故淵の意
第37話 箒
夜の明ける前に目が覚めた。
戸の外はまだ暗く、誰の足音もしない。師匠に叩き起こされていた頃と同じ刻限に、身体だけが起きる支度を始めていた。
谷から引いた樋が、闇の中で鳴っている。
桶を満たして
去年の冬に来た、十二、三の子である。楊文に気づくと竹を外し、しゃがんだまま頭を下げた。
「おはようございます。先に起きてきました」
「起こしに行ってないぞ」
「いえ、あの、言っておこうと思って」
竈を覗くと、薪が三本、揃って立っている。
「立てすぎだ。寝かせろ」
「寝かせると消えるんです。昨日も消えたし」
「消えるのは、寝かせたからじゃない。下に隙間がないからだ」
楊文は屈み、真ん中の一本を引き出した。下に空いたところへ火が入り、黒かった薪の腹を舐めながら伸びてゆく。小鵲は口を開け、火吹き竹を膝の上に置いたまま見ていた。
「先生は、いつ覚えたんですか」
「お前くらいの時だ。三日でな」
半年かかった。だが、今それを教えることもない。
「粥は俺がやる。米を出せ」
小鵲の持ってきた米を量り、鍋へ入れようとしたところで、手がもう一椀分を掬っていた。四人になってからは誰も余りを気にしない。楊文も、米を戻さずに鍋へ落とした。
堂の裏の物置から竹箒を取り、門前へ出た。柄の黒ずんだ握りが、今の自分の手より少し下にある。
門前と、境内と、堂の周り。朝夕二度、年下の弟子が掃く。今なら小鵲の仕事だが、朝の門前だけは楊文が先に済ませていた。
椎や
掃き終え、門の内を見た。
柱も壁も、堂の屋根もある。その下の、いつも目が行くところに、
一年前、持ち上げかけて地へ戻した。
板の端には土が寄り、裂けた木口が灰色に毛羽立っている。雨が入って乾くたび、割れ目の縁は少しずつ反った。裏から見ても、字を裂いたところが分かる。
楊文はその周りの葉も退けた。
門柱の上には、何も掛かっていなかった。
朝の勤めには、手を洗い、口をすすいでから堂へ来る。
小鵲が濡れた手を拭いているところへ、
音の消えるのを待って、香を一本、額の前へ捧げた。香炉に立て、胸の前で両手を重ねる。三清の神々へ呼びかけ、心と言葉と身を清める短い句から唱え始めると、息の切れ目まで身体が覚えていた。
ここで切れ、ここは続けろ。習ったときに直されたところを、十年、同じように唱えている。意味を尋ねるより先に口が覚え、そのまま今日まで来た。
号も似たようなものだった。師匠が紙に書いて渡した二字を、一度も口にしていない。呼ぶ者もなく、紙は経の間に挟まれている。
後ろの声が半拍ずつ遅れてついてくる。阿柏は覚えていた。阿淵は口だけ動き、小鵲は知っているところへ来ると急に声を張る。そのたび、阿柏の肘が隣へ出た。
唱え言の終わりには、山の内にも
箒を肩へ担ぎ、裏山へ回った。
墓は斜面に二段、上は歴代の分で、下に去年の十五が並ぶ。師匠が奥、
師匠の前で手を合わせると、谷の水音が木々の下から聞こえた。
白澗という名はこの音から来ている。そう教えた声を思い出し、楊文は顔を上げた。
阿柏がいちばん
「先生」
阿柏が箸を止めた。
「今日、麓へ下りてもいいですか。塩と、それから、
「刃は、鍛冶に何と言う」
「打ち直してくださいと」
「それだけか」
阿柏は口を閉じ、椀の中を見た。
「先が丸くなって土に食い込まん、と言え。そう言えば向こうが決める。全部こっちで決めて頼むと、高くつく。それから」
「値切れよ」
三人が笑った。小鵲は、待っていた話が来たように身を乗り出した。
「先生、いくらまで値切っていいんですか」
「相手の言い値の八分だ。八分と言って、九分で手を打つ。初めから九分と言うと、言い値まで押し戻される」
小鵲が真剣に頷く横で、阿淵は粥を掬っていた。
「塩は、値切れません」
「なぜだ」
「先月、決まった値になったと、麓の子が言ってました。役所が決めたそうです」
楊文は椀を置いた。
塩の値が変わることには慣れている。役所が決めた、という言い方が耳に残った。
「じゃあ塩は言い値で買え。鋤だけ値切れ」
午後は堂の床板を張り替えた。
麓から祈祷や札の頼みが来るようになり、四人が食べ、少しずつ観を直す分は入るようになった。新しい板へ
腹も、長く屈んでいると内側が張る。去年の旅で塞がった傷が、寒い日や仕事の長い日に、こうして場所を知らせてくる。
板を合わせていると、阿柏が畑の道を走ってきた。
「先生。門に、人が」
「参拝か」
「いえ。たぶん、違います。ずっと立ってるんです。半刻くらい」
言い終えるなり、また走った。
門前に子供がいた。
小鵲より背が高く、十三か四ほど。荷はなく、衣は土を吸って元の色が分からない。袖口の糸が垂れ、
裸の右足の
固まった血に砂が混じり、踏むときは爪先へ体重を逃がしていた。楊文を見ると背を伸ばし、息を吸ってから口を開いた。
「入れてください。弟子に、してください」
楊文はしゃがんだ。
「これ、いつ切った」
「三日前です」
「洗ったか」
「川で」
「川で洗って、川で切ったのか」
子供は自分の足へ目を落とした。
楊文は立ち、門の内を指した。
「井戸が裏にある。先に足を洗え。話はそれからだ」
「入っていいんですか」
「足を洗うのに返事はいらん」
子供が跳ねるように入った。右足が地へ着いたときだけ、顔をしかめた。
名は
井戸端へ座らせ、水をかけながら聞いた。生まれは北で、国境まで二日ほどの村だという。
「ここまで、どれくらいかかった」
「十二日です。初めのうちは、荷車に乗せてもらいました。塩を運ぶ荷で。そこからは歩きです」
「道は誰に聞いた」
「途中で会った人に、南、南って。途中から、南だけだと分からないって言われて、山、と言うようにしました」
楊文は桶の水を替えた。
「なんで、うちに来た」
「山に
「それだけか」
阿禾は水の中で足を動かした。土が剥がれ、爪先から薄茶色に広がる。
「食えるって、聞いたんで」
楊文は笑った。
「正直でいい」
「嘘つくと、あとで困るんで」
傷の汚れを落とし、用意していた薬をつけて布を巻いた。自分でこしらえた薬だった。効き目について、あの男のような顔で言い切ることはまだできない。
「うちは何も出ない。飯と寝床だけだ。剣は教えるが、上手くなるとは限らん。掃除と畑と繕い物は、みんなでやる。それでいいなら、いろ」
「いいです」
「即答するな。少しは考えろ」
「考えました」
阿禾は顔を上げた。
「十二日かけて考えました」
楊文は布の端を収めた。
日暮れ前、小鵲が阿禾を連れて観を回った。
門のところで二人が止まり、小鵲がこちらを振り返る。楊文は道具を片づけて、そちらへ行った。
「これ、何ですか」
阿禾が伏せた板を指した。
「扁額だ」
「掛けないんですか」
「見りゃわかるだろ。割れてる」
「直らないんですか、これ」
「いや、直る」
「じゃあ、なんで」
楊文は裂けた木の縁を見た。
「掛ける場所が要る」
「門柱、ありますけど」
「場所ってのは、そういうことじゃない」
阿禾は分からぬ顔のまま、はいと言った。
「明日から掃除は門の外からだ。ここは踏むな」
「踏まないです」
立ち上がった阿禾が大きく外を回って門へ入ると、その足を見ていた小鵲も、同じだけ回って門柱の陰へ消えた。去年から毎日、跨いでいた子だった。
阿禾は椀へ顔を寄せ、初めは粥を見ていた。それから箸を動かし、汁は椀から
三杯目で、ようやく口が動き始めた。
道中、蛇を捕まえて焼いて食ったという話だった。小鵲が本当かと尋ね、どんな味かと重ねると、鶏、と即答した。
「頭を踏みます。踏まないと動くので」
小鵲の箸が落ちた。阿柏が飯が冷めると言いながら、阿禾の方へ身を寄せていた。
村は十五軒、麦と
阿柏が、兄弟は多いのかと聞いた。
「兄ちゃんが一人。あと妹が二人です。兄ちゃんは去年から兵隊に行ってるんで、兄ちゃんの分まで食っていいって、母ちゃんが」
「兄ちゃん、いつ帰ってくるんだ」
小鵲が尋ねた。
「どうかなあ」
阿禾は空いた椀の内側を掬った。
「村のやつ、誰も帰ってきてないからなあ。手紙も来ないし。兵隊って忙しいんですよ、きっと」
「何人行った」
楊文が聞いた。
「去年で、七人です。一昨年が四人。その前が三人」
箸を置いて、指を折った。
「役所が来て、この村は何人って決めるんです。籤で決めるんですけど、うちは兄ちゃんが行くって自分で言って。籤だと、うち、俺が当たったかもしれないんで」
「お前が」
「十三でも数のうちに入るんですよ、あそこ」
折った指を開き、阿禾は卓へ肘を寄せた。
「それより」
小鵲の方を向いた。
「うちのほう、いいのがあるんですよ。怪談」
阿禾は口元を少し引き締め、声を落とした。
「夜にね、軍が通るんです」
阿柏の箸も止まった。
「山の向こうの道を。姿は見えないんです。真っ暗だから。でも、音がする」
箸の先を卓へ下ろした。
「ざっ……ざっ……って」
二度、叩いた。
二度目が消えてからも、誰も次を促さなかった。厨では火の落ちた竈の奥が、ときおり小さく鳴っていた。
「
阿禾は箸を置いた。
「父ちゃんは、夜のうちに動く軍もあるんだって言うんですけど、婆ちゃんは、あれは人じゃないって言ってました。だから夜は雨戸閉めて、聞こえないふりするんです」
「その音は、どのくらい続くんだ」
阿淵が尋ねた。
「どうだろう。でも長いです。始まったら、寝るまで続いてます。朝には、いないです」
「何人くらいの音だ」
「分かんないです。数えたことないんで」
「見に行ったやつはいないのか」
阿柏が聞いた。
「一人いました。三年前に。爺さんが、酔って。帰ってきました。何も見なかったって。道に誰もいなかったって」
「でも、それから外に出なくなりました。去年の冬に死にました」
小鵲が、自分の後ろの戸を見た。
「そういえば、うちの婆ちゃん、去年死んだんですけどね。飴くれる婆ちゃんだったんですけど」
「うちのほう、人が死んだら役所の車が来るんです。車が来て、値を言って、銭くれるんです。みんな出します。葬式とかしなくていいんで、楽っちゃ楽なんですけど」
「親族で弔いもせずにか。持っていって、どうするんだ」
楊文の椀は、口元まで上がっていなかった。
「どうするんですかね。薬になるって言うやつと、お上がまとめて弔ってくれるって言うやつと、いて。婆ちゃんは薬の方だって言ってました。死ぬ前にですけど」
「墓は」
「ないです。木の札だけ、家に置くんです。名前書いて」
札は役所が渡すのだという。書式が決まり、番号が入っている。名前の欄はないので、家の者が裏へ書く。
「名前は呼んだら駄目なんですよ。呼ぶと死体が戻ってくるって、婆ちゃんが言ってたんで。婆ちゃん自分のこと言ってるとは思わなかったんでしょうけど」
母親が車の後ろで呼びかけ、父親に口を塞がれた話を、阿禾は付け足した。自分の口へ手を当ててみせ、それから五杯目の粥へ箸を伸ばした。
「明日って、剣、教えてもらえるんですか」
楊文は、飲まぬままの椀を置いた。
「箸の持ち方からだな」
「箸、持ててますけど」
「持ててない。親指が遊んでる」
阿禾が手を見ると、三人が笑った。入った頃に、皆同じことを言われていた。
「飯、足りたか」
「あと一杯いけます」
「食え。食ったら片付けろ。明日は早い」
夜、雨が降り出した。
弟子の房では阿禾が喋り、小鵲が笑っていた。阿柏が静かにしろと言った後も、何度か小声が漏れ、やがて軒の雨だけになった。
楊文は灯を点けたまま座っていた。
国境まで二日の村なら、兵に取られることも多いだろう。七人、四人、三人。あの子の折った指が目に残っていた。
便りを寄越さぬ人なら、自分も知っている。
半分掃くと飽きて、箒を放り出した。師匠に叱られた次の当番でも同じことをした。楊文が代わりに掃き終えたことが一度ある。翌日、長哥は気づいて笑い、麓で買ってきた飴を一つくれた。
代金にしては安かったが、その日は十分だった。
十五年前、楊文が十一のときに山を出た。師匠は止めず、楊文は門の内からその背を見送った。
一度も振り返らなかった。
何年かに一度、
悪徳役人を叩きのめした侠客が、名を聞かれても答えずに去った。そんな話を聞くと、長哥だと思った。だが、この五年ほどは、その手の話も来ない。
あの夜、山にいた者は、一人ずつ名を呼んで埋めた。
その中に長哥はいない。
いつか、ふらりと門をくぐるだろう。扁額がまだ地べたにあれば、真っ先にそれを笑うに違いない。だから直すのだと考えて、楊文は膝の上の手を見た。
それだけなら、もう掛けている。
便りのない相手が、もう一人いた。
南へ行く。当てはない。一年前、そう聞いたきりだった。
便りを寄越すような人ではなかった。
雨が屋根を打ち、樋からあふれている。裏山にも同じ雨が降っているはずだった。十五の土へ染み、牌の足元を濡らしている。
阿禾の村では、札は家の中にあるという。
雨の当たる土がない。
楊文は灯を消した。
翌日、昼前の一刻を稽古にした。
庭に四人を並べ、阿禾以外には、裏山の木を削った木刀を持たせた。阿禾は足の布を巻き替え、両手を下げて立っている。
「立ち方からだ」
「立ってますけど」
「立ててない」
足を肩幅に開かせ、膝を緩め、顎を引かせた。膝を直すと顎が上がり、顎へ指を当てると、今度は足が寄る。三巡して離れたところで、もう身体が揺れていた。
「動くな」
「動いてないです」
「揺れてるだろ」
「風です」
「そんな強い風はふいてないだろ」
三人が下を向いた。揃わなかった肩が、今は同じように揺れている。
昼休み、井戸端で手桶が落ちかけた。
小鵲の肘が縁へ当たって桶が傾く。その下へ阿禾の手が出て、柄を掴んだ。足元まで垂れた桶を、本人がいちばん驚いた顔で見ていた。
「今の、狙ったか」
「狙ってないです。手が勝手に」
「そうだろうな」
「……立ち方はなってないが、目はいいな」
阿禾は桶を縁へ戻し、小鵲の肘から離した。
褒めるのは一度でよかった。二度言えば、次は見せようとする。
午後の終わりに、軽い棒を持たせた。
全部の指で絞め殺すように握るので、楊文は二本の指で手の甲を叩いた。小指と薬指は締め、あとは添える。順に叩いて力を抜かせ、人差し指の付け根まで来ると、阿禾の口が開いた。
「軽くなりました。棒が、短くなったみたいです」
「そうだ。軽い方が速く振れる」
叩く手が、一度止まった。
自分の二本の指だった。この教え方を、後ろから見たことがある。そのとき自分も習っているとは、思わなかった。
楊文は手を戻し、次のところを直した。
夕日の中で、五つの影が順に棒を振った。短い影が早く動き、隣の影は少し遅れる。谷の水音が、ばらばらの拍子の下を流れていた。
数日たつと、買ってきた塩がもう少なくなった。
醤も、灯の油も底が近い。新しい椀が一つ増えた分は、戸棚のどこを開けても分かった。
楊文は背負い籠を担ぎ、阿禾を荷持ちに連れて下りた。足の傷は乾き始め、歩くたびに顔をしかめることもなくなっていた。
村が見える前から、飯を炊く匂いがした。
畑には人がいない。畦に
村へ入ると、道端に人が並んでいた。
市の日でもない。茶屋の腰掛けは埋まり、立ったまま椀を持つ男が、何度も道の向こうを見ていた。
塩屋で量ってもらい、言われた銭を払った。
「値切らないんですか」
阿禾が声を落とした。
「塩は上が値段を決めてるらしい。役所が決めた分は、値切ったところで動かん」
「じゃあ、何なら」
「それ以外のもんだ」
高札場に、新しい札があった。
北辺の防備に軍が街道を使う。妨げるな、
「なんて書いてあるんですか」
「軍が通るから、道を空けて、荷を出せとさ。車と、牛と、人だ」
「出したら、返ってくるんですか」
「車は返る。たぶんな」
阿禾は札を見上げたまま、口を閉じた。
塩屋の親父は、昨日から列が途切れないと言った。
北へ北へ、今日も昼過ぎに一隊来るらしい。升を均す手を動かしながら、親父の声は弾んでいた。
「北の方じゃ、もう戦は始まってるって話さ。まあ、ここらは関係ないがね。軍が通りゃ、飯も草鞋も売れる。うちの塩も、昨日は倍出た」
下の家の男は、荷車ごと取られたという。北の宿場まで運ばされ、銭は相場の半分。その話のところだけ、親父は声を落とした。
「まあ、御上のやることだ」
また升へ目を戻した。塩の白い山が削られ、口まで平らになった。
買い物を済ませる頃、子供らが駆け戻ってきた。
人垣が厚くなり、茶屋の前で皆が同じ方を向く。楊文は阿禾を連れ、脇の高くなったところへ上がった。
軍が来た。
先頭に騎馬が二騎、旗が一本。その後ろを、兵が四列で歩いてくる。
長い列だった。
足音は重なりながら、あちこちでずれていた。咳がし、隣へ何か言って笑う声がした。背中の鍋が水筒に当たり、荷車の軸が鳴る。その間へ馬の鼻息が混じり、埃が、どこまでも列の上をついてくる。
汗と革と脂の匂いがした。
阿柏より幾つか年上ほどの顔が、次々通った。道端の子へ手を振る兵が、隣から肘で小突かれ、また笑った。
列の切れ目には荷駄があった。
百姓の車が軍の車に混じっている。
威勢がいい。北もじきに片付く。人垣から声が出た。
誰かが手を叩くと、まばらな拍手が列に沿って起こった。
「兵隊って、毎日白い飯が食えるって本当ですか」
阿禾は列を見ていた。
「誰に聞いた」
「兄ちゃんです。募兵の人が村でそう言ってたって」
「……まあ、粟よりはいい飯だろうな」
「兄ちゃんも」
阿禾の口元が緩んだ。
「あんな格好、してるのかな」
通り過ぎる顔を、目で追っていた。騎馬が来れば首を上げ、徒歩の列へ戻ると、少し身を乗り出す。
「してるだろ。軍ってのは、揃いの格好をさせるもんだ」
「じゃあ、似合ってないだろうなあ。兄ちゃん、なで肩だから」
阿禾が笑った。
楊文は籠の紐を締め直した。
尾根へ出る手前で、一度だけ振り返った。
軍の去った道に、蹄と
埃はもう収まり、道の先は北へ白く続いていた。
十日ほど後の市には、一人で下りた。
買い手は文句を言った。それでも銭を出すので、売り手も声を落とさなかった。
乾物屋の前に人だかりがあった。
日に灼けた行商が
「——だから、北はもう心配いらねえって話よ」
楊文は足を緩めた。
「俺は先だっての朔日まで、北の宿場にいたがね。もう景気のいい話しか聞こえてこねえ。開戦からこっち、負け無しだ。負け無し。一度もだぜ」
輪の中から声が上がった。
「砦を三つ抜いたそうだ。ひと月でだ。向こうさんが陣を敷く前に着いちまうんだと。何しろ足が速い。昼夜兼行ってやつよ。夜も休まず進むんだからな、並みの軍にできる芸当じゃねえ」
そんなに強いのかと誰かが聞いた。
「強いなんてもんじゃねえらしい。なんでも、選りすぐりの一軍がいるんだと。そいつらが先頭で崩すと、あとはもう総崩れよ」
「あんた、見たのか」
「俺が見たわけじゃねえよ。荷駄の連中から聞いた話だ。だがな、荷駄ってのは嘘をつかねえ。負け戦の荷駄は口が重くなるもんだ。あいつら、みんな機嫌が良かった」
うちの倅も向こうにいる、と男が言った。
行商は、それなら安心だ、勝ち戦なら死人も出んと請け合った。聞いた男の眉間が緩んだ。春に出てから一度も便りがないという。
書く暇もないほど進んでいるのだろうと、行商が返した。
それもそうだと男が笑い、隣の者が肩を叩いた。
楊文は輪の後ろに立っていた。
初めは相槌を打っていたが、いつからか止まっていた。
夜も休まず進む。
十日前、道を通った兵の顔を思い出した。笑いながら歩く口、ずれた荷を直す腕。阿禾が誰かを探していた列には、咳も、鍋の鳴る音もあった。
人の足には際がある。
牛馬なら潰れる前に替える。だが、何日も歩いてきた者へ、次の夜だけ別の足をつけるわけにはいかない。
輪の中では、もう別の砦の話になっていた。
楊文は離れた。
一人の帰り道は早い。右肩が引き攣れるので途中で籠を担ぎ直し、紐の当たるところをずらすと、次の坂が少し楽になった。
夜、山に風が出た。
楊文は灯を持ち、戸締まりを見て回った。弟子の房は静かで、阿禾の
前庭へ出て、門を閉めた。
ざっ、ざっ。
卓を叩いた箸の音を、思い出した。
あれは阿禾の怪談だった。村では戸を閉め、聞こえないふりをする。市では、夜も休まず進む軍を、負け知らずと褒めていた。
楊文は閂をもう一度確かめた。木は溝へ深く収まっている。手を離し、灯を持ち直した。
風が山の上で鳴っていた。
北の空は
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