第36話 看板
雨漏りするところへ器を置くと、次の雨には別のところへ雫が落ちた。瓦を直し、井戸を浚い、物置の柱に添え木をする。一つ済ませて道具を仕舞いかけると、
夕方になると、庭に薬の匂いがした。
腹の傷は塞がっていたが、屈んで働いた日は、楊文が立つ途中で手を当てた。
「苦ぇ」
「はい」
「あんた、わざと苦くしてるだろ」
「効きます」
楊文は顔をしかめ、残りを飲んだ。返された椀の底には、薬の
沈曉は、朝すぐには起きられなくなった。
前の日の疲れが手足に残り、目を開けてから身体を起こすまで、屋根の明るくなってゆくところを見ていた。外で道具の音がし始めると、ようやく足を地へ下ろした。
水を汲みに行った。
桶を満たすと、引くたびに左腕の傷が張る。汲む量を減らし、二度に分けて運ぶようになった。
ある朝、井戸端に桶が二つ並んでいた。
小さい方へ手を掛けると、持ち上げた底から、朝露が一筋落ちた。
誰も、そのことに触れなかった。
髪の墨色も、一日を保ちにくくなっていた。
朝には隠れたはずの白が、日暮れに襟を緩める頃、また覗いている。楊文は顔を合わせると、そこへ目をやった。
「三本目だ」
「はい」
別の朝には、窓から入る光へ少し顔を向けさせた。
「……四本目」
「はい」
「増えたな」
「増えました」
抜くかとは、もう聞かなかった。沈曉が髪を結い直す間に、楊文は戸を開け、外の仕事へ戻っていった。
路銀の勘定は、楊文がしていた。
まけようかと言われて、いえ結構ですと答える男に財布は持たせられない。そう言われて以来、沈曉は必要なものを告げ、楊文が銭を出している。
この半月は、出すばかりだった。
釘と材木を買い、大工に前金を渡した。夜、楊文は残った銭を地へ並べ、端から数えた。数え終えると、何か小さく呟き、紐を締める。
沈曉が薬草を売りに行くと言った晩も、その銭が並んでいた。
「あんたは、座ってろ」
楊文は顔を上げずに言い、銭を一枚拾った。
半月で、二人にできる修繕はおおかた済んだ。
残る梁や柱は大工の仕事だった。楊文は
「一年、かかるかもしれん」
直した屋根を見ながら言った。
「二年かも」
沈曉は頷いた。
庭には乾かしかけの板が並び、その端を、掃いたばかりの箒目が囲んでいた。
麓の町へ、二人で下りた。
中秋の市が立っていた。通りには菓子の屋台が並び、餡の名を呼ぶ声と、
大工との話を終えると、楊文は人波へ戻った。
二つ買った。
値切らずに銭を置き、受け取った包みの片方を、沈曉へ差し出した。
「ん」
両手で受け取った。
楊文はもう自分の紙を開いている。沈曉も端をほどき、歩きながら一口齧った。皮が薄く崩れ、餡の甘みが舌の奥へ広がる。
以前、火の傍らで、半分に割って渡された菓子を思い出した。
今は、手の中に一つある。
こぼれた皮を紙で受け、次のひと口を少し小さくした。隣で楊文が食べ終え、紙を畳むまで、沈曉はゆっくり食べていた。
その夜は、町外れで火を焚いた。
宿代は残っていたが、楊文が火を熾したいと言った。沈曉が符を使うと、楊文は火のついた枝を受け取り、組んだ薪の下へ差し入れた。
月が出ていた。
中秋の明かりが草を白く照らし、火の届かぬところまで地面が見えた。二人の影は焔に揺れる部分を離れて、長く、静かに伸びている。
「明日、分かれ道だな」
楊文は月を見ていた。
「はい」
「あんたは、どうするんだ」
「……歩きます」
「どこへ」
「決めていません」
楊文が頷いた。
「あんたらしいな」
それ以上は尋ねなかった。
沈曉も月を仰いだ。村を出るとき、いつも行き先を告げずに済ませてきた。荷を負い、戸を閉め、まだ人の起きぬ道へ出る。今度は、どちらへ行くかを隣の男が聞いている。
「腹が減ったら、来い」
月へ向いた顔のまま、楊文が言った。
「白澗観の飯は、うまくねえけどな」
沈曉は答えなかった。
膝に置いた手を開き、また揃えた。
薪が爆ぜた。
火の粉が月明かりへ上がり、途中で消えた。
「そういや」
楊文が言った。
「あの銭」
沈曉の指が止まった。
「師匠から貰ったって話、聞いてから考えてた」
楊文はこちらを見た。
「牢の木箱から出した時、あんた、剣より先にそっちに手を伸ばした。……今のあんたには、何に見えるんだ」
沈曉は懐へ手を入れた。
包みを開くと、銭が一枚、布の折り目の内に収まっている。取り上げて火にかざした。縁は光り、文字のあった面は、指を動かしても暗いままだった。
「……古い銭です」
楊文はそれを長く見た。
それから、月へ顔を戻した。
「そうか」
沈曉は銭を掌へ置いた。
聞かれることは、もうなかった。包んで懐へ戻せば、今夜はここまでになる。開いた布の角に指を掛け、そのまま、閉じずにいた。
「十年前、丹房で、私は声を上げました」
楊文が振り向いた。
「生涯で一度だけ、大きくした声です」
薪の赤いところが崩れた。
「その時に言ったのは、白澗観の庭で、お話しした句です」
沈曉は銭の縁を指で押さえた。
「ただ、あのままではありません。そのまま借りて言うのでは、足りませんでした」
掌から少し浮かせ、言葉を続けた。
「あの晩、私が口にしたのは、こちらです」
火の上で、細い枝が鳴った。
「薪は火のためにあり、火は人のためにある。人は、そのいずれでもない」
「……それは、分かる」
「訳したのは、私です。師は、こうは仰らなかった」
指の間に挟んだ銭が、わずかに傾いた。
「借りた言葉の、字を換えただけです。私は、自分の言葉を、一つも持っていませんでした」
楊文が薪を一本、火へ足した。
「そりゃ、違うだろ」
薪から手を離して言った。
「その爺さんが言ったのを、あんたが自分の言葉に直して、十年抱えて、百三十四人殺して、それでも捨てなかったんだ。……そこまで来たら、あんたの言葉だ」
沈曉は答えなかった。
答えられなかった。
喉の奥に、幾度も言葉を止めてきた感触があった。唇を閉じれば、またいつものように呑み込める。今夜は口をわずかに開いたまま、息が通るのを待った。
楊文は火を見ていた。
「爺さんの号は、なんて言うんだ」
半月前、言いかけてやめた問いだった。
沈曉は、その号を口にしなかった。名を聞けば、この男は覚える。覚えれば、
いつも組み立ててきた理屈が、今夜も先に出てきた。
目の前の楊文は、待っていた。
「……いつか、お話しします」
言ってから、沈曉は自分の声を聞いた。
楊文の口元が少し緩んだ。火の陰へ戻ると、もうよく見えなかった。
沈曉は布の角を重ね、銭を包み直した。
戻す手つきを、楊文は見ていない。見ていないふりを、していた。
夜が更けると、楊文は白澗観の話を始めた。
弟子の集め方、銭の作り方、師匠の位牌を置く場所。指を折り、言い忘れたことを思い出すと、いったん開いて初めから数えた。
「まず、屋根だ」
「はい」
「それから、位牌の間だ。位牌は、まだ作ってねえ。字を彫れる奴を探さねえと」
「はい」
「あんた、彫れるか」
「彫ったことは、ありません」
「じゃあ、駄目だな」
楊文は笑った。
沈曉は火を見ていた。できる仕事を一つ探しかけ、また膝へ手を置いた。楊文の話は、返事を求めずに続いていた。
沈曉は薬箱を開けた。
傷薬、腹の薬、熱冷ましを取り分け、紙へ使い方を書いた。墨が乾くまで火に近づけすぎぬよう膝に広げ、包みごとに畳んだ。
「なんだ、それは」
「置いていきます」
「いらねえよ」
「腹の傷は、まだ完全ではありません」
楊文は返しかけた手を止め、包みを受け取った。
「……字が、綺麗だな」
紙を少し傾けた。
「読みやすい」
沈曉は薬箱を閉じた。楊文は折り目を元どおりに揃え、自分の荷の上へ置いた。
寝る前に、肩の傷も確かめた。
裂けたところは閉じていたが、衣が当たると楊文は僅かに顔をしかめた。沈曉は布を替え、腕を動かさせてから結んだ。
「明日、早く出るぞ」
楊文は横になった。
「はい」
「返事だけは、いつも早いな」
やがて
沈曉は火の番をした。細い薪を寄せ、灰に塞がれたところを開ける。明るくなるたび、眠る男の襟元と、掛けた衣から出た手が見えた。
手当てをした傷が、この身体には残っている。
指を置けば、どこを縫ったか分かる。これから先、その跡を自分の見ぬところで、男は身につけて歩く。
沈曉は薪を足し、月が傾くまでそこにいた。
朝、楊文は身を起こすと、腹が減ったと言った。
沈曉が粥を炊き、楊文が二杯、沈曉が一杯食べた。器を洗う手へ水が渡され、洗い終えると、火を消すために残りが使われた。
荷をまとめ、街道へ出た。
刈り跡の田から白い霧が立っていた。空は高く、道の土に残る夜の湿りが、足の裏へ柔らかい。
楊文が先に歩き出し、沈曉が続いた。
半町ほどで、先の歩が緩んだ。その場所で足音が揃い、二人はそのまま進んだ。
半刻ほど歩くと、古い立て札が見えた。
風雨で字は薄れていたが、右は白澗観の方へ上る道、左は南へ続く街道と分かった。二人は札の前で止まった。
霧の底から、
道の脇に、細い桃の木があった。実の季節は過ぎ、葉も色を失いかけている。その枝先に、二輪だけ、白い花が開いていた。
狂い咲きだった。
朝の光が薄い花弁を透かし、枝よりも明るく浮かせている。沈曉は顔を上げ、それを見た。
楊文が荷を担ぎ直した。
右の道を見、左へ目を移す。沈曉は何か言おうとしたが、言葉になる前に、楊文の声がした。
「なあ」
顔は山へ向いていた。
「門派を建て直すって話だがな」
「はい」
「屋根を直して、位牌を作って、弟子を集める。……それは、まあ、なんとかなる」
「はい」
「一つ、どうにもならんことがある」
沈曉は待った。
「看板だ」
楊文が言った。
「山門の
「掛け直すことは」
「できねえ」
すぐに返ってきた。
「割れた字を掛けとくのは、死んだ奴の名を、半分だけ書いとくのと同じだ」
沈曉は、伏せてきた板を思った。
「新しく作る。板はある。裏の椎を、去年の風で一本倒した。まだ寝かせてあるはずだ。彫るのは、麓の大工に頼めばいい」
楊文の足が小石に触れた。道の端へ転がり、草に入って止まった。
「けど、字を書ける奴が、いねえんだ」
「あなたが、お書きになれば」
「俺の字は、見たろう」
「拝見しました」
「読めりゃいい、って字だ。あんなもんを山門に掛けたら、師匠に笑われる」
楊文は少し笑った。
「……いや。師匠の字も、下手だったけどな。下手なくせに、書くのだけは俺にやらせなかった」
風が桃の枝を動かした。
「棠梨村で、あんた、地面に字を書いたことがある」
沈曉は、荷の紐へ添えた指を緩めた。
「
楊文は山を見ていた。
「あれを、俺は覚えてる。土の上の字なのに、消すのが惜しかった」
「消えました」
「消えた。次の日には、跡もなかった」
「土に書いたものは、そうなります」
「そうだろうな」
楊文は頷いた。
「昨日の晩の、包み紙もそうだ。薬の名と、飲む刻限と、あと一行、なんか書いてただろう」
「湯の温さのことです」
「それだ。……俺は、あれを取っとくぞ」
「捨てて構いません」
「捨てねえよ」
楊文が息を吸った。
「字の綺麗な道士を、一人」
山へ向いた顔を、戻さずにいた。
「客分に、雇いてえんだが」
桃の枝が揺れた。
沈曉は、その横顔を見た。
断る言葉なら、幾つもあった。罪人であること。この男の門派を殺した知識を持っていたこと。墓の前で、まだ名乗れずにいること。
どれも、正しい。
十年、彼はその正しさで、誰にも何も言わずに去ってきた。
彼は、口を開いた。開いて、閉じた。
言うべき言葉が、今日も見つからない。
見つからないまま、何かが口から出た。
「……考えておく」
自分の口の端が動いた。沈曉は、それを止めなかった。
楊文がこちらを向いた。
目を丸くし、それから頬が緩んだ。声を立てずに笑い始め、肩が揺れる。腹へ手を当てても、その笑いは収まらなかった。
「痛みますか」
「痛え」
楊文は笑いながら言った。
「あんた、いま」
「はい」
「……いや」
手を振り、顔を少し伏せた。
笑いを収めると、また荷を肩へ引き上げた。
「麓の村に、小僧が一人いる」
紐を直しながら言った。
「十六か、十七だ。去年から、剣を教えろってうるさかった。門派が潰れたと言ったら、じゃあ建て直すまで待つ、と言いやがった」
「待っておられるのですね」
「待たれてる」
楊文は右の道へ足を向けた。
「面倒なもんだぞ、待たれるってのは。こっちの都合なんぞ、一つも聞きゃしねえ」
沈曉は答えなかった。
楊文は片手を挙げた。
それだけで、何も言わずに歩き出した。
背中が山道を上っていく。
観へ戻れば、この男は
背中が道の曲がりへ入るところで、沈曉は深く頭を下げた。
顔を上げたときには、もう見えなかった。
左の道へ向き直った。
霧が薄れ、刈られた田の向こうに、次の村の屋根が見え始めている。足を出すと、その音に重なるものがなかった。
一歩、二歩。
三歩目で、頬へ何か触れた。
足を止める間に、白いものが肩を掠め、袖を伝って落ちていった。
桃の花びらだった。
道の土の上に、薄い白がある。
沈曉は長く、それを見下ろしていた。四十年前、杯へ落ちた花を指で掬った若い将軍がいた。あの男の手は覚えているのに、その後の花びらを、どこへやったのか思い出せない。
荷が前へずれぬよう押さえ、ゆっくり身を屈めた。
花びらを拾った。
掌に載せると、湿りがわずかに伝わった。指で押せば破れ、明日には縁から色が変わるだろう。沈曉は懐の包みを開き、銭の脇へ、折れぬように置いた。
布の角を、軽く重ねた。
道は南へ続いていた。
行き先は決めていない。荷を直して歩き出し、十歩ほど進んだところで、沈曉は振り返った。
山道は木立に隠れ、その上に
しばらくそこを見てから、また歩き出した。懐へ置いた掌の下で、包みは、いつもより少しだけ厚かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます