十字路の綺想曲
ふるきしき
十字路の綺想曲――ニコロ・パガニーニ奇譚――
一
ニコロ・パガニーニが悪魔に魂を売ったという話は、嘘である。
少なくとも、半分は。
彼が悪魔に会ったのは本当だった。だが魂を売ったのではない。
賭けて、勝ったのである。
*
その頃のパガニーニには、ひとつ悩みがあった。
弾けない曲がなかった。
傲慢からそう思っていたのではない。事実として、弾けなかったものが、練習すれば弾けるようになった。
少年時代から父に鍛えられ、ヴァイオリンを握らされてきた。
朝も弾いた。昼も弾いた。夜も弾いた。
指先の皮が裂けても弾いた。
血が弦につけば拭って、また弾いた。
速く、もっと速く。
高く、もっと高く。
人差し指が届かなければ伸ばした。小指が動かなければ動くまで繰り返した。四本の弦を四本の弦として考えるのをやめた。
弓で旋律を奏でながら、左手で別の音を弾いた。
ハーモニクスを鳴らした。重音を重ねた。
一本の弦だけでも曲を成立させた。
すると、できた。できてしまった。
できるたびにパガニーニは喜んだ。
そして次の瞬間には退屈した。
「人間の手というものは、案外つまらんな」
ある夜、そう呟いた。
ヴァイオリンを置いた。
指が震えていた。疲労ではない。弾き足りないのである。
酒場へ行った。
カードをした。負けた。
もう一度やった。また負けた。
「マエストロ、今日はやめたほうがいい」
「負けている日にやめる馬鹿がいるか」
「勝っている日にやめない馬鹿なら、目の前にいるがね」
酒場が笑った。パガニーニも笑った。
そしてさらに負けた。
深夜、ようやく店を追い出された頃には、財布の中身はほとんど消えていた。
酔っていた。機嫌はよかった。
金はなくなったが、退屈もしばらくなくなったからである。
ヴァイオリンケースを抱え、夜道を歩いた。
月はなく、風はあった。
町外れまで来たとき、道が四つに分かれていた。
十字路だった。
中央に男がいた。椅子に腰掛けている。
その前には小さな卓があり、卓上には一組のカードが置かれていた。
「こんばんは」
男が言った。
黒い服を身につけ、黒い帽子をかぶっていた。手袋だけが白かった。
「こんばんは」
パガニーニは答えた。
「一勝負いかがです?」
「悪いが、金がない」
「存じています」
「では酒を賭けるか」
「酒も結構です」
「女か?」
「それも結構」
「では何を賭ける?」
男は微笑んだ。
「魂を」
風が止んだ。遠くで犬が吠えた。
パガニーニは男を見た。
それから卓を見た。カードを見る。
椅子を引いた。
「いいだろう」
男の笑みが消えた。
「……いいのですか?」
「おまえから言い出したのだろう?」
「普通はもう少し驚くものですが」
「酒場で今日一日だけで金貨をずいぶん失った。魂くらい賭けなければ取り返した気がせん」
「金銭と魂を同列にしないでいただきたいですな」
「悪魔のくせに細かいな」
男は黙った。
「悪魔なのだろう?」
「どうして分かりました?」
「人間なら、こんな夜中に十字路へ卓を出してカードなどせん」
「あなたにだけは言われたくありません」
「それで──」
パガニーニは卓を指で叩いた。
「私が負ければ魂をやる。私が勝ったら?」
悪魔は微笑を取り戻した。
「望みのものを」
「金はいらん」
「ほう」
「女もいらん。名声もいらん」
「……では?」
パガニーニは身を乗り出した。
「私に弾けない曲をくれ」
初めて、悪魔の表情が変わった。
「……なんですって?」
「人間には弾けない曲だ。おまえは悪魔なのだろう。地獄の曲でもなんでもいい。私が一生練習しても弾けない曲を、一曲くれ」
「あなたは、自分の魂と引き換えにしてまで、それが欲しいと?」
「欲しい」
即答だった。
悪魔はしばらくパガニーニを見つめていた。
やがて低く笑った。
「なるほど……」
カードを切る。
「あなたのような人間が、もっと早く生まれてくれればよかったですな」
「お互いにな」
勝負が始まった。
二
悪魔は強かった。
しかし、パガニーニはもっと強かった。
正確にいえば、その夜のパガニーニは異様に運がよかった。
一枚。また一枚。カードが開かれる。
悪魔の白い指が止まる。
最後の一枚を見たとき、悪魔は長いこと黙っていた。
「私の勝ちだな」
「…………」
「おい」
「…………」
「聞こえているだろう?」
「……ええ」
「ならば約束だ」
悪魔はカードを卓へ伏せた。
「もう一度」
「駄目だ」
「二度勝負で」
「悪魔が後出しの提案とは情けないな」
「三回勝負の二本先取ということで」
「見苦しいぞ」
「悪魔に向かって見苦しいとは何ですか」
「負けは負けだ」
悪魔は歯噛みした。だが、やがて諦めたらしい。
「では、ヴァイオリンを」
パガニーニはケースを開いた。
悪魔に渡す。悪魔は楽器を構えた。
そして、弾いた。
最初の一音で、パガニーニから酔いが消えた。
聞いたことのない音だった。
ヴァイオリンでありながら、ヴァイオリンではない。
一人が弾いているはずなのに、二人、三人、いや、もっと大勢の奏者が暗闇の中にいるようだった。
低音が唸る。高音が笑う。旋律の裏から別の旋律が這い出してくる。
弓が跳ね、左手が踊り、音が重なり、ほどけて、追いかけて、逃げて、泣き、笑う。
そして一瞬だけ、ヴァイオリンが人間の悲鳴をあげた。
パガニーニは息をするのを忘れていた。
悪魔は演奏を終えた。
長い静寂。
「いかがです?」
悪魔は得意げだった。
「これが地獄で奏でられる曲です。人間のためには書かれていない。人間の手の構造では――」
「もう一度だ」
「はい?」
「……いや、いい」
パガニーニはヴァイオリンを奪った。
「何を?」
パガニーニは構える。
最初の一音。悪魔の顔から笑みが消えた。
パガニーニは弾いた。
先ほど聞いたものを、頭の中で解体していた。
ここは重音。ここはハーモニクス。
ここは弓ではない。左手で弾けばいい。
ここは普通なら指が届かない。ならば移動すればいい。
ここは人間の手では間に合わない。
ならば――。
「待ちなさい」
悪魔が言った。しかしパガニーニは聞かなかった。
「待て」
弾く。
「それは人間には――」
弾く。
一箇所、失敗したときには、舌打ちした。
最初からやり直す。
「なぜ最初から!?」
二度目。今度は通った。
最後の音が十字路へ消えた。パガニーニは首を傾げた。
「なるほどな」
「……何が、なるほどです」
「難しい」
パガニーニは笑った。
「だが、不可能ではない」
悪魔は何も言わなかった。
「いい曲だ。もらっていく」
「…………」
「約束だからな」
「…………」
「では」
ケースへヴァイオリンを収め、歩き出した。
背後から声がした。
「覚えておきなさい、ニコロ・パガニーニ」
振り返ると、悪魔は立っていた。
「悪魔は借りを返します」
パガニーニは笑った。
「やはり賭けに負けた悪魔の台詞としては、実に見苦しいな」
そして帰った。
三
それからパガニーニの演奏は変わった。
いや、本人にいわせれば、何も変わっていない。
ただ、一つ壁を越えただけである。
だが聴衆にはそう見えなかった。
弓が走れば、人々は息を呑んだ。
左手が弦の上を這えば、婦人は胸を押さえた。
一本の弦だけで旋律を奏でれば、音楽家たちは互いに顔を見合わせた。
重音。跳躍。ハーモニクス。左手のピッチカート。常識では考えられぬ運指。
それらを、痩せた長身の男が、黒い服をまとって奏でる。
噂が立つのに時間はかからなかった。
――あれは人間ではない。
――悪魔と契約したのだ。
――いや、母親が悪魔へ魂を売ったのだ。
――演奏中、舞台の後ろに悪魔が立っているのを見た。
――弓を動かしているのは、見えないもう一本の腕だ。
噂を聞くたび、パガニーニは笑った。
「悪魔ですって?」
ある婦人が恐る恐る尋ねたことがある。
「ええ」
「本当に……契約を?」
「ハハハ、していませんよ」
「では、あの演奏は?」
「練習しました。それだけです」
婦人は冗談だと思って笑った。パガニーニも笑った。
本当のことほど信じてもらえない。
そのうち、彼自身も悪魔の噂を否定しなくなった。客が増えたからである。
「悪魔と契約した男」という触れ込みほど、興行に都合のよいものはなかった。
パガニーニは名声を得た。金も得た。
そして賭博で失った。
また稼いで、また失った。
ヴァイオリンだけは弾き続けた。
あの十字路で聞いた曲も、時折弾いた。
そのたび、聴衆は熱狂した。
そしてそのたびに、客席の最後列に、黒い帽子の男がいるような気がした。
四
身体がおかしくなり始めたのは、いつからだったか。
歯、咳、熱、腹、喉──。
身体のあちこちが、少しずつ言うことを聞かなくなった。
医師は病名をいくつも口にした。
薬もいくつも出した。
効いたものもあった。効かなかったものもあった。むしろ悪くなったものもあった。
ある冬の日、新しい医師が訪ねてきた。
「失礼します」
黒い鞄を持っていた。黒い服を着ていた。手袋は白かった。
パガニーニは寝台から顔を上げた。
「どこかで会ったかな?」
「医者というものは、患者からよくそう言われます」
「そうか」
「舌を」
診察が淡々と始まった。脈を取り、胸へ耳を当てる。
「治療が必要です」
「演奏できるようになるなら何でもいい」
「何でも?」
「ああ」
医師は笑った。
「その言葉、覚えておきましょう」
薬が出された。
水銀を用いる治療も行われた。
痛みを抑えるための薬も使われた。
身体は弱った。だが、奇妙なことに指だけは動いた。
演奏の前には立てないほど衰弱していても、舞台へ出てヴァイオリンを顎に挟めば、指が別の生き物のように動いた。
聴衆はそれを見て、ますます噂した。
――悪魔だ。
――悪魔が身体を動かしている。
――魂はもう本人のものではない。
医師はその噂を聞くたび、楽しそうに笑った。
「評判ですよ、マエストロ」
「医者なら患者の評判より脈を診ろ」
「悪魔に魂を売ったそうですね」
「違う」
「ほう」
「賭けただけだ」
医師の手が止まった。パガニーニは薄く笑った。
「そして勝った」
長い沈黙。
医師はゆっくり顔を上げた。
「……いつからです?」
「最初からだ」
「気づいていました?」
「白い手袋はやめたほうがいい」
悪魔は長い息を吐いた。
医師の顔が、ほんの一瞬だけ、十字路の男の顔になる。
「では、なぜ私の薬を飲んだのです?」
「悪魔だろうが医師だと思った」
「そんなわけがないでしょう!」
「ハハハ」
「悪魔ですよ、私は」
「知るか」
パガニーニは咳き込んだ。血が布についた。
悪魔は黙った。
「……怖くないのですか」
「何がだ」
「死ですよ」
「ああ、怖いとも」
パガニーニは答えた。そのとき、悪魔は意外そうな顔をした。
「怖いのですか」
「当たり前だ。死んだら弾けん」
その答えに、悪魔は何も言えなかった。
五
やがてパガニーニは声を失った。
喉が壊れた。会話には筆談を使った。
ある日、悪魔が尋ねた。
「まだ弾くつもりですか」
パガニーニは紙へ書いた。
《もちろん》
「身体はもう限界です」
《知っている》
「指も、いずれ動かなくなる」
《そのとき考える》
「あなたは馬鹿ですか」
《悪魔に言われたくない》
悪魔は紙を握り潰した。
「私はあなたを壊しているのですよ」
パガニーニは新しい紙を取った。
《知っている》
「ならば何故……」
書き出す。
《おまえは私に負けた》
「それが何です」
《だから私は、おまえの思い通りにはならない》
「意地ですか」
《音楽家だ》
悪魔は笑わなかった。長いこと、病人を見ていた。
やがて尋ねた。
「あの曲を覚えていますか」
パガニーニは眉を上げた。
「十字路で私が弾いた曲です」
パガニーニは紙に書く。
《忘れるものか》
「まだ弾けます?」
パガニーニはヴァイオリンを取った。
悪魔が止める間もなかった。
弓を置き、音が鳴った。昔より遅かった。昔ほど力はなかった。ところどころ音が震えた。
だが――悪魔は目を見開いた。
違う。十字路で自分が弾いた曲ではない。
同じ旋律だった。しかし何かが違う。
悪魔の曲にはなかったものがある。
痛み、老い、病、欲、後悔、歓喜、拍手、旅、賭博、女、金、孤独──。何千、何万という聴衆の息遣い。一人の人間が生きてきた年月が、音の中へ入り込んでいた。
演奏が終わった。
パガニーニは肩で息をしていた。
悪魔は呟いた。
「私の曲ではない」
パガニーニは紙に書いた。
《当然だ》
そして一行。
《今は私の曲だからな》
悪魔は、その日初めて帽子を取った。
六
一八四〇年五月。ニース。
ニコロ・パガニーニは死の床にいた。
司祭が来て、「終油の秘蹟を」と言った。
パガニーニは拒んだ。まだ死なない。
そう考えていたともいう。
あるいは、悪魔との噂に満ちた自分の生涯について、最後まで何か思うところがあったのかもしれない。
真相は分からない。
五月二十七日。
ニコロ・パガニーニは死んだ。五十七歳だった。
死んだのだ。ところが、墓へ入れなかった。
生前からまとわりついていた悪魔の噂。
終油の秘蹟を受けなかったこと。
その他さまざまな事情が重なり、教会はすぐには彼を聖別された墓地へ葬ることを許さなかった。
遺体には防腐処理が施された。
棺へ収められた。しかし墓へ入れない。
置かれ、移され、また移された。
生涯ヨーロッパを渡り歩いたヴァイオリニストは、死んでからも旅を続けることになった。
その頃、人々は囁いた。
──当然だ。
──悪魔に魂を売った男なのだから。
──教会が拒むのも無理はない。
夜になると棺の中からヴァイオリンが聞こえる。
そんな噂まで生まれた。
死人は弁明できない。まして声を失って死んだ男なら、尚更だった。
七
ある夜。
棺の前に、一人の男が現れた。
黒い服、黒い帽子、白い手袋。
「ずいぶん探しましたよ」
返事はない。
「死んでからも、よく旅をする人だ」
悪魔は棺へ手を置いた。
「ニコロ・パガニーニ」
蓋を開けると、防腐処理された男が眠っていた。
あれほど動いた指も、もう動かない。
悪魔はしばらくその手を見た。
「さて──」
白い手を差し出した。
「長い付き合いでした」
長い沈黙。
「そろそろ魂をいただきましょう」
再び長い沈黙。
「あなたも十分生きた」
風だけが静かに鳴く。
「十分弾いた」
音もせず草木が揺れる。
「もうよいでしょう」
そのときだった。
音がした。悪魔はそのほうへ振り返った。
ヴァイオリン。
遠くから聞こえる。
いや、遠くではない。
どこからともなく響いている。
悪魔は立ち尽くした。
知っている曲だった。
十字路の夜。自分が弾いた曲。
ただし――。
「違う」
あの曲ではない。
パガニーニが最後に弾いた、あの曲だった。
人間の人生を詰め込んだ曲。
音は続く。
「どこだ」
誰もいない。
「どこにいる」
返事はない。ただヴァイオリンだけが鳴っている。
悪魔は棺の中の死者を見る。
「……そうか」
ようやく気づいた。
契約書などなかった。血の署名もない。魂の譲渡もない。あったのはカードの賭けだけ。
パガニーニが負ければ魂を渡す。
悪魔が負ければ、人間には弾けない曲を与える。
そして、悪魔が負けた。それだけだった。
「あなたの魂は──」
悪魔は呟いた。
「最初から、私のものではなかった」
ヴァイオリンが笑うように高く鳴った。
「分かっていますよ」
音が更に高く響く。
「分かっていますとも」
さらに低音が震える。
「だから、そう笑うな!」
曲が終わった。静寂が戻る。
悪魔は長いこと立っていた。
やがて帽子を取り、死者へ頭を下げる。
「負けましたよ」
返事はない。
「マエストロ」
棺を閉め、悪魔は墓場の出口へ歩き出した。
戸口で止まり、振り返った。
「……もっとも」
少し笑った。
「あなたが私に魂を売ったという噂だけは――」
棺は静かだった。
「人間たちが、いつまでも信じるでしょうがね」
悪魔は消えた。
*
その後も、ニコロ・パガニーニの遺骸は数奇な運命をたどった。
そして長い年月ののち、ようやく安住の場所を得た。
だが彼にまとわりついた悪魔の伝説は、墓へは入らなかった。
今も残っている。
人間には不可能と思われる技巧。
異様な風貌、熱狂する聴衆、悪魔との契約、魂を代価に得た才能。
なるほど。そのほうが、人々には分かりやすかったのだろう。
一人の人間が、気の遠くなるほど弦を押さえ、弓を走らせ、失敗し、繰り返し、とうとう同時代の人間が理解できないところまで行ってしまった――などという話よりも。
だから最後に、ひとつだけ訂正しておこう。
ニコロ・パガニーニは、悪魔に魂を売ってヴァイオリンを弾いたのではない。
悪魔から一曲巻き上げたのである。
(了)
十字路の綺想曲 ふるきしき @furukishiki
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