第7話 あなたが最初
一
金曜の夜、私用のアドレスにメールが来た。
差出人は、見たことのない文字列だった。件名は無い。本文は英語で、短かった。翻訳のアプリに掛けなくても、読めた。読めてしまう程度の英語だった。
あなたが最初だ。
その下に、日付と時刻。五週間と少し前の、火曜日の、午後二時十分台。その下に、私の会社のPCの名前。開発一部の、私の端末に付いている名前だ。社内の人間しか知らないはずの名前が、そこにあった。あのzipの中身が、私の端末から、端末の名前ごと向こうに送っていたのだと思う。思うだけで、確かめる手段は無かった。
我々は、あなたのカード、あなたの住所、そしてこのアドレスを持っている。会社に知られたくなければ、個人で支払え。
額が書いてあった。会社への要求とは、桁が違った。私の貯金で払える額だった。払える、と思ってしまった額だった。期限は、三日。
スマホを持ったまま、部屋の電気を点けていなかったことに気づいた。点けた。点けても、画面の文字は同じだった。
私用のアドレスを、どこから、と思った。思って、すぐに分かった。社員名簿だ。緊急連絡先の欄に、私は私用のアドレスを書いている。月曜に公開された名簿の、私の行。住所も、給与も、そこにある。向こうは、それを読んで、私に書いてきた。
あなたが最初だ。
会社の全員が、原因を探している。岸さんが、端末を一台ずつ調べている。その全員より先に、向こうが、私に、名指しで言ってきた。最初は、あなただ、と。
返信は、しなかった。返信のボタンを押せば、私がこのアドレスを見ている、と向こうに伝わる。
消した。
読んで、三分で消した。ゴミ箱も空にした。消してから、消したことも何かの記録になる気がした。何の記録かは、分からなかった。分からないまま、画面を伏せて、伏せたまま、朝まで起きていた。消したメールの一行目だけが、消えなかった。
二
土曜日、私は最初に、カード会社に電話した。
「先日、不正利用で停止していただいた件で。……私の個人情報が、第三者に渡っている可能性について、伺いたくて」
「停止と補償の手続きは完了しています。お客様の情報がどこから流出したかは、当社では特定できません。ご不安であれば、警察へご相談ください」
「警察」
「はい。被害届は、既に出していただいていますので、その担当の方へ」
電話を切った。警察、と言われて掛ける電話は、無かった。掛ければ、あのメールを見せることになる。あのメールの一行目を、警察に読ませることになる。
それから、私は暗号資産の買い方を検索した。
検索した。検索の履歴が私用のスマホに残ることを、検索してから思った。思っても、検索を止めなかった。
取引所のアプリを入れた。口座を開くには、本人確認が要る。免許証の写真。顔の写真。住所。銀行の口座。全部、私の名前で、私の記録として、残る。払えば、私の銀行の口座から取引所へ、取引所から向こうへ、金が動いた記録が残る。
会社は、払わない方針だ。岸さんは、それを勧めた。社員が個人で犯人に払った、と、あとで分かれば、それは私用のPCの登録より、zipより、ずっと重い。
払えば、会社には知られない。向こうは、そう書いている。書いているのは、犯人だ。犯人が約束を守る、と信じる理由は、無い。
一時間、座っていた。
取引所のアプリの、本人確認の画面を開いたまま。免許証を、机の上に出したまま。免許証の写真を撮る、のボタンに、指を置いたまま。
払わなかった。
払わなかった理由を、正しさだと言えれば、よかった。違った。記録が怖かった。免許証の写真が、取引所の中に残るのが怖かった。銀行の出金の一行が、怖かった。会社に知られない代わりに、警察に知られる道を、自分の手で作るのが怖かった。
アプリを消した。免許証を、財布に戻した。
払わないなら、消す。
そう思った。思ってから、消すものが、もう無いことに気づいた。金曜のメールは、金曜の夜に消した。会社の受信箱は、会見の日に空にした。会社のPCの中身は、暗号化されていて、私にも開けない。開けないものは、消せない。ブラウザの履歴も、あの日の記録も、全部、黒い画面の向こうにある。
黒い画面の向こうに、あの火曜日がある。岸さんが、順番に、その画面を開いていく。私の端末は、最後だ。最後は、来る。
三
月曜の朝、西村さんが、台車に乗せたノートパソコンを配って回っていた。
「嶋田さん、代替の端末です。リーダーから先に。旧端末は、絶対に触らないでください。電源も入れないで」
「はい」
「初期の設定だけ済ませてあります。社内のチャットと、メールと、最低限の開発の環境。共有フォルダは、まだ無いです。無いものは無いので」
「無いものは無い、ですね」
「はい。……嶋田さんのチーム、紙で回してるって聞きました。すごいですね」
西村さんは、それだけ言って隣の島へ行った。すごい、と言われた手で、私は代替の端末の蓋を開けた。白い画面が出た。二週間ぶりの、黒くない画面だった。
「リーダー、柳瀬さんから連絡ありました」
久保田くんが、私用のスマホを見ながら言った。
「何て」
「家に、記者が来たそうです。土曜に。名簿の住所を見て。お母さんが出て、何も言わずに閉めたって」
「……そう」
「そう、だけですか」
「他に、何を言えばいいの」
「分からないです。でも、そう、だけは無いと思います」
久保田くんは、私用のスマホを伏せた。私は、代替の端末の画面を見ていた。白い画面に、何も出ていなかった。
昼前に、西村さんから全社に案内が出た。
代替の端末を、今週から順に配布します。まず各チームのリーダーに一台ずつ。旧端末は、解析が終わり次第、初期化して再利用します。チームの窓口の方は、チームの端末の一覧を、本日中に提出してください。
一覧の様式が、添付されていた。端末の名前、使用者、業務上の用途、私用利用の有無、備考。
私は、六台分を書いた。柳瀬くんの行には、私用利用の欄に、動画サイトの閲覧、と書いた。書かなければ、一覧と聴取の記録が食い違う。久保田くんと、あとの四人は、無し。
最後に、自分の行を書いた。
嶋田。私用利用、無し。備考の欄に、指が止まった。
備考。私用利用無し。業務再開のため、早期の初期化を希望。解析の必要性は低いと考えます。
打った。打ってから、読み直した。私用利用、無し。偽サイトの登録は、取引先の手土産だった。私用ではない、と聴取で言った。言ったとおりに、書いた。解析の必要性は低い。理由は、私用利用が無いからだ。筋は、通っている。
送信した。
「リーダー、一覧、出しました?」
久保田くんが、後ろから言った。
「出した」
「僕の行、私用利用、無しですよね」
「無し」
「柳瀬さんは」
「動画。書かないと、聴取と食い違う」
「……書くしか、ないですもんね」
久保田くんは、少しだけ、画面を覗いた。私は、閉じなかった。閉じれば、覗かれたくないものがあると思われる。
「リーダーの端末だけ、備考が長いですね」
「リーダー機を早く初期化してもらわないと、代替が来ても、環境が作れない。うちのチームの再開が遅れる」
「……確かに」
「いちばん使ってないのが、私の端末だから。開発の実作業は、あなたたちの機でしてる」
「そうですね。リーダー、レビューしかしてないですもんね」
久保田くんは、それを冗談として言った。私は「そう」と答えた。冗談として、済ませた。
午後、西村さんから、一覧を受け取った、の返信が来た。一行だった。解析の順番は岸さんが決めます。
夕方、部長が私の席に来た。
「嶋田さん、一覧、見た。リーダー機の初期化を早めてほしいって」
「はい。代替が来ても、環境が無いと、チームの再開が遅れます」
「気持ちは分かる。俺も、早く戻したい。……でも、岸さんの前で、初期化を急ぐ話はしないほうがいい。あの人、そういうのを見てる人だから」
「……はい」
「嶋田さんは何も無いだろうから、いいけどな」
部長は、自分の席に戻った。何も無いだろうから。部長は、私の何を見て、そう言ったのだろう。紙で回している六枚を見て、だと思った。
四
火曜日、岸さんが、フロアの全員に説明をした。
いつもの、大きくない声だった。
「端末の解析について、いくつか整理します。まず、解析が終わる前に端末を初期化することは、ありません。初期化は証拠を消す行為なので、順番の例外は作れません」
フロアの誰も、動かなかった。私も、動かなかった。動かないことが、いちばん難しかった。
「次に、申告の有無で、解析の順番は変えません。私用利用が無い、と申告のあった端末も、同じ手順で見ます。申告は参考にしますが、判断は端末の中身でします」
岸さんは、手元の紙を見た。一覧だ。各チームから出た、端末の一覧。
「一台だけ、使用者本人から、解析不要の申告が出ています。理由は業務再開のため、と。気持ちは分かります。ただ、不要かどうかは、こちらで決めます。順番は、そのままです」
嶋田さん、とは言わなかった。私を見もしなかった。それでも、開発一部の一覧を出したのは私で、その一覧の中で備考が長い行は、一つしか無かった。久保田くんが、私を見なかった。見なかったのが、分かった。
「以上です。今週中に、リーダー機まで到達する見込みです」
今週中に。岸さんは、それだけ言って、隅の机に戻った。
「リーダー」
久保田くんが、小さい声で言った。
「さっきの、うちの一覧ですよね。解析不要って」
「そう」
「なんで、書いたんですか」
「再開を早めたかった。……久保田くんにも、そう言った」
「言いました。でも、岸さん、順番変えないって」
「知ってる。書いた時は、知らなかった」
「知らなかったで、書いたんですね」
久保田くんは、自分の画面に戻った。
昼過ぎに、岸さんが私の席の横を通った。通りすがりに、手帳を見ながら言った。
「嶋田さん。リーダー機、木曜です。木曜の午前中に、私が見ます」
「……はい」
「代替の端末で、業務は続けてください。旧端末は、そのままで」
「はい」
岸さんが行ったあと、久保田くんが言った。
「木曜、僕も立ち会っていいですか」
「なんで」
「リーダーの機、僕も借りたことあるから。資料の印刷で。何か訊かれたら、答えられるように」
「……借りたの、いつ」
「六月の頭です。リーダーが会議の日」
六月の頭。あの火曜日の週だった。私は「いい」と言った。いい、が、立ち会っていい、なのか、立ち会わなくていい、なのか、自分でも決めていなかった。久保田くんは、立ち会うほうで受け取った。
木曜。今日は、火曜だった。あと二日、と数えた。数えて、数える仕事は私の仕事だった、と思い出した。
私は、自分の席で、一覧の控えを開いた。自分の行を、読んだ。私用利用、無し。解析の必要性は低い。一行が、私の名前で、岸さんの手元にある。該当なし、の報告と、最後にしてほしい、の希望と、解析不要、の申告。三つとも、私が、自分で、書いた。
私用のスマホを、机の下で開いた。
私用の受信箱に、金曜のメールは無い。金曜の夜に消した。期限の三日は、昨日、過ぎた。向こうからは、何も来ていない。来ていないのが、いちばん怖かった。払わなかった私に、向こうは、まだ何もしていない。まだ、だった。
消したのは、私の手元の一通だ。向こうの手元に何が残っているかは、私には分からない。分からないものは、消せない。スマホを伏せた。伏せたまま、木曜、と、岸さんの声を頭の中でもう一度聞いた。
つづく
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