」
直後にグリフィスが踵を返した。
「戻るぞヴィクセン。こいつと話しても時間の無駄だ、俺たちは俺たちのやり方でイストリアに帰る」
ヴィクセンもそれに頷き、
「そうだね、焦る必要もないし、ここで言い争うくらいなら≪
そう言って金髪の男二人は夜の闇に消えていく。
朝倉は男たちの姿が見えなくなったあと、何事もなかったかのようにこう告げる。
「さて、悪魔もいなくなったことですし、あなた方ももう帰っていいですよ」
それに隼人が真っ先に噛みつく。それもものすごい形相でだ。
「帰っていいですよじゃねーんだよ。比奈と越前がやばいんだよ。二人とも呼びかけても返事がないし、早く病院に連れて行かねーと」
しかし朝倉は緊迫感など撥ねのけるようにそれすら軽いトーンで返す。
「ご安心を、二人とも命に別状はありません。私が責任を持って病院まで送り届けますよ。一応医者ですので」
言いながら不敵な笑みを浮かべるさまは、どう見ても医者などには見えなかった。
次に朝倉はこちらを見向くと、怪訝そうに訊ねてくる。
「おや……いかがなさいました月読くん? 先ほどイストリアという言葉に反応しておりましたが、なにか気になることでも?」
さすが朝倉と言うべきか、勘が鋭い。
会話の中で何度か出てきたイストリアという言葉には確かに聞き覚えがある。どこでその言葉を聞いたのかはわからないが、それが魔法世界の名称であることもなぜかずっと前から知っていた気がする。
だが、このことは朝倉には黙っておこうと思う。
俺が異世界の存在を事前に知っていたなんて決めつけられた日には、拷問紛いの仕打ちを受けそうな気がする。
とりあえずこの場は誤魔化すとしよう。
「そりゃ聞き慣れない言葉が出てきたら誰だって気になるだろ」
「なるほど」
朝倉が返したのはその一言だけだった。気味の悪い笑みを浮かべていたのが気がかりではあるが、いまは戦いの疲れもあってか深く考えようとは思わなかった。
とにかく終わったのだ。学生たちの命がけの戦いは……
◆
この事件の数週間後、≪月の影≫の活動は停滞してしまった。
隼人と櫛田は悪魔に対してトラウマのようなものが芽生え、幽霊都市や悪魔の話題は事件以前よりも明らかに減少。
比奈は事件の次の日からずっと元気だ。ラティアクシスに反撃されたあたりから記憶が曖昧になっているらしく、隼人たちに比べると悪魔に対する畏怖の念は弱い。
そして俺たちの中でただ一人、越前だけは病室で意識不明のまま眠ったままだった。
月に咲くプリムローズ 音無哀歌 @otonasi_aika
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