第38話 南
南の秋は、遅い。
北ではもう朝の水が肌を刺す頃、この土地では柿がまだ青みを残し、刈り入れの済んだ田と、穂を垂れたままの田とが、川の両岸をまだらに埋めている。水を落とした泥の匂いは朝靄の底に溜まり、日が高くなるにつれて薄れ、昼には干した稲の匂いに替わる。
南へ来て、一年になる。
市の立つ日に薬を並べ、頼まれれば近在の村を回る。札も書く。竈神の祓い、日取り見、年寄りの脈。戸口が替わり、差し出される椀の形が替わっても、荷から取り出す道具はおおかた同じで、日暮れにはそれを布で拭い、元の場所へ収めて帰る。
名を訊かれれば、沈と答えた。
三日前の市には、子を背負った若い女が来た。
魚を干した
「これ、赤ん坊にも飲ませられますか」
「その包みは、いけません」
沈曉は手を添えて包みを戻し、女を日陰へ座らせた。子を抱き直してもらい、顔と口の内を見て、いつから具合が悪いのか、乳を飲むか、夜は眠るかを順に聞く。
女の答えを聞き終えてから、別の薬を取り出した。
「大人のものを少なくすればよい、というわけではございません。お子の様子に合わせて、こちらで量り直します」
「これで、止まりますか」
「薬を替えるだけでは足りぬこともございます。何を口にしたか、水はどこから汲むか、同じものを食べた家の者にも腹を下す方がおられるか。それで、伺うことも変わってまいります。同じ井戸を使う家で続くのでしたら、お子一人を診て済む話ではございませんので、そちらも確かめねばなりません」
女は、赤子の背を叩いていた手を止めた。
「……先生、そんなに言われても、覚えられません」
「では、一つずつ伺います。お家は、どちらでございますか」
「帰りに寄らせていただきます」
「初めからそう言ってください」
立ち上がる女の肩で、赤子が小さく声を上げた。人垣へ紛れてゆく背を見送り、筵へ戻ると、隣の干魚売りがこちらを見て笑っている。
「先生は、話が長いね」
「長いですか」
「長いよ。あんた、値を言う前に効き目を全部言うだろう。買う方は、先に値を知りたいんだ」
沈曉は並べた包みを見た。値はどれにも書いてあるが、女はそこを指しているのではなさそうだった。
次の客には、値から言った。
客は銭を出し、用い方を聞くとすぐに去ってゆく。まだ口の内に残っていた話を飲み込み、沈曉は空いたところへ次の包みを置いた。
あの男なら、いくらだと先に訊いただろう。それから、隣でも同じ値かと。
今朝は、
川霧の入る部屋で指が冷え、薬包みの細い紐を結ぶにも、いつもの動き出しが少し遅れる。右の指を左の掌で包み、次には左を温めていると、階下で藁を打つ音が始まった。指の腹に血の気が戻るのを待ち、薬研の柄を取る。
今日は、二つ隣の村へ薬を届ける日だった。
ひと月前から、咳の病の年寄りを診ている。梁徳旺という、若い頃に舟頭をしていた男だった。初めて手首へ指を置いたときも、川の話をしていた。大きな手だった。棹を握っていた掌の厚みが痩せた腕の先に残り、脈を取る沈曉の指を、話の弾みにつれて揺らした。
脈は浅いところで速く打ち、胸元には熱があるのに、手足は冷えていた。ひと続きに話すだけの息が持たず、咳が来ると、妻の差し出す椀を両手で抱えて治まるのを待つ。そのたび肩の骨が衣を押し上げ、飲み残した湯はいつまでも減らなかった。
冬を越せるとは、請け合えなかった。
咳を鎮める薬を用い、食べられるうちに少しずつ食べ、寝床を冷やさぬようにと伝えると、息子は分かったと言い、妻は爺の掛け物を胸まで引き上げた。それから戸口まで追ってきて、次はいつ来るかと尋ねた。
薬は十日分ずつ渡している。今日が、その十日目だった。
川沿いの道には、昨夜の雨がまだ残っていた。
草の先が裾を濡らすので、泥の少ないところを選びながら舟着きへ下りると、杭に繋がれた舟が、岸へ寄せては離れている。濡れた板に足を移すまで待って、舟頭が綱を解いた。五十がらみの男で、もう沈曉の顔を覚えていた。
「梁翁のお宅へ」
「ああ、梁の爺さんか」
棹を立て、流れの上手へ目をやる。
「あの人、若い頃は速かったよ。俺の親父がよく言ってた。日暮れに出て、朝には下の町にいたって」
「本人からも伺いました」
「言うだろうな。三つの場所の話もしたか」
「伺いました」
「あれ、二つなんだ」
男は笑い、棹へ体重を預けた。
「二つしかないんだ。俺が親父に聞いたのは二つ。あの人、いつからか三つになった」
沈曉は頷いた。岸が離れてゆくにつれ、男の笑いも収まり、棹を抜くたびに落ちる水が、舟腹を叩くようになった。
川面に伏せられた空を、舟は細く裂いて進んだ。
村に入ると、稲を扱く音が聞こえなかった。
畦には道具が置かれ、立てかけた鎌の刃だけが日を返している。刈りかけの田を過ぎると、徳旺の家の前に人が集まり、その間から庭へ向かう細い隙間が見えた。
沈曉に気づいた一人が、声を掛けずに脇へ寄った。
庭先に出された戸板には筵が掛かり、裾から足の裏が二つ覗いている。
沈曉は、懐の薬に手を当てた。
今朝結んだ紐の端が、衣越しに指へ触れる。手を下ろして人垣を抜け、戸板の脇で足を止めた。
水を張った
婆の手は、布を水へ浸け、絞り、端を揃えるところまで淀みがない。沈曉が近づくと、その布を握ったまま顔を上げた。
「先生」
沈曉は頭を下げた。
「間に合いませんでした」
「間に合うも何も。夜中でしたから」
婆は布をもう一度盥へ戻した。水の中で白が広がり、握り直した両手の間から、細い流れになって落ちる。
「咳が止まったんです。夜中に。あ、止まった、と思って、そしたらそれきりで」
「苦しみましたか」
「苦しまなかったと思います」
絞った布を開きながら、婆は言い直した。
「苦しんだかどうか、私には分かりません。でも、静かでした」
「静かでしたら、それは」
続けかけて、沈曉は口を閉じた。
婆は待っていた。水の切れた布を両手に渡し、こちらを見ている。その人へもう一度頭を下げると、婆も小さく頷き、戸板へ向き直った。
筵の下から徳旺の片手を出し、指の間へ布を通す。爪の際まで拭いた手を胸元へ戻すところを、沈曉は見ていた。棹の話をしたときには、掌を上へ向けて、これで舟を回したのだと見せた手だった。
息子が運んできた板を軒下へ置き、膝の埃を払った。
「先生。薬代を」
「頂きません」
「いや、それは」
「渡しておりませんので、頂く筋がございません」
男の目が、薬の入っている懐へ下りた。沈曉は荷を置かず、袖口を直して両手を重ねた。
「昨日の分までは、頂いております。それで足りております」
息子は頷きかけ、何かを言おうとして、そのまま頭を下げた。
荷車の軸が鳴った。
村の入り口から三人の男が来る。先の二人は揃いの筒袖に脛布を巻き、一人は帯に短い刀を差し、もう一人は帳面を抱えていた。後ろで車を引く男が、道の窪みを避けるたび、荷台の筵が重たく揺れる。
婆の手が止まった。
庭にいた者がそれぞれ少しずつ身を引き、戸板へ通じるところが空いた。男たちは迷わずそこへ入り、刀を差した一人が、筵の下の足を見てから息子に向き直る。
「昨夜か」
「……夜中です」
「歳は。数えで」
「六十四です」
刀の男が顎を動かすと、もう一人が膝へ帳面を載せた。村の名、日付、歳。日付は昨日でよろしいか、夜中は前の日に繰り入れるものであるが、と呟きながら、息子の返事を待たずに筆を進める。最後に数字を一つ書き入れ、乾く間だけ頁を開いていた。
名は、訊かれなかった。
刀の男が懐から小さな包みを取り出し、盥の縁へ置いた。
濡れた木の上で、銭が鳴った。
「引き取る。年寄りだから、これだけだ」
息子は刈り残した田の方を見た。穂はまだ立っている。軒下には自分の運んだ板があり、その手前に、父親の足が見えていた。
「要らん」
婆が盥から手を離した。
「要らんよ。うちで送る。板も、もう出しとる」
刀の男は息子を見ていた。息子は顔を上げず、板を運ぶときについた細かな木屑を、親指で掌から擦り落としている。
荷車に蠅が一匹まといつき、筵へ下りては飛び立つ。羽音が途切れてから、息子は口を開いた。
「……運んでください」
書き役の男が帳面を懐へ収め、刀の男と戸板の両端へ回った。筵ごと
「重いか」
「軽いわ。婆さんかと思った」
受け取る男の語尾に、北の、それも西寄りの訛りがあった。二人が黙って手を離すと、男はもう一度、軽いわ、と呟き、骸の下へ縄を通した。
荷台には、筵の包みが二つあった。
いずれも胸と膝のあたりを藁縄で括られ、徳旺も、空いていたところへ同じ向きに寝かされた。車の縁から垂れた筵を男が押し込み、三つ目の結びを締める。
婆が、車へ歩み寄った。
盥と戸板の間を抜け、荷台の縁へ手を掛けると、いま折り込まれた筵の裾を探り当てた。息子が顔を上げたときには、もう両手で掴んでいた。
「徳旺」
誰も、その手を払わなかった。
刀の男は帳面の男に何かを言い、車の男は縄の下へ指を差し入れて張りを確かめている。婆がもう一度息を吸うあいだに、男は
車が動き、筵が指の間を滑った。
婆は荷台を追って半歩踏み出し、その膝が折れたところへ、息子が後ろから腕を回した。肩を抱いた片手が婆の口の前へ上がりかけ、そこで止まる。口を塞がず、肩へ戻した。
地面に座った婆の唇は、まだ動いていた。先ほどまで布を絞っていた指を宙へ伸ばし、遠ざかる筵を見つめている。頬を伝うものを拭こうともせず、やがてその手が、息子の袖へ落ちた。
指の間に、藁の屑が残っていた。
軸の音は、来たときと同じ間を置いて遠ざかった。
村の入り口を曲がって聞こえなくなるまで、誰も庭を離れずにいた。やがて畦の方へ一人が歩き出し、別の一人がその後につく。声は交わさず、それぞれ置いてきた道具のところへ戻ってゆく。
息子は婆を立たせ、家の中へ伴った。
庭には戸板と盥、束ねたままの線香が残り、焼くはずの紙の上を、軒の影が少しずつ移っていた。下の紙が湿り、乾いた上の一枚だけが、舟底のように縁を反らせている。
片づけに来た女が線香へ手を伸ばし、戸口を見て、その手を引いた。
沈曉は盥の傍らへ屈んだ。銭包みを濡れていない板の上へ移し、縁に掛かった白い布を取って畳む。それから盥を傾けると、ぬるんだ水が庭の隅へ流れ、踏み固められた土の低いところを伝っていった。
水を切った盥を伏せ、片手を縁に残したまま息を整えた。
息子が家から戻ってきた。手には、削った板が一枚あった。
長さは一尺ほど、幅は掌ほどで、先ほど運んでいた棺の板の余りらしい。新しく削った面だけが白く、持つ手の節には木の粉がついていた。
「先生。字を、書いていただけませんか」
「何と」
「名前を」
差し出された板を、沈曉は両手で受け取った。
「牌にします。身体は持っていかれたので、こっちには何もないんです。母が、何もないのは困ると言うので」
表は平らに削ってあった。縁へ行くほど
「墨は、手元にございますか」
「あります」
男の持ってきた
最初の一画で、穂先がわずかに流れた。
木目に沿って細く走った墨を見て、沈曉は筆を立て直した。板の端へ添えた左手をずらし、次の画を下ろす。揃えてゆくうちに名は中央へ収まり、最後の払いを抜いたところに、小さな墨の艶が残った。
息子は、書き終わるまで脇に立っていた。
「触らずに、明日の朝まで置いてください」
筆を置いて渡すと、男は両端を持った。文字を避けようとして、指が板の裏で窮屈に曲がる。
「先生、本当に良かったのでしょうか」
「と、申しますと」
「……爺さんを、売ったのに。孝行者ではありません。そんな自分が、弔いだなんて」
沈曉は男の持つ板へ目を下ろした。
「引き取られたのは、体でございます。名は、引き取っておられません」
息子は顔を上げたが、何も言わなかった。
「生きておられる間にお仕えするのも、葬るのも、葬った後に祭るのも、みな礼でございます」
沈曉は脇に残っていた布を畳み直し、板を置けるところへ敷いた。
「いま、できることからなさればよろしいかと思います」
「体が、ありません」
「名がございます。書けば、その板は、あの方の物になります」
男は胸の高さで板を持ち、濡れた字を見つめている。下ろしかけては持ち直し、やがて頭を下げると、家の裏へ回っていった。
庭の端には、まだ二人残っていた。
「先生。あんた、北から来なすったな」
竹杖を両膝の間に立てた年寄りが、低い声で尋ねた。
「はい」
「北も、ああかね」
「私のいた土地では、まだあのような事はありませんでした」
「そうか」
「三年前は、役所に届けるだけでよかったんだ。誰が死んだかを届けて、それで葬っていい。それが去年から、遺体を買うようになった」
「なぜ、変わったのでしょう」
「人の身体は薬になると言う者もおる。お上がまとめて弔ってくださるのだと言う者もおる」
もう一人が鼻で笑い、すぐに戸口へ目を向けた。
「弔ってくれるなら、なんで銭を置いていく。死んだのだけ集めて、銭を払って、どうする」
「運ばれた先を、ご存じでございますか」
「東だと言う者も、北だと言う者もおる。追った奴は、街道で引き離されて、それきりだ」
年寄りは杖を支えに腰を上げた。裾についた藁を払い、庭に伏せられた盥と、その脇の板を見た。
「なんともならんから、誰も本気で追わん。……銭は、置いていくしな」
村の入り口まで戻ると、雨上がりの道に
沈んだ車輪の幅だけ泥が暗く、縁から滲む水に、細く空が映っている。二本の跡は道の窪みでいったん深まり、そこを越えると、街道へ向かってほぼまっすぐに続いていた。
あの荷台には、三人いた。
徳旺の掌を思い出した。舟の話になると大きく開き、ひとつ増えたという場所の名を、指を折って数えた。隣の二人にも、そういう手があったのだろう。
懐で薬包みが鳴った。
届かなかった十日分を衣の上から押さえ、沈曉は舟着きへ向かう道へ足を移した。川の方から水鳥が鳴き、刈り残した稲を渡る風が、濡れた裾を膝へ寄せてくる。
この一年で、こういう荷車を見たのは三度目になる。
一度目は市の外れで、遠くから見た。二度目は隣の郡で、二台が続いてゆくところへ行き合わせた。今日の車が曲がった先を振り返ると、街道へ出るところにだけ、まだ陽が残っていた。
どれも、轍は同じ方角へ向いていた。
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