10 しっかり食べて、しっかり寝ろ
どれだけ大事な計画を抱えていようとも、学生は学業が本分だ。
図書室から自室に戻るなり、呪いの書に体当たりで挑んで、気がついたら朝だった。ファルコは、迫りくる寮の抜き打ち検査に立ち向かいながら、今は眠気とも戦っていた。
「おい! ファルコ!」
ガルルスのヒソヒソとした警告の声と共に、背中を小突かれる。
「ふぇ」
ハッとまぶたを持ち上げると、魔術理論の講師がニコニコとこちらを見ていた。
「ロザリンドさん、私の美声に酔いしれるのもいいですが、ここは大事なところなので集中して聴いてくださいね?」
「は、はい!」
くすくすとクラスメイトの忍び笑いが聞こえる。
(やっぱり、ちゃんと寝ないと駄目だな……)
オルティス学園の授業は普通に難しいので、一度置いていかれると、取り戻すのに苦労するのは目に見えている。そうなると、
その日の授業は、親切なガルルスの協力もあり、なんとか最後まで乗り切ることができた。
♢
アロエットは、令嬢らしく完璧な姿勢で授業を受けていたが、どこか上の空だった。昨晩、頭が痛くなるような魔術式とにらめっこした疲れもあったが、何より、久しぶりに目にした父の文字が、彼女を追憶にふけらせていた。
(昨晩の魔道具の資料。あれはきっと、わたくしたちを逃がすための物だった……)
究極まで短縮された、完璧に美しい魔術式。彼女の父は、そうしたものを好んだ。そんな彼がもし生きていれば、家族が離散するという悲惨で不完全な現状に、到底納得しないだろう。ならばなぜ――
(準備が間に合わなかった。予定より早く終わりが訪れた……誰かに邪魔をされた)
彼女は、これまで何度も同じ問いを立てて、何度も同じ答えにたどり着いていた。
彼女の視線の先では、特任神学講師として新しく学園にやってきた、ローランが話をしている。
(教会の寄付講座ね――)
元々、オルティス学園に通う学生たちに対する、教会の宣伝という目的もあるに違いない。アロエットは学園に編入した頃から、この授業を好きになれなかった。
「……つまり、『器』が 『
ふと、ローラン講師の言葉が耳に入ってきた。
『器』――
午後の日差しに、複雑な輝きをみせた蒼鉛色の髪。
(……お母様……)
知らないうちに、アロエットはキュッと眉根を寄せていた。
「いまこの瞬間も、教会の祭壇で使命を果たされている『夜空の器』は、かつて皆さんと同じように、このオルティス学園で学ばれていました」
この学園では誰もが知る逸話を、彼は口にした。
「っ!」
それを聞いた途端に、アロエットの体内でぐるんと何かが
(――!? 魔力が……漏れ出そうとしてる? なぜ! 抑えないと……!)
アロエットはうつむいたまま、目を閉じて深呼吸を始めた。何も考えないで、呼吸の秒数を数える。
「ルチアノさん、大丈夫ですか?」
ローラン講師の声が遠くに聞こえる。そのとき、背中に温かいものが触れた。誰かの手が、アロエットに触れている。
「ルチアノ様」
涼やかな声がした。
アロエットが身を起こすと、足早にやって来たローラン講師が顔をのぞき込む。
「少しまぶたを触りますよ。貧血……ではないようですね」
「……はい。申し訳ございません」
「頭を下げないでくださいね。めまいはありませんか? ゆっくり、立てますか?」
ローランの丁寧な確認に、「はい」と答えアロエットは、自身から魔力が流れ出ていないか気にしながら立ち上がる。
「先生、ルチアノ様を医務室に連れて行ってもよろしいでしょうか」
背中にずっと触れていた、クラスメイトのリアがそういうと、ローランは頷き、
「リアさん、よろしくお願いします」
と、二人を教室の外まで見送った。
♢
小柄なリアは、アロエットの真横に付き添って、ゆっくり歩いていた。体調の異変はすっかり治まってしまったが、アロエットもゆっくりした歩調を保って歩く。
学園の制服には、装飾は三つまでと校則で決められていた。リアが身に着けているのはただ一つ、セレスティス教会の子弟であることを表す、ダイヤ型をしたシンプルな銀のラペルピンだけだ。
アロエットは、その銀色の光を目の端に捉えながら、リアに話しかけた。
「リア様、わたくしに付き添ってくださり、ありがとうございます。授業を中断させてしまい、申し訳ございませんでした」
リアは控えめに笑って言った。
「正直、私にとって神学の授業は、
教会の人間に聞かれたら叱られそうなことを、澄まし顔で言うリアに、アロエットは思わずくすっと笑い声を漏らした。
「ルチアノ様、今のご気分はいかがですか? このまま、医務室まで歩いて向かうことはできますか?」
「ご心配ありがとうございます。どうぞわたくしのことは、アロエットと呼んでください、リア様。それが……もうすっかり大丈夫なのです」
アロエットは、悪戯めいた笑みを浮かべて言った。
「それはよかった。念のため、医務室までゆっくり歩きましょう……アロエット様」
リアは嬉しそうにアロエットの名前を呼んだ。
学園の棟を結ぶ渡り廊下は、窓から一杯の日差しを取り入れて暖かい。
「なんだか、仮病のようになってしまって。お付き合いいただいているのが心苦しいですわ」
肩の辺りで切りそろえられた、リアのさらさらとしたキャメル色の髪が、日に透けて美しかった。
「とんでもございません。もし、どうしても気になるとおっしゃるなら……」
リアは左右二本ずつの指を交差し、少しうつむいて『器』を象る祈りのポーズを取った。
「アロエット様のことを、神はお許しくださることでしょう」
大げさに扱うことで、リアはアロエットの気持ちをなぐさめようとしてくれたのだろう。
(リアはユーモアもあって、優しい子なのね……)
その彼女が、『器』に祈りを捧げることが今のアロエットには悲しくて、彼女の手元から目を逸らすと、「お心遣い、ありがとう存じます」と令嬢の笑みで返した。
♢
コルヴスは、隣の教室からアロエットの異変を察知した。
普段は彼女の体内で抑えられているため、感知に優れた魔術師でも「魔力量が多い」といえば納得してもらえる程度だが、全て外に漏れ出せばノクティスと同じことになるだろう。幸い、すぐに魔力の気配は消えた。
(何があったんだアロ――)
どれだけ心配しても、駆け寄ることはできない。コルヴスはただ、夜が来るのを待つしかなかった。
♢
放課後、ファルコが寝不足な顔のままアルベリヒ教授を訪ねると、
「なんだぁ? 『しっかり食べろ』だけじゃなく、『しっかり寝ろ』も言わなきゃわからなかったか」
と笑われ、借りていた資料を返却しただけで、そのまま部屋に戻された。
「教授は厳しいなぁ」
とぼとぼと自室までの道のりを歩きながらも、ファルコの表情は明るかった。
目の前に迫るやるべきことだけでなく、ファルコがこの先も学園でやっていくために、応援されている気がしたからだ。
「今日は課題をして、夕食を食べたら早く寝よう」
兄さんと姉さんに会うのは、今度こそお預けだ。
大事な家族の力になりたい。これからもずっと。そのために、自分はまだまだ成長しないといけない。ファルコは自分の両手を見つめ、ギュッと強く握った。
ファルコはしっかり食べて、授業の課題を済ませると早めに眠りについた。
(明日は、ガルルスにお礼を言おう……)
毛布に顔をうずめると、ふと懐かしい感触を思い出した。庭に広げた毛布……おひさまの匂い……
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