愛妻

@kakiage_tamanegi

愛妻

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 妻がいます。息を吹きかければ消えそうなやつです。

 

 私が帰れば、「おかえり」と言いますし、私が朝早く出れば、「いってらっしゃい」と言います。ただ、自分では動けません。

 

 動けなくなったのには、わけがあります。ある日突然、病気になりました。その日まで彼女は、人一倍動いていました。朝は私より早く起き、私より遅く眠る。家事もすべて彼女がしていました。

 

 今では私が、しています。掃除も、料理も、洗濯も。妻の着替えも、髪を梳かすのも、お風呂に入らせるのも私の仕事です。最初はうまくいきませんでしたが、今は簡単にこなせるようになりました。

 

 仕事から帰った日、聞いてみました。

 

「いくら好きな男だからって、介護みたいな真似されて、いい気分じゃあないだろう」

 

 自分が動けなくなった途端、あらゆることを誰かにやってもらわなきゃいけないというのは相当、みじめなもんでしょう。料理もまずいものを食わされ、鼻を噛むのだって一人じゃできないし、指を動かすのだってままなりません。私だったらそんな生活、とてもじゃないが正気じゃいられません。ですが、妻はこう言ったんです。

 

「別に、いいよ」

 

 ずいぶん弱気だな、と思いました。病気にかかる前まで、元気のかたまりみたいな女だったもんですから、こうも弱い部分を見せられて、そこまで衰弱したのか、とも思いました。

 

 いつもは先にご飯を食べますが、妻が風呂に入りたいと言いました。妻は手足が効かないので、着替えさせるのも私です。病気にかかってから外に出てないもんですから、肌は新品の家の壁より真っ白で、血の色が映っていませんでした。妻の弱々しい体を見るのは心が痛みます。妻を背負って風呂場まで来ます。妻は道中、毎回、喉の奥から、くぐもった音を漏らします。それが、あぁ、病気なんだな、と感じてしまいます。どうにか、この痛みをわかってやれないものか、自分を責めてしまいます。

 

 妻はオムライスが好きでした。私も頑張っているのですが、まだまだ彼女にはおよびません。破れた薄焼き卵に、ケチャップで文字を書きます。「大好き」なんて書けば妻が喜ぶので、毎回そう書いてしまいます。風呂から上がって、着替えさせて、椅子に座らせます。病気をしてから、前よりずっと、軽くなりました。皿に盛ったオムライスを見せます。彼女が驚いた顔をして、私を見るんです。「これ、作ったの?」って。いまだに私の料理を褒めてくれるんです。妻の病気が進む中、私は新婚のような気分も持っていました。

 

 オムライスを食べてから、歯を磨いて、ベッドまで持って行きます。寝る前に髪を梳かすのが妻の寝る前のルーティンでした。私が丁寧に彼女の髪を梳かします。こうして見ると、病気前から変わらない髪の黒さに目を奪われてしまいます。綺麗だな、と思った言葉をいつの間にか声に出していました。妻はなんだか恥ずかしそうで、私から目を逸らしました。その日は私も一緒のベッドで寝ました。

 

 朝というのはひどいやつです。私を眠りから覚まして今日という日を思い出させるのです。

 妻より早く起きるようになりました。彼女の朝ごはんを作り、ごはんができてから起こす。私は妻に尽くすことが生きがい、となっていました。元気な姿の彼女は、私をいつも支えてくれましたが、どこか手の届かない、遠くへあるようでした。ですが、今の妻は私なしじゃとてもじゃないが生きていけない、生まれたての赤ん坊よりもか弱い生物です。私は忙しい中、本当に彼女を愛せていたのか、疑問に思うこともありましたが、今となっては互いに愛することができて、とても幸せです。

 

 私は朝食をとり、妻をベッドに寝かせ、出勤の準備をします。出かける前に妻の見える位置にあるテレビをつけます。ただ寝ているだけじゃ退屈ですから、以前はあまり見ていなかったテレビを見ています。スーツを着て、ネクタイとベルトを締め、腕時計をつける。

 

「いってきます」

 

「いってらっしゃい」

 

 妻の声は、やっぱり小さいですが、私にははっきり聞こえていました。ドアを閉めて鍵をかける。ちょうどお隣さんも玄関から出てきました。顔馴染みなもんですから、軽く、挨拶をしました。そしたら、お隣さんが言うんです。

 

「あんたの家、臭くない?」

 

 生ゴミを放置しすぎたかな、と思いました。ゴミの日までまだ日はあったので、今日は消臭剤を買うと決めてから、別れました。

 仕事だけはいつもと変わりません。妻の病気もお構いなしにやってきます。私は仕事を終えてから、近所のスーパーで夕飯の食材と消臭剤を多めに買い、家に帰りました。自宅付近は変な匂いはしませんでした。

 

 玄関のドアを開けて、「ただいま」と言いました。テレビの音が聞こえました。妻はベッドで寝ていました。妻はテレビを見始めてから、私に嬉々としてテレビ番組の内容を教えてくれるのですが、私が内容を知っているものばかりでした。ただ、妻が楽しそうに話すので、私もつい、楽しくなってしまいます。髪を梳かしている最中でした。

 

「今日はさ、爪、切ってよ」

 

 妻が言います。そういえば今日は金曜日でした。私と妻との間では、毎週金曜日に手足の爪を切るようにしていました。昨日は、標準より少し長めに伸びた自分の手を見て、そろそろだな、と感じていたのです。私は爪切りを持って、妻の手をそっと、持ちました。


 

「……」


 

 一週間ぶりの妻の爪は、驚くほど綺麗に整えられていました。

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