第39話 夜
徳旺の村を出てから、幾日か過ぎた。
川沿いの町へ戻る道を途中で外れ、
宿を発つ前には、自分の手首に三本の指を置いた。
人の脈を取るのと同じように指をずらし、少しずつ押すと、皮膚の奥からようやく拍が返ってくる。かつては触れたところへすぐに届き、旅の朝も、長く眠らぬ夜のあとも、変わることがなかった。
数息そのまま待ち、袖を下ろした。戸口で荷紐を肩へ掛け直すと、朝の風が首筋の汗を冷やした。
道中、薬草を売る老爺と行き合った。
石の上に籠を置き、峠の向こうの観から、去年の秋までは若い道士が買いに来ていたと話した。近頃は姿を見せず、代わりの者も来ないという。
「先生も、あっちへおいでかね」
「
「そうか。道士さんが来てくれると、こっちも助かるんだが」
老爺は薬草を分け、言った値より少ない銭を取った。沈曉が残りを差し出すと、籠を持ち上げてもう首を振っていた。
分かれ道へ着く頃には、西の尾根に日が掛かっていた。
道標の片方が根元から倒れ、裏返った板に土がこびりついている。
荷を下ろさずに引き返した。
分かれ道へ戻るまでに、谷の底から宵闇が上がってきた。
月のない夜だった。
星は出ていたが、山の端に近いものは梢へ紛れ、道には濡れた石の一面だけがときおり白く浮く。灯りの油を惜しみ、見えるところへ足を運んでゆくうちに、片側は斜面、もう片側は藪となった。
懐で符の紙が擦れた。
百年以上、歩くたびに聞いてきた音が、その夜は衣一枚を隔てた耳元にある。歩調を緩めれば紙も静まり、代わりに風が藪の葉を裏返してゆく。
足を置く先で小石が鳴り、それを拾う声はなかった。
最初に気づいたのは、足の裏だった。
土がわずかに震えている。片足へ体重を移すと、次の震えも同じ間を置いて靴底へ届き、立ち止まっている身体の方が、歩調を借りて揺れるようだった。
沈曉は道端へ寄った。藪の枝を押し分け、斜面から張り出した影に身を沈めると、地の下にあったものが、谷の奥から聞こえ始めた。
ざ、ざ、ざ、と土を踏んでくる。
足は多い。街道で行き合う軍なら、この近さにはもう咳や囁きが混じり、荷の軋みが耳につく。そのどれもが来ぬまま、足音だけが岩を伝って大きくなってゆく。
懐へ入れた指に、符の端が触れた。
沈曉は抜かずに待った。
闇の向こうに、白いものが連なっていた。
顔と、褪せた衣の襟だった。灯りを掲げる者はなく、四列とも五列ともつかぬ幅に並んで、道の縁まで埋めながら近づいてくる。遠くにあるうちは、白い切れ端を等しく並べた長い布が、谷底を引かれてくるように見えた。
近づいても、頭が弾まない。
足は動き、裾も揺れているのに、顔の高さだけが、見えぬ棚へ載せたように変わらなかった。
先の者が、沈曉の前を通った。
若い顔だった。開いた目に星が小さく映り、それが藪の枝に隠れるまで、一度も瞬きをしなかった。胸元に結んだ紐の下も膨らまない。すぐ後ろの者が同じところへ足を置き、また一人、その後へ続く。
継ぎの当たった麻の衣を着ていた。
肩の破れに別の布を当て、細かな針目で縁を押さえてある。星明かりに見える糸は、襟に近いところで少し曲がり、そこから縫い直されていた。
誰かが、この肩を膝に載せて縫ったのだろう。
その者は通り過ぎた。次の袖には継ぎがなく、次の者は裾が短い。衣は一人ずつ違っていても、進む速さも腕の振りも、前の者のあとをなぞっていた。
汗の匂いが来ない。
近くを幾人も通るほどに、土と、湿った紙を束ねたような匂いが低く溜まった。沈曉は唇を閉じ、舌の上まで冷えてくる息を浅く吸った。
藪の葉が一度、大きく鳴った。
列の端の顔が、こちらを向いた。
沈曉の指が、懐の中で止まる。若者は足を休めず、上半身だけを藪へ傾けたまま、一歩、二歩と進んでいる。こちらを捉えたように見えた目は枝の向こうを滑り、三歩目には肩も顔も元へ戻った。
足元には石も溝もなかった。
風の止んだあとで、後ろの一人も、同じ角度に傾いだ。
列は長かった。
沈曉は途中で数えるのをやめた。藪の枝を隔てた目の前で、名も知らぬ顔が次々に闇へ入り、後ろから来る白い襟に置き換わってゆく。
最後に、車らしい影が通った。
引く者も同じ歩調で、車輪が道の窪みへ沈んでも軸の音がしなかった。荷の形を見定める前に影は曲がり角へ消え、足音はしばらく岩の間に残ってから、遠ざかった。
沈曉は枝から手を離した。
押さえていた葉が戻り、頬に触れたとき、ようやく長く息を吐いた。
道へ出てから、小さく灯を点けた。
明かりを低くすると、踏み固められた土の窪みが重なって見えた。
しゃがんで、窪みの縁へ指を当てた。
浅い跡だった。隣も、その先も、同じだけ沈み、道端の柔らかな土にも、歩幅を変えた跡がない。灯を動かすにつれて、一つの型から押し出したような影が、端から端まで浮かび上がった。
徳旺の村では、二本の轍を見送った。
今夜は足跡が、暗い道の先を埋めていた。
立ち上がって星を仰ぐと、北の山並みの上に、見覚えのある星が並んでいる。列は、その下へ消えていった。
南へ戻る道に片足を向けたまま、灯の柄を握り直した。
懐には、渡せなかった薬がある。
灯を北へ向けた。
翌朝、宿場で粥を食べた。
北へ荷を運ぶ人足が一斉に出払ったそうで、軒下に並ぶ草鞋の多くは売れ残り、飯屋の長い腰掛けも空いていた。椀を置く音が、向かいの壁まで届いて戻る。
粥には生姜が多かった。細く刻んだものを噛むと、舌の奥から熱くなる。
「冷えるから」
主人の女房が、沈曉の箸先を見て言った。
「まだ、そういう季節でもないでしょう」
「そうなんだけどね。今年は井戸の水が冷たいんだよ。桶に汲んで置いといても、昼まで冷たいまま」
「なぜですか」
「さあね。でも、生姜を入れると、皆おかわりするんだよ」
差し出された杓子に、沈曉も椀を渡した。
二杯目を食べ終える頃には指先まで温まり、箸を置いてからも、しばらく空の椀を掌で包んでいた。戸口の外では秋の陽が水桶の縁を照らし、女房はその水へ手を入れるたび、前掛けで指を揉むように拭った。
宿場の外れに
観の門は閉じていた。
脇へ回ると塀が一箇所崩れ、新しく割れた石の面に朝日が白く当たっている。大きな石が二つ、外へ転がり、その間を踏み抜いたように草が倒れていた。
沈曉は崩れ口から中へ入った。
木々の葉が頭上で擦れ、庭には掃き寄せた落ち葉が山になっている。
堂の扉は開いていた。
卓には椀が四つあり、三つは空、もう一つには冷えた粥が残っている。表面の膜を破って箸が斜めに沈み、その向こうの腰掛けは、卓から大きく離れていた。
土間に散った数粒の米を避けて奥へ進むと、裏手の斜面に墓標が見えた。新しい土が、幾筋もその間を横切っている。
墓が開いていた。
穴の縁はまっすぐに切られ、掘り出した土も、墓ごとに同じ側へ積んである。一つだけ土が途中まで戻されていたが、残りは底が見え、どこにも
沈曉は膝を折り、穴の縁を指でなぞった。湿った土の下へ、刃の通った線が続いている。逃げる足が塀際の草を踏み荒らしていたのに、こちらでは、隣の墓を崩すほど掘り急いだ跡もない。
墓標の脇に銅の香炉が倒れ、こぼれた灰の隣に、小さな布包みが落ちていた。ほどけた端から玉の飾りが覗いている。拾い上げても、底には土しか付いていなかった。
字のまだ読める墓が開かれ、苔が刻みを埋めた古い墓は、そのまま並んでいる。どれを開けるか、先に決めていたような境があった。
沈曉は玉を包み直し、墓標の陰へ置いた。
井戸端に、一人の道士が座っていた。
若い男だった。膝に
「観の者ですか」
男は口を開け、いったん閉じてから答えた。
「はい……いえ。朝になって残っていたのは、僕だけです。皆、夜のうちに。叫び声を聞いて、隠れました。隠れて、何も、見ていません。朝になって、出てきたら」
墓の方へ顔を向けた。
「
沈曉は荷を下ろし、男の前へ屈んだ。
「お手を」
鍬から離れぬ手へ指を添えると、ようやく握りが緩んだ。脈は皮膚のすぐ下で速く打ち、手首に触れているあいだも、男の目は墓の方へ戻ってゆく。
鍬を井戸の脇へ立てかけ、
「役人には、届けられましたか」
「届けに行きました。取り合ってもらえませんでした。近頃、こういう話が多いから、と」
「届けは、書かれましたか」
「書かされました」
「数を書く欄があるんです。何体、と。分からないと言ったら、数えてこいと言われて。……数えました。掘られている穴を、一つずつ。十一です」
「十一と書いて、判をもらって、それきりです」
「師伯の名は、と訊いたんです。書くところがないから、要らないと」
男は水を見下ろした。しばらくそのままでいて、最後に残った分を飲んだ。
「その鍬は」
「埋め直そうと思って。でも、埋めるものがないんです」
一つだけ土の戻された穴へ、男の目が行った。
「戻してもよろしいかと。穴が開いたままでは、雨が入り、隣まで崩れますので」
男は頷き、空の柄杓を井戸の縁へ置いた。鍬の柄に触れた手は、今度はそれを膝へ抱えず、立ち上がる支えにした。
「先生は、どちらから」
「南から参りました」
「南にも、ありますか。こういうことは」
沈曉は、鍬の先についた土を見た。
徳旺は庭先の戸板から運ばれ、ここでは、すでに土へ入った者たちが取り出されている。あの車にあった二つの
「まだ、分かりません」
男は柄を握り直し、それ以上は尋ねなかった。
塀の崩れ口へ戻ると、墓域で鍬が土を擦る音がした。
沈曉は一度、そちらを振り返った。若い道士が穴の縁に立ち、一掻きずつ土を戻している。背後の古い墓には草が残り、最近の墓ばかりが、明るい土を晒していた。
武や術を修めた者が、幾代にもわたって葬られている。
そのような斜面を、もう一つ知っていた。
山並みは北へ幾重にも重なり、その向こうに
北へ向いて四日目の夜、再び足音を聞いた。
昼に渡ろうとした橋が落ち、川上へ迂回したため、日暮れまでに山を抜けられなかった。道はしだいに狭まり、いまは荷車が一台やっと通れる
細い月が、向かいの
曲がり角の先で足音がしたとき、沈曉は来た道へ戻りかけた。そちらの岩の間からも、同じ拍が返ってきた。
岩壁に背をつけ、荷を足元へ下ろした。
背中へ沁みる冷たさの中で、符の束を指先で繰る。十一枚。旅に使った分を補わずにきた束は、二つに分ければ、どちらも薄かった。
後ろの足音が近づくのをやめた。
隘路の入り口で、その場を踏み続けている。沈曉が顔を向けても、足音は前へ進まず、岩の間に同じ響きを返した。
前の闇から、一人が出てきた。
革の胸当てには擦れた筋が幾つも走り、縁を留める紐が一本切れている。その上の、開いた襟から覗く首には深い傷があった。乾いた切り口を月が照らすほど近づいても、そこから息が漏れる音はしなかった。
胸当てを着けた身体が、腕を上げた。
沈曉は符を打った。
白い紙に朱の一筆。去年、
腕が止まらない。
横へ身を流し、留める符を肩へ当てると、朱の線が滲み、濡れた紙から色だけを吸い取られるように薄れた。気の通り道を断つ三枚目も、同じように足元へ沈んだ。
沈曉は剣を抜いた。
首を狙った刃は、傷の下へ入った。
肉を裂く感触が手に返り、相手の顔が横へ傾く。その傾いた顔のまま腕が降りてきたので、沈曉は刃を引き、岩に肩を擦って
血が噴かない。
痛みに縮む身体も、切っ先から逃げる目もなく、斬った手応えだけが右の掌に残っていた。
二体目が、最初の一体と谷側の間から腕を伸ばした。沈曉は手首を外へ払い、返す刃でその腕を断った。落ちた腕は地に当たって一度跳ね、指が砂を掻き始める。
片腕の骸が、半歩寄った。
残った手は、さっきと同じところへ届いた。身を引いた分を追っているのではない。失った腕の長さを、足で埋めていた。
沈曉は剣を立て、前へ出た指を刃で受けた。
下がった背に、別の手が掛かった。
後ろの入り口から三体目が入り、左肩を掴んでいた。握る指は、一度食い込んだ強さのまま緩まない。引けば衣ごと肉が持ち上がり、息を吐いて沈めても、締めつける力がそこまでついてくる。
沈曉は左の掌を相手の胸へ当てた。
日の当たらない石へ触れたようだった。
脈を探すときなら、深いところへ指を入れれば何かが返る。ここには、その奥へ辿る手掛かりがない。冷えた胸の下で、自分の掌だけが熱かった。
肩の痛みが増し、沈曉は探る手を離した。
剣の柄を指の付け根へ打ち込み、関節の開いた隙間から肩を抜くと、荷を靴先で押し、岩の窪みへ身体を入れた。後ろの骸との間に、張り出した石が挟まる。
前からさらに二体、後ろからも一体が入ってきた。
六体の身体が狭い道を塞ぎ、手の届くものから腕を差し入れてくる。沈曉は石の出っ張りへ背を寄せたまま、身幅ほどのところで刃を返した。
前の足が、右から出た。
隣も、後ろも同じ足を動かし、間を置かずに腕が伸びる。胸当てのある者も、道服の裾を引く者も、同じところで肩を沈めた。
沈曉が切っ先をわずかに外しても、誘いには乗ってこない。伸びた手を払うたび、次の手が同じ高さへ来る。
左手で抜いた符を四枚、触れた腕と胸へ続けて当てた。どれも紙のまま滑り、足で押し退けた先で、月明かりに白く散った。
頬を爪がかすめた。
流れた血が顎へ届き、自分の息だけが温かく、襟の中へ返ってくる。息を深く入れる間が取れず、剣を返す右の指に痺れが上がってきた。
握り直した手が、震えた。
小指と薬指を締め、残りを添える。
柄を握り潰そうとしていた力が抜け、切っ先が元の高さへ戻った。次の腕を受けたときには、肩まで響いていた衝撃が、肘で収まった。
琴が鳴った。
どこか遠くから来る、澄んだ音だった。
谷を渡る風に紛れず、一つずつ長さを揃えて届く。短い調べの二音目で、目の前の腕が止まった。踏み出しかけた足も、沈曉の袖を掴みかけた指も、その形のまま動かなくなる。
剣の向こうで、六つの顔が回った。
同じ速さで首を向け、同じところで止め、それから身体をそちらへ直してゆく。沈曉は刃を上げたまま、胸当ての背が遠ざかるのを見た。
片腕の一体も、前へ向き直った。
地に落ちた腕の脇を通ったが、拾うために屈みはしなかった。残った手を揺らし、前の
後ろで足踏みをしていた列も、引き返してゆく。
岩を挟んで二方から聞こえていた音は、遠のくにつれて一つの拍に重なった。琴はまだ鳴っている。どこへ耳を向けても、谷から来るように聞こえた。
沈曉は剣を下ろせなかった。
前の闇と、後ろの闇を見比べる。足音が聞こえなくなっても、もう一度手が出てくる幅だけ、身体を岩へ寄せていた。
切っ先が石へ触れた。
その小さな音で右手を見下ろし、ようやく剣を引いた。
道に、腕が一本残っていた。
指は動かず、砂を掻いたところが爪の先に細く窪んでいる。沈曉は刃を拭い、
谷底では、水が鳴っていた。
岩際に土の溜まったところを探し、鞘の先で石を起こす。小さな石を一つずつ除き、乾いた上の土を掻くと、下には指でほぐせる層があった。そこへ窪みを広げ、腕を両手で持ち上げた。
袖の残ったところを下へ敷き、曲がっていた指を土の内へ収める。
土を戻しても形が浮くので、もう少し深く掘り直した。掌で押さえて均し、上へ石を三つ並べると、そこだけが月の下で低く盛り上がった。
名は分からない。書く板もない。
爪の内の土を払い、沈曉は荷の傍らへ戻った。
琴は、いつの間にかやんでいた。
耳には短い調べが残っている。稽古の初めに習う類の曲で、一音を置いてから次へ移る間も、繰り返すたびに揃っていた。
誰かが弾いていたのだろう。こちらが岩に追い詰められ、剣を握り直しているあいだ、その者はどこかへ座り、
頬の血を拭って薬を当て、荷を岩際へ寄せた。残った符を数えると、四枚あった。折れた角を伸ばして懐へ戻し、剣を膝に置いて座った。
目を閉じると、足元の水音が近くなる。
閉じずに、夜の明けるのを待った。
東の空が白むにつれ、岩の肌が一枚ずつ闇から離れていった。
沈曉は左の襟を緩め、肩を見た。五つの指の痕が青黒く残り、浅く触れたはずのところまで、同じ濃さに沈んでいる。布を戻すと擦れて痛んだ。
十年使ってきた符の白い切れ端が、道に落ちていた。
風に裏返る一枚を見てから、荷を右へ寄せて担いだ。左肩に紐が触れぬ位置を探り、息を整えて立つ。
三歩進み、一度振り返った。
朝の光に、石が三つ並んでいる。岩の崩れたこの道では、そこだけ土が動かされたことも、離れると分かりにくかった。
沈曉は北へ向いた。
昨夜の調べを、初めの音から辿ってみる。短い曲は最後まで思い出せた。弾く手の形まで、覚えていた。
あれを、誰かがあの者に教えている。
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