故淵の意

第37話 箒

 夜の明ける前に目が覚めた。

 戸の外はまだ暗く、誰の足音もしない。師匠に叩き起こされていた頃と同じ刻限に、身体だけが起きる支度を始めていた。

 楊文(ヤン・ウェン)は寝床を畳み、水を汲みに出た。

 谷から引いた樋が、闇の中で鳴っている。白澗(はくかん)の水を掌に掬うと、指の付け根から手首へ冷えが上がり、顔へ当てる頃には、眠気もすっかり退いた。樋の口に溜まった葉を一枚除く。流れる音が、いつもの高さへ戻った。

 桶を満たして厨(くりや)へ運ぶと、竈(かまど)の前に先客がいた。


 小鵲(シャオチュエ)が火吹き竹を咥えていた。

 去年の冬に来た、十二、三の子である。楊文に気づくと竹を外し、しゃがんだまま頭を下げた。

「おはようございます。先に起きてきました」

「起こしに行ってないぞ」

「いえ、あの、言っておこうと思って」


 竈を覗くと、薪が三本、揃って立っている。

「立てすぎだ。寝かせろ」

「寝かせると消えるんです。昨日も消えたし」

「消えるのは、寝かせたからじゃない。下に隙間がないからだ」

 楊文は屈み、真ん中の一本を引き出した。下に空いたところへ火が入り、黒かった薪の腹を舐めながら伸びてゆく。小鵲は口を開け、火吹き竹を膝の上に置いたまま見ていた。

「先生は、いつ覚えたんですか」

「お前くらいの時だ。三日でな」

 半年かかった。だが、今それを教えることもない。

「粥は俺がやる。米を出せ」

 小鵲の持ってきた米を量り、鍋へ入れようとしたところで、手がもう一椀分を掬っていた。四人になってからは誰も余りを気にしない。楊文も、米を戻さずに鍋へ落とした。


 堂の裏の物置から竹箒を取り、門前へ出た。柄の黒ずんだ握りが、今の自分の手より少し下にある。

 門前と、境内と、堂の周り。朝夕二度、年下の弟子が掃く。今なら小鵲の仕事だが、朝の門前だけは楊文が先に済ませていた。

 椎や櫟(くぬぎ)の葉が、一晩で地の色を隠している。表の葉を寄せると、昨日の雨を吸った葉が下に貼りついていた。箒(ほうき)を寝かせて剥がすたび、石の上に濡れた葉の形が残る。

 掃き終え、門の内を見た。

 柱も壁も、堂の屋根もある。その下の、いつも目が行くところに、扁額(へんがく)は伏せられたままだった。


 一年前、持ち上げかけて地へ戻した。

 板の端には土が寄り、裂けた木口が灰色に毛羽立っている。雨が入って乾くたび、割れ目の縁は少しずつ反った。裏から見ても、字を裂いたところが分かる。

 楊文はその周りの葉も退けた。

 門柱の上には、何も掛かっていなかった。


 朝の勤めには、手を洗い、口をすすいでから堂へ来る。

 小鵲が濡れた手を拭いているところへ、阿柏(アボー)と阿淵(アユエン)が入ってきた。楊文は三人が並ぶのを待ち、小鵲の曲がった襟を指した。襟元が直ると、壇の銅鈴をひと振りする。

 音の消えるのを待って、香を一本、額の前へ捧げた。香炉に立て、胸の前で両手を重ねる。三清の神々へ呼びかけ、心と言葉と身を清める短い句から唱え始めると、息の切れ目まで身体が覚えていた。

 ここで切れ、ここは続けろ。習ったときに直されたところを、十年、同じように唱えている。意味を尋ねるより先に口が覚え、そのまま今日まで来た。

 号も似たようなものだった。師匠が紙に書いて渡した二字を、一度も口にしていない。呼ぶ者もなく、紙は経の間に挟まれている。

 後ろの声が半拍ずつ遅れてついてくる。阿柏は覚えていた。阿淵は口だけ動き、小鵲は知っているところへ来ると急に声を張る。そのたび、阿柏の肘が隣へ出た。

 唱え言の終わりには、山の内にも麓(ふもと)にも病や災いがないよう祈る。楊文が膝を折ると、背後でも衣が擦れ、三度の礼の最後だけは、四人の頭が揃って下がった。師匠が三度だったから、自分も三度する。


 箒を肩へ担ぎ、裏山へ回った。

 墓は斜面に二段、上は歴代の分で、下に去年の十五が並ぶ。師匠が奥、小竹(シャオジュー)が端。土に馴染んだ牌の足元へ草が寄っていた。

 師匠の前で手を合わせると、谷の水音が木々の下から聞こえた。

 白澗という名はこの音から来ている。そう教えた声を思い出し、楊文は顔を上げた。


 朝餉(あさげ)は四人で囲んだ。

 阿柏がいちばん年嵩(としかさ)で、去年の秋に最初に来た。次が阿淵、その次が小鵲。三人とも裾が短くなり、卓へ屈むと、去年には見えなかった足首が出る。

「先生」

 阿柏が箸を止めた。

「今日、麓へ下りてもいいですか。塩と、それから、鋤(すき)の刃を打ち直しに」

「刃は、鍛冶に何と言う」

「打ち直してくださいと」

「それだけか」

 阿柏は口を閉じ、椀の中を見た。

「先が丸くなって土に食い込まん、と言え。そう言えば向こうが決める。全部こっちで決めて頼むと、高くつく。それから」


「値切れよ」

 三人が笑った。小鵲は、待っていた話が来たように身を乗り出した。

「先生、いくらまで値切っていいんですか」

「相手の言い値の八分だ。八分と言って、九分で手を打つ。初めから九分と言うと、言い値まで押し戻される」

 小鵲が真剣に頷く横で、阿淵は粥を掬っていた。

「塩は、値切れません」

「なぜだ」

「先月、決まった値になったと、麓の子が言ってました。役所が決めたそうです」

 楊文は椀を置いた。

 塩の値が変わることには慣れている。役所が決めた、という言い方が耳に残った。

「じゃあ塩は言い値で買え。鋤だけ値切れ」


 午後は堂の床板を張り替えた。

 麓から祈祷や札の頼みが来るようになり、四人が食べ、少しずつ観を直す分は入るようになった。新しい板へ鉋(かんな)をかけると、削り屑が長く巻いて膝に溜まる。同じ姿勢で押していると、右肩が引き攣れた。

 腹も、長く屈んでいると内側が張る。去年の旅で塞がった傷が、寒い日や仕事の長い日に、こうして場所を知らせてくる。

 板を合わせていると、阿柏が畑の道を走ってきた。

「先生。門に、人が」

「参拝か」

「いえ。たぶん、違います。ずっと立ってるんです。半刻くらい」

 言い終えるなり、また走った。


 門前に子供がいた。

 小鵲より背が高く、十三か四ほど。荷はなく、衣は土を吸って元の色が分からない。袖口の糸が垂れ、草鞋(わらじ)は左足にしかなかった。

 裸の右足の踵(かかと)に、傷がある。

 固まった血に砂が混じり、踏むときは爪先へ体重を逃がしていた。楊文を見ると背を伸ばし、息を吸ってから口を開いた。

「入れてください。弟子に、してください」


 楊文はしゃがんだ。

「これ、いつ切った」

「三日前です」

「洗ったか」

「川で」

「川で洗って、川で切ったのか」

 子供は自分の足へ目を落とした。

 楊文は立ち、門の内を指した。

「井戸が裏にある。先に足を洗え。話はそれからだ」

「入っていいんですか」

「足を洗うのに返事はいらん」

 子供が跳ねるように入った。右足が地へ着いたときだけ、顔をしかめた。


 名は阿禾(アフー)、十四歳だった。

 井戸端へ座らせ、水をかけながら聞いた。生まれは北で、国境まで二日ほどの村だという。

「ここまで、どれくらいかかった」

「十二日です。初めのうちは、荷車に乗せてもらいました。塩を運ぶ荷で。そこからは歩きです」

「道は誰に聞いた」

「途中で会った人に、南、南って。途中から、南だけだと分からないって言われて、山、と言うようにしました」

 楊文は桶の水を替えた。

「なんで、うちに来た」

「山に道観(どうかん)があるって、麓で聞いたので」

「それだけか」

 阿禾は水の中で足を動かした。土が剥がれ、爪先から薄茶色に広がる。

「食えるって、聞いたんで」

 楊文は笑った。

「正直でいい」

「嘘つくと、あとで困るんで」

 傷の汚れを落とし、用意していた薬をつけて布を巻いた。自分でこしらえた薬だった。効き目について、あの男のような顔で言い切ることはまだできない。

「うちは何も出ない。飯と寝床だけだ。剣は教えるが、上手くなるとは限らん。掃除と畑と繕い物は、みんなでやる。それでいいなら、いろ」

「いいです」

「即答するな。少しは考えろ」

「考えました」

 阿禾は顔を上げた。

「十二日かけて考えました」

 楊文は布の端を収めた。


 日暮れ前、小鵲が阿禾を連れて観を回った。

 門のところで二人が止まり、小鵲がこちらを振り返る。楊文は道具を片づけて、そちらへ行った。

「これ、何ですか」

 阿禾が伏せた板を指した。

「扁額だ」

「掛けないんですか」

「見りゃわかるだろ。割れてる」

「直らないんですか、これ」

「いや、直る」

「じゃあ、なんで」

 楊文は裂けた木の縁を見た。

「掛ける場所が要る」

「門柱、ありますけど」

「場所ってのは、そういうことじゃない」

 阿禾は分からぬ顔のまま、はいと言った。

「明日から掃除は門の外からだ。ここは踏むな」

「踏まないです」

 立ち上がった阿禾が大きく外を回って門へ入ると、その足を見ていた小鵲も、同じだけ回って門柱の陰へ消えた。去年から毎日、跨いでいた子だった。


 夕餉(ゆうげ)は五人になった。

 阿禾は椀へ顔を寄せ、初めは粥を見ていた。それから箸を動かし、汁は椀から啜(すす)った。食べるのは速いが、こぼした粒は一つずつ拾う。

 三杯目で、ようやく口が動き始めた。

 道中、蛇を捕まえて焼いて食ったという話だった。小鵲が本当かと尋ね、どんな味かと重ねると、鶏、と即答した。

「頭を踏みます。踏まないと動くので」

 小鵲の箸が落ちた。阿柏が飯が冷めると言いながら、阿禾の方へ身を寄せていた。

 村は十五軒、麦と粟(あわ)を作り、井戸が一つ。冬には雪が屋根まで来るという。

 阿柏が、兄弟は多いのかと聞いた。

「兄ちゃんが一人。あと妹が二人です。兄ちゃんは去年から兵隊に行ってるんで、兄ちゃんの分まで食っていいって、母ちゃんが」


「兄ちゃん、いつ帰ってくるんだ」

 小鵲が尋ねた。

「どうかなあ」

 阿禾は空いた椀の内側を掬った。

「村のやつ、誰も帰ってきてないからなあ。手紙も来ないし。兵隊って忙しいんですよ、きっと」

「何人行った」

 楊文が聞いた。

「去年で、七人です。一昨年が四人。その前が三人」

 箸を置いて、指を折った。

「役所が来て、この村は何人って決めるんです。籤で決めるんですけど、うちは兄ちゃんが行くって自分で言って。籤だと、うち、俺が当たったかもしれないんで」

「お前が」

「十三でも数のうちに入るんですよ、あそこ」

 折った指を開き、阿禾は卓へ肘を寄せた。

「それより」

 小鵲の方を向いた。

「うちのほう、いいのがあるんですよ。怪談」


 阿禾は口元を少し引き締め、声を落とした。

「夜にね、軍が通るんです」

 阿柏の箸も止まった。

「山の向こうの道を。姿は見えないんです。真っ暗だから。でも、音がする」

 箸の先を卓へ下ろした。

「ざっ……ざっ……って」

 二度、叩いた。

 二度目が消えてからも、誰も次を促さなかった。厨では火の落ちた竈の奥が、ときおり小さく鳴っていた。

「松明(たいまつ)もなし、声もなし、足音だけ」

 阿禾は箸を置いた。

「父ちゃんは、夜のうちに動く軍もあるんだって言うんですけど、婆ちゃんは、あれは人じゃないって言ってました。だから夜は雨戸閉めて、聞こえないふりするんです」

「その音は、どのくらい続くんだ」

 阿淵が尋ねた。

「どうだろう。でも長いです。始まったら、寝るまで続いてます。朝には、いないです」

「何人くらいの音だ」

「分かんないです。数えたことないんで」


「見に行ったやつはいないのか」

 阿柏が聞いた。

「一人いました。三年前に。爺さんが、酔って。帰ってきました。何も見なかったって。道に誰もいなかったって」


「でも、それから外に出なくなりました。去年の冬に死にました」

 小鵲が、自分の後ろの戸を見た。


「そういえば、うちの婆ちゃん、去年死んだんですけどね。飴くれる婆ちゃんだったんですけど」


「うちのほう、人が死んだら役所の車が来るんです。車が来て、値を言って、銭くれるんです。みんな出します。葬式とかしなくていいんで、楽っちゃ楽なんですけど」

「親族で弔いもせずにか。持っていって、どうするんだ」

 楊文の椀は、口元まで上がっていなかった。

「どうするんですかね。薬になるって言うやつと、お上がまとめて弔ってくれるって言うやつと、いて。婆ちゃんは薬の方だって言ってました。死ぬ前にですけど」

「墓は」

「ないです。木の札だけ、家に置くんです。名前書いて」

 札は役所が渡すのだという。書式が決まり、番号が入っている。名前の欄はないので、家の者が裏へ書く。

「名前は呼んだら駄目なんですよ。呼ぶと死体が戻ってくるって、婆ちゃんが言ってたんで。婆ちゃん自分のこと言ってるとは思わなかったんでしょうけど」

 母親が車の後ろで呼びかけ、父親に口を塞がれた話を、阿禾は付け足した。自分の口へ手を当ててみせ、それから五杯目の粥へ箸を伸ばした。

「明日って、剣、教えてもらえるんですか」

 楊文は、飲まぬままの椀を置いた。

「箸の持ち方からだな」

「箸、持ててますけど」

「持ててない。親指が遊んでる」

 阿禾が手を見ると、三人が笑った。入った頃に、皆同じことを言われていた。

「飯、足りたか」

「あと一杯いけます」

「食え。食ったら片付けろ。明日は早い」


 夜、雨が降り出した。

 弟子の房では阿禾が喋り、小鵲が笑っていた。阿柏が静かにしろと言った後も、何度か小声が漏れ、やがて軒の雨だけになった。

 楊文は灯を点けたまま座っていた。

 国境まで二日の村なら、兵に取られることも多いだろう。七人、四人、三人。あの子の折った指が目に残っていた。


 便りを寄越さぬ人なら、自分も知っている。


 長哥(チャンガー)は、箒を持つのが下手だった。

 半分掃くと飽きて、箒を放り出した。師匠に叱られた次の当番でも同じことをした。楊文が代わりに掃き終えたことが一度ある。翌日、長哥は気づいて笑い、麓で買ってきた飴を一つくれた。

 代金にしては安かったが、その日は十分だった。


 十五年前、楊文が十一のときに山を出た。師匠は止めず、楊文は門の内からその背を見送った。

 一度も振り返らなかった。


 何年かに一度、江湖(こうこ)の噂が届いた。

 悪徳役人を叩きのめした侠客が、名を聞かれても答えずに去った。そんな話を聞くと、長哥だと思った。だが、この五年ほどは、その手の話も来ない。

 あの夜、山にいた者は、一人ずつ名を呼んで埋めた。

 その中に長哥はいない。

 いつか、ふらりと門をくぐるだろう。扁額がまだ地べたにあれば、真っ先にそれを笑うに違いない。だから直すのだと考えて、楊文は膝の上の手を見た。

 それだけなら、もう掛けている。


 便りのない相手が、もう一人いた。

 南へ行く。当てはない。一年前、そう聞いたきりだった。

 便りを寄越すような人ではなかった。

 雨が屋根を打ち、樋からあふれている。裏山にも同じ雨が降っているはずだった。十五の土へ染み、牌の足元を濡らしている。

 阿禾の村では、札は家の中にあるという。

 雨の当たる土がない。

 楊文は灯を消した。


 翌日、昼前の一刻を稽古にした。

 庭に四人を並べ、阿禾以外には、裏山の木を削った木刀を持たせた。阿禾は足の布を巻き替え、両手を下げて立っている。

「立ち方からだ」

「立ってますけど」

「立ててない」

 足を肩幅に開かせ、膝を緩め、顎を引かせた。膝を直すと顎が上がり、顎へ指を当てると、今度は足が寄る。三巡して離れたところで、もう身体が揺れていた。

「動くな」

「動いてないです」

「揺れてるだろ」

「風です」

「そんな強い風はふいてないだろ」

 三人が下を向いた。揃わなかった肩が、今は同じように揺れている。


 昼休み、井戸端で手桶が落ちかけた。

 小鵲の肘が縁へ当たって桶が傾く。その下へ阿禾の手が出て、柄を掴んだ。足元まで垂れた桶を、本人がいちばん驚いた顔で見ていた。

「今の、狙ったか」

「狙ってないです。手が勝手に」

「そうだろうな」


「……立ち方はなってないが、目はいいな」

 阿禾は桶を縁へ戻し、小鵲の肘から離した。

 褒めるのは一度でよかった。二度言えば、次は見せようとする。


 午後の終わりに、軽い棒を持たせた。

 全部の指で絞め殺すように握るので、楊文は二本の指で手の甲を叩いた。小指と薬指は締め、あとは添える。順に叩いて力を抜かせ、人差し指の付け根まで来ると、阿禾の口が開いた。

「軽くなりました。棒が、短くなったみたいです」

「そうだ。軽い方が速く振れる」

 叩く手が、一度止まった。

 自分の二本の指だった。この教え方を、後ろから見たことがある。そのとき自分も習っているとは、思わなかった。

 楊文は手を戻し、次のところを直した。

 夕日の中で、五つの影が順に棒を振った。短い影が早く動き、隣の影は少し遅れる。谷の水音が、ばらばらの拍子の下を流れていた。


 数日たつと、買ってきた塩がもう少なくなった。

 醤も、灯の油も底が近い。新しい椀が一つ増えた分は、戸棚のどこを開けても分かった。

 楊文は背負い籠を担ぎ、阿禾を荷持ちに連れて下りた。足の傷は乾き始め、歩くたびに顔をしかめることもなくなっていた。

 村が見える前から、飯を炊く匂いがした。

 畑には人がいない。畦に鍬(くわ)が置かれ、垣の内では洗い物が風に揺れている。一軒二軒の竈ではなかった。まだ昼には早いのに、麦を炒る香ばしい匂いまで道へ出てきていた。

 村へ入ると、道端に人が並んでいた。

 市の日でもない。茶屋の腰掛けは埋まり、立ったまま椀を持つ男が、何度も道の向こうを見ていた。


 塩屋で量ってもらい、言われた銭を払った。

「値切らないんですか」

 阿禾が声を落とした。

「塩は上が値段を決めてるらしい。役所が決めた分は、値切ったところで動かん」

「じゃあ、何なら」

「それ以外のもんだ」

 高札場に、新しい札があった。

 北辺の防備に軍が街道を使う。妨げるな、荷駄(にだ)の徴発に応じよ。日付は五日前だった。

「なんて書いてあるんですか」

「軍が通るから、道を空けて、荷を出せとさ。車と、牛と、人だ」

「出したら、返ってくるんですか」

「車は返る。たぶんな」

 阿禾は札を見上げたまま、口を閉じた。


 塩屋の親父は、昨日から列が途切れないと言った。

 北へ北へ、今日も昼過ぎに一隊来るらしい。升を均す手を動かしながら、親父の声は弾んでいた。

「北の方じゃ、もう戦は始まってるって話さ。まあ、ここらは関係ないがね。軍が通りゃ、飯も草鞋も売れる。うちの塩も、昨日は倍出た」

 下の家の男は、荷車ごと取られたという。北の宿場まで運ばされ、銭は相場の半分。その話のところだけ、親父は声を落とした。

「まあ、御上のやることだ」

 また升へ目を戻した。塩の白い山が削られ、口まで平らになった。


 買い物を済ませる頃、子供らが駆け戻ってきた。

 人垣が厚くなり、茶屋の前で皆が同じ方を向く。楊文は阿禾を連れ、脇の高くなったところへ上がった。

 軍が来た。

 先頭に騎馬が二騎、旗が一本。その後ろを、兵が四列で歩いてくる。

 長い列だった。

 足音は重なりながら、あちこちでずれていた。咳がし、隣へ何か言って笑う声がした。背中の鍋が水筒に当たり、荷車の軸が鳴る。その間へ馬の鼻息が混じり、埃が、どこまでも列の上をついてくる。

 汗と革と脂の匂いがした。

 阿柏より幾つか年上ほどの顔が、次々通った。道端の子へ手を振る兵が、隣から肘で小突かれ、また笑った。


 列の切れ目には荷駄があった。

 百姓の車が軍の車に混じっている。轅(ながえ)に手を掛けた男は俯き、見物の顔を一つも見ずに歩いていた。

 威勢がいい。北もじきに片付く。人垣から声が出た。

 誰かが手を叩くと、まばらな拍手が列に沿って起こった。

「兵隊って、毎日白い飯が食えるって本当ですか」

 阿禾は列を見ていた。

「誰に聞いた」

「兄ちゃんです。募兵の人が村でそう言ってたって」

「……まあ、粟よりはいい飯だろうな」

「兄ちゃんも」

 阿禾の口元が緩んだ。

「あんな格好、してるのかな」

 通り過ぎる顔を、目で追っていた。騎馬が来れば首を上げ、徒歩の列へ戻ると、少し身を乗り出す。

「してるだろ。軍ってのは、揃いの格好をさせるもんだ」

「じゃあ、似合ってないだろうなあ。兄ちゃん、なで肩だから」

 阿禾が笑った。

 楊文は籠の紐を締め直した。


 尾根へ出る手前で、一度だけ振り返った。

 軍の去った道に、蹄と轍(わだち)と足跡が残っていた。深いもの、土の表を擦っただけのもの。車が脇へ寄ったところでは、草まで踏み倒されていた。

 埃はもう収まり、道の先は北へ白く続いていた。


 十日ほど後の市には、一人で下りた。

 筵(むしろ)を広げる場所が足りず、店が道へはみ出していた。北へ通う人足が増え、飯を売る者も、縄を売る者も声が大きい。塩の値がまた上がり、藁と麻縄も上がり、干し肉は倍になっていた。

 買い手は文句を言った。それでも銭を出すので、売り手も声を落とさなかった。

 乾物屋の前に人だかりがあった。

 日に灼けた行商が葛籠(つづら)を腰掛けにし、両手を動かして喋っていた。北から来た男だという。

「——だから、北はもう心配いらねえって話よ」

 楊文は足を緩めた。

「俺は先だっての朔日まで、北の宿場にいたがね。もう景気のいい話しか聞こえてこねえ。開戦からこっち、負け無しだ。負け無し。一度もだぜ」

 輪の中から声が上がった。

「砦を三つ抜いたそうだ。ひと月でだ。向こうさんが陣を敷く前に着いちまうんだと。何しろ足が速い。昼夜兼行ってやつよ。夜も休まず進むんだからな、並みの軍にできる芸当じゃねえ」

 そんなに強いのかと誰かが聞いた。

「強いなんてもんじゃねえらしい。なんでも、選りすぐりの一軍がいるんだと。そいつらが先頭で崩すと、あとはもう総崩れよ」

「あんた、見たのか」

「俺が見たわけじゃねえよ。荷駄の連中から聞いた話だ。だがな、荷駄ってのは嘘をつかねえ。負け戦の荷駄は口が重くなるもんだ。あいつら、みんな機嫌が良かった」


 うちの倅も向こうにいる、と男が言った。

 行商は、それなら安心だ、勝ち戦なら死人も出んと請け合った。聞いた男の眉間が緩んだ。春に出てから一度も便りがないという。

 書く暇もないほど進んでいるのだろうと、行商が返した。

 それもそうだと男が笑い、隣の者が肩を叩いた。

 楊文は輪の後ろに立っていた。

 初めは相槌を打っていたが、いつからか止まっていた。


 夜も休まず進む。

 十日前、道を通った兵の顔を思い出した。笑いながら歩く口、ずれた荷を直す腕。阿禾が誰かを探していた列には、咳も、鍋の鳴る音もあった。

 人の足には際がある。

 牛馬なら潰れる前に替える。だが、何日も歩いてきた者へ、次の夜だけ別の足をつけるわけにはいかない。

 輪の中では、もう別の砦の話になっていた。

 楊文は離れた。

 一人の帰り道は早い。右肩が引き攣れるので途中で籠を担ぎ直し、紐の当たるところをずらすと、次の坂が少し楽になった。


 夜、山に風が出た。

 楊文は灯を持ち、戸締まりを見て回った。弟子の房は静かで、阿禾の鼾(いびき)だけが戸の向こうから聞こえた。眠っても、あの子の声は遠慮がない。

 前庭へ出て、門を閉めた。

 閂(かんぬき)を落とした後も、門柱に手を置いていた。


 ざっ、ざっ。

 卓を叩いた箸の音を、思い出した。

 あれは阿禾の怪談だった。村では戸を閉め、聞こえないふりをする。市では、夜も休まず進む軍を、負け知らずと褒めていた。


 楊文は閂をもう一度確かめた。木は溝へ深く収まっている。手を離し、灯を持ち直した。

 風が山の上で鳴っていた。

 北の空は稜線(りょうせん)に切られ、その先は、ここからは見えなかった。

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