第3話 明日、言う。
一
あれから十日、何も起きなかった。
タルトは届かず、カードは止まったまま、会社のPCは毎朝いつも通りに立ち上がった。二百万円は請求されず、部下は私を普通のリーダーとして見ていた。金曜の飲み会のあと、久保田くんは一度も、あの話をしなかった。
登録の日から数えて、四週間近く。月曜の朝、私は九時五分前に出社した。
フロアが、ざわついていた。
いつもなら、この時間の開発フロアはキーボードの音しかしない。今朝は、椅子が動く音と、誰かが誰かを呼ぶ声が、あちこちで重なっていた。
「リーダー」
柳瀬くんが、席から立ち上がって私を待っていた。顔が白い。
「ログインできないんです」
「パスワード、間違えてない?」
「パスワードの画面が、出ないんです。三回、再起動しました。毎回、これが」
柳瀬くんが、自分のモニターを私に向けた。
黒い画面だった。真ん中に、白い英語の文が数行。一番上の行だけ、読めた。あなたのファイルは暗号化された。その下に、連絡先らしい文字列と、支払いに関する文。日本語は、一行も無い。
「隣も、同じです」
久保田くんが言った。久保田くんの画面も、黒かった。その隣も。フロアの向こうの、隣のチームの席も。
「共有フォルダは」
「開きません。開発サーバも、応答が無いです」
私は自分の席に座って、PCの電源を入れた。いつもより、少しだけ長い時間、黒いままだった。それから、同じ画面が出た。
あなたのファイルは暗号化された。
私のPCが、私にそう言っていた。
二
社内チャットだけが、動いていた。
会社のPCから見るチャットではなく、私用のスマホに入れてある社内チャットのアプリだ。通知が、指で追いつかない速さで積み上がっていく。
営業二課、全員ログインできず。
経理、同じです。
総務、共有フォルダ開かない。
開発一部も。
開発二部も。
工場の端末は生きてます。事務所だけ?
バックアップのサーバ、応答無し。
誰か情シスと連絡取れてる?
私は、開発一部も、と書いたのが自分ではないことに気づいた。久保田くんだった。久保田くんは私の隣で、スマホを両手で持って、親指だけを動かしていた。
「リーダー、これ、全社ですよね」
「全社に見える」
「工場だけ生きてるって」
「工場は、ネットワークが別」
部長が、フロアの入口から走ってきた。走る部長を、私は初めて見た。
「嶋田さん、うちの部は」
「全部です。六台、全部。開発サーバも、共有も」
「バックアップは」
「情シスのサーバなので、うちからは分かりません。チャットでは、応答無しと」
「……そうか」
部長は、それだけ言って、隣のチームのリーダーのところへ走った。同じ質問を、同じ順番でしているのが聞こえた。
スマホが震えた。社内チャットの、全社宛ての通知だった。情シスの西村さんの名前で。
すべてのPCから手を離してください。電源を切らず、そのまま待機してください。詳細は追って連絡します。
フロアの誰も、手を離さなかった。マウスを動かし、キーを叩き、電源のボタンを長押しする音がした。西村さんの通知が、もう一度来た。同じ文面だった。
「触るなって言われてますよ」
柳瀬くんが、電源のボタンに指を置いたまま言った。
「触らない。柳瀬くんも、離して」
「離してます。……離しました」
フロアの入口から、営業の課長が入ってきた。開発フロアに営業が来ることは、月に一度も無い。
「嶋田さん、新機種の仕様の資料、開発側で持ってる? 午後、客先なんだ」
「持っています。開けません」
「印刷したやつは」
「紙は、ありません。全部ロックされています。うちだけじゃなく、全部です」
「全部って、どういう」
「会社の、全部です。営業二課のPCも、さっきチャットに出ていました」
課長は自分のスマホを見て、それから何も言わずに出ていった。隣のチームのリーダーが、私の横に来た。
「嶋田さん、家に持ち帰ってる分とか、ある?」
「無いです。持ち帰り禁止なので」
「うちも無い。禁止を守った結果、何も無い」
「守らなければ、あった」
「言わないほうがいいね、それ」
隣のリーダーは自分の島に戻った。
私は、自分の画面を見ていた。英語の文は、読み返しても同じことしか言わなかった。
三
「リーダー」
柳瀬くんが、椅子を寄せてきた。声が小さかった。
「これ、僕の動画じゃないですよね」
「動画で、こうはならない」
「本当ですか」
「本当。画面に出てるのは、ファイルを暗号化した、って文。動画サイトを見ただけで、それは起きない」
柳瀬くんの顔に、少し色が戻った。戻った顔の横で、久保田くんが、スマホから顔を上げた。
「……リーダー」
「何」
「まさか、ルヴェールの偽サイトじゃないですか。ウイルスが仕込まれてたとか」
胃が縮んだ。
「リーダー、会社のPCで、登録の画面、開いてましたよね。取引先用だって」
久保田くんは、責める顔ではなかった。思いついたことを、そのまま言った顔だった。柳瀬くんが「え」と言って私を見た。
見られている。登録の画面も、昼休みの注文の画面も、久保田くんは見ている。ここで違うと言えば、久保田くんは私を見る。
「……可能性は、ある。部長に言ってくる」
言った。言えた。自分の声が、いつもより高かった。
部長は自分の席で、電話を耳に当てていた。西村さんとの電話だった。私が横に立つと、部長は電話を耳から少し離した。
「嶋田さん、何か」
「心当たりです。四週間前に、会社のPCで、ニュースになったルヴェールの偽サイトに会員登録しました。取引先の手土産のつもりで。……あれが原因の可能性は、ありますか」
部長は私を見て、それから電話に戻った。
「西村くん、聞こえてた? ……うん。……うん、嶋田さんが。……そうか。……そうか、分かった」
部長が、電話を私に渡した。
「西村です。嶋田さん、報告ありがとうございます。結論から言うと、おそらく関係ありません」
「……関係、ない」
「あの偽サイトは、被害届が多かったので、警察と公的機関が調べています。こちらで把握している範囲では、サイトからウイルスは検出されていません。目的はカード情報で、フォームに入力しただけで何かがダウンロードされる仕組みは、現時点では見つかっていない。会社のブラウザにはウイルスチェックも入っています。それに、あのサイトに登録した社員は、嶋田さんだけじゃない。今朝の時点で、十数人から同じ報告が来ています」
「十数人」
「はい。ですので、そこが入口だとは考えにくい。報告はありがたいです。他に心当たりがあれば、また」
「……分かりました」
電話を部長に返した。部長は「言ってくれてよかった」と言った。
席に戻ると、久保田くんと柳瀬くんが待っていた。
「どうでした」
「関係ないって。サイトからウイルスは出てない。登録した社員は、他にも十数人いる」
「じゃあ、あのサイトと違うか」
久保田くんが、息を吐いた。柳瀬くんも吐いた。私も吐いた。三人で、同じ息を吐いた。
違った。私ではなかった。登録の画面も、昼休みの注文も、部長に言った。言って、関係ないと言われた。何も隠していない。今日の私は、何も隠していない。
部長が、フロアの真ん中で手を叩いた。
「聞いてくれ。原因は情シスが調べている。各チームは、自分のPCに触らず待機。会社のデータは、いま、全部ロックされていると思ってくれ。開発サーバも、共有も、バックアップも」
バックアップも、のところで、フロアの空気が変わった。久保田くんが、小さく「同じネットワークだったんですか」と言い、部長には届かなかった。
「それから、ここ一か月で、不審なメールや添付を開いた心当たりがある人は、俺に直接言ってくれ。責めない。原因が早く分かれば、それだけ早く戻せる」
誰も、何も言わなかった。私も、言わなかった。言うことは、もう言った。部長は、五秒待って、「無ければいい」と言って、自分の席に戻った。
四
昼過ぎに、社長からの全社メールが、社内チャットに転載された。
本日、社内システムに重大な障害が発生しております。原因は調査中です。詳細は追ってご連絡します。お客様への対応は、各部の指示に従ってください。
「レジェンの日程、どうなりますか」
柳瀬くんが訊いた。
「止まる。今日の分は、確実に」
「明日は」
「分からない」
午後は、何もしなかった。何もできなかった。開発フロアの全員が、黒い画面の前に座って、スマホで社内チャットを見ていた。
「リーダー、僕、この会社に入って、初めて何もしてない日です」
柳瀬くんが言った。
「私も」
「動画、見ていいですか」
「PCに触らない」
「スマホで」
「……好きにして」
柳瀬くんは、スマホで犬の動画を見た。音は出さなかった。芝生を走る犬が、私の席からも見えた。
五時に、部長が「今日は帰っていい」と言った。今日は、全員が帰った。帰る以外に、することが無かった。
エレベーターで、久保田くんと一緒になった。
「リーダー、さっき、言いに行ってくれてよかったです」
「久保田くんが言ったから」
「僕が言わなくても、行きましたよね」
「……行った」
久保田くんは頷いて、一階で降りた。行った、は、その時の私には本当だった。
電車の中で、私は私用のスマホから、会社の受信箱を開いた。
開けた。メールのサーバは、会社のPCとは別の場所で動いている。四週間前の火曜日まで、指で戻した。午後二時。ルヴェールの案内。西村さんに言った、あのサイトのメールだ。その十分あとに、100番目の控え。誤入力ください。添付のzip。
指が、止まった。
サイトは、調べられている。ウイルスは出ていない。フォームからは、何も落ちない。西村さんはそう言った。そのとおりだと思う。
添付は、誰も調べていない。
フォームからは何も落ちない。落ちないから、向こうは、落とさせた。誤字のある一行と、100番目という数字と、半額という餌で、私に、自分の手でzipを落とさせて、自分の手で開かせた。カードの二百万円で、私は、終わったと思った。終わったと思わされたのかもしれない。狙いは、私のカードではなかったのかもしれない。私が座っている、この会社のPCだったのかもしれない。
声が出た。出たのは「あ」だけで、隣の席の人がこちらを見た。
部長には、サイトのことだけ言った。添付のことは、言っていない。訊かれなかったから、ではない。その時は、思いつかなかった。いま思いついた。思いついたのは、電車の中で、私一人で、誰も見ていない。
明日、言う。
言うなら、明日だ。今日はもう、会社に誰もいない。そう決めて、スマホを閉じた。閉じてから、明日、と自分で付けたことに気づいた。
つづく
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