第35話 分袂

 白澗観(はくかんかん)の山門が見えたのは、三日目の昼だった。

 樹々の間から瓦の端が現れ、近づくにつれて、柱も、その向こうの堂の屋根も見えてくる。火の通った跡はなかった。人のいたときと同じ形で、山の緑の中に立っていた。

 楊文(ヤン・ウェン)は門へ手を掛けた。

 押すと、戸の下で葉が擦れた。重なったものを少しずつ押し退けながら、門が内へ開いてゆく。沈曉(シェン・シャオ)は半歩後ろに立ち、その隙間から、草の伸びた石畳を見た。


 扁額(へんがく)が落ちていた。

 門柱の内側に伏せられ、片方の端が葉に埋まっている。楊文は屈んで葉を払い、両手を差し入れた。持ち上がった板の裏から土が落ち、返しかけたところで、その手が止まった。

 「白」の字を斜めに裂いて、割れ目が走っていた。

 木の裂けた縁は雨に洗われ、毛羽立ったまま灰色になっている。楊文は両側を支え直し、もう一度、そっと地へ伏せた。

「……師匠が、書いたやつだ」

 手を離してから言った。

「下手くそだって、みんなで笑ってた」

 沈曉は、返す間に見えた字を思い浮かべた。払いが大きく、次の画へ急いだところには墨が溜まっていた。整える前に腕が動く、書いた者の息遣いが残る字だった。

 楊文は立ち上がり、庭へ入った。


 落葉が足首に触れた。

 上の葉は踏めば砕け、下の葉は湿って石に貼りついている。その二つの音を引いて堂の裏へ回ると、楊文は物置を開け、竹箒を一本持ち出した。

 大人が持つには、少し短い柄だった。

 握り込まれて黒ずんだところが、楊文の手より下にある。前にも、その低い跡を見た。小竹(シャオジュー)の箒(ほうき)だった。

 楊文は庭の隅へ行き、掃き始めた。

 朝と夕、二度。門前と境内と、堂の周り。この観では、号をもらう前の少年がそれを受け持っていた。

 葉が箒の先で裏返り、湿った腹を見せながら端へ寄ってゆく。


 沈曉は門の内で荷を下ろした。

 手伝おうかという言葉を出さぬうちに、楊文は次のところへ移っていた。屈んで葉を寄せたとき、左手が一度、腹へ行く。その手を離し、また柄を握った。

 沈曉は堂の裏へ回った。

 物置の壁際に、もう一本、竹箒があった。穂についた古い屑を落とし、庭の反対側へ持っていった。

 二つの箒の音がした。

 楊文は目を上げ、沈曉の手元を一度見てから、自分の足元へ戻した。日が傾いても、葉の下からはまた葉が出た。肩の布が引かれるたび持ち方を変え、沈曉も左腕を休めながら、少しずつ石畳を広げていった。

 掃き終える頃には、門の影が堂の前まで届いていた。

 楊文は箒を持ったまま庭の端を見た。向こう側まで、何も遮るものがない。そこを風が通り、寄せた葉の山の表だけを揺らしていった。

 夜は堂の雨の入らぬところへ荷を置き、二人とも早く横になった。


 翌朝、裏山へ上った。

 かつて暗いうちに水を提げて通った径に、夏草が張り出している。楊文の足が草を分けると、露が衣へ移り、後を歩く沈曉の膝にも冷たく触れた。

 朝靄の下で、谷川が鳴っていた。

 この観の主は、その音を聴く者という号を持っていた。水は今も墓地の下をめぐり、石に触れるたび、低く途切れぬ音を立てている。

 十五の墓が、草の中にあった。

 土の盛り上がりは雨に馴染み、伸びた草が隣の墓との間を埋めかけていた。楊文は端から膝をつき、根元を掴んで抜いた。湿った土を振り落として脇へ積み、次の株に手を掛ける。

 沈曉は、境の石の外に立っていた。


 以前は、手伝いを断られても土を運んだ。

 あのとき楊文は、傍らにいる者の手が何を知っているかを知らなかった。今は、土を運んだその手で、知識を閉じ込めていた一粒まで解いている。

 沈曉は石へ目を下ろし、足を動かさなかった。

 墓の形が一つずつ草から現れてゆくのを、外から見ていた。


 楊文はいちばん端の墓に座った。

 線香に火を点け、土へ立てる。風のない朝で、煙は細く真上へ上がっていった。

「師匠」

 声が届いた。

「仇は、討ちました」

 楊文は膝に手を置いている。

「玉雲観(ぎょくうんかん)の焼け跡でした。李慕言(リー・ムーイェン)って男です。二十五でした。……俺と、同い年でした」

 立てた香の先が白くなった。

「なんでこんなことになったのかも、分かりました。俺の口からは、うまく言えません。……ただ、あんたたちを殺した理由が、あったんです。理由があったから、余計に、腹が立ちます」

 そこで口を閉じた。

 煙が上がる。膝の上の手は動かず、次の言葉まで、谷川の音が聞こえていた。

「俺が、斬りました」

 楊文は言った。

「一太刀でした」

 やがて立ち、次の墓へ移った。


 周敬(ジョウ・ジン)の前では、長く座った。

「師兄(しけい)」

 沈曉の耳に届いたのは、その呼びかけだけだった。後は声が低く、ときおり口元が緩むのが見えた。何か言い添え、笑い、それから膝へ顔を下げた。

 一つずつ、名を呼んだ。

 座り、話し、立ち上がる。沈曉は草の露が乾いてゆくのを見ながら、その声の届くところに立ち続けていた。

 最後は、小さな墓だった。

 号のない少年の前に、楊文は誰よりも長くいた。何を話したかは聞こえなかった。立つときに膝を払い、袖を顔へ当てた。その袖を下ろしてから、こちらを振り返った。


 境の石を挟んで、目が合った。

 沈曉は、動かなかった。

 楊文は墓地の内に立ち、しばらくこちらを見ていた。

「あんたも、来いよ」

 沈曉の足は、その場に残った。

「言ってねえんだ」

 楊文は墓の方へ顔を向けた。

「あんたのことは、一言も言ってねえ。名前も、何をした人かも。……俺の中でも、まだ片付いてねえからだ。片付いてねえもんを、こいつらに預けるわけにいかねえ」

 向き直った。

「けど、隣に立たせないのは、違う」


 沈曉は石を見た。

 土から出た丸い背に、露が一粒残っている。ここからが墓だと楊文が言った、あの石だった。

 足を上げた。

 境を越えた。


 十五の墓の前に、並んで立った。

 楊文は先に燃え尽きた香を継ぎ、手についた灰を払った。草を抜かれた土の上に、煙が十五、まっすぐ上がっている。

 沈曉は、口を開かなかった。

 名乗る言葉も、詫びる言葉も浮かんだ。浮かぶたび、まだ片付いていないという楊文の声を聞いた。

 深く、頭を下げた。

 下げたまま、長くいた。目の下では自分の足の影が土に落ち、香の匂いがそこへ下りてくる。上げるまでに、しばらくかかった。

 楊文は何も言わず、香をもう一本、手に取った。


 周敬の墓標の前に、紙があった。

 石に押さえられ、端だけが土から浮いている。楊文が屈んで石を退けると、雨に打たれた紙が、折れ目のまま持ち上がった。

 写経の手本だった。

 弟子たちが罰の写経に使った、周敬の字である。滲んだ墨の中にも筆の返しが残り、読める字と、もう輪郭を失った字が、同じ行に並んでいた。

 ここを離れたときには、なかったものだった。

 誰かが持ってきた。麓(ふもと)の者か、観へ通ったことのある者か。楊文は長くその紙を見てから、破れかけた端を指で支え、元のところへ下ろした。石を戻すときも、字に掛かる位置を少しずらした。

 谷川の音が続いている。

 名を書き添えた者はいなかった。あの字を手元に置き、この山へ運んできた誰かが、二人のほかにもいた。


 夕方、庭へ戻ると、昨日掃いたところに葉が落ちていた。

 拾えば両手に収まるほどの数だった。石畳が見えるぶん、一枚ずつの影がはっきりしている。楊文は堂の縁に腰を下ろし、箒を置いた物置の方へ目をやった。

 沈曉も、その少し脇へ座った。

 腰を下ろすのに、右手を石へつかなければならなかった。

 楊文は見ていない。見ていないふりの角度で、物置の方を向いていた。

 日が西の稜線(りょうせん)へ沈むと、庭の土に小さな火を起こした。堂の縁から離したその火の傍らへ移り、二人で夜気を避けた。

「続きを」

 楊文が言った。

「聞かせてくれるんだろう」

「はい」

 沈曉は庭を見渡した。

 かつて毎朝掃いた玉雲観の庭にも、掃き終える頃には、どこかに葉が落ちていた。

「祭酒(さいしゅ)を継ぐまでの話を、いたします」


 望曉(ワンシャオ)と名乗って、数十年が過ぎた。

 経を修め、務めを受け持ち、若い弟子の手に筆を持たせるようになった。尋ねられれば答え、判断を求められれば言葉を返す。その後で師のところへ行くと、いつも、まだ尋ねずにいたことがあると気づいた。

「けれど、師は、いつも私より一歩、遠い場所におりました」

 沈曉は火へ手を寄せた。

「学ぶべきことの多くを、私はもう修めておりました。それでも、隔たりは埋まりませんでした。……あの人は、私よりずっと遠くを見ておりました」

「遠くって、どこだ」

「天です」

 楊文の目が火へ下りた。

「あの人はその頃、既に、この世の理を越えた場所に片足をかけていたのだと思います。……私が気づいたのは、あの人が去る、少し前でした」


 秋の朝だった。

 祭酒の間へ呼ばれ、いつもの座に膝をついた。開いた戸の向こうで銀杏が色づき、青い葉の間に、黄色いものが透けていた。

「お前に、渡すものがある」

 師は懐から銭を出した。

 縁が磨り減り、模様も浅くなっていたが、傾けると、擦れたところに明かりが走った。その頃はまだ、光にかざせば年号が読めた。

 差し出した掌へ、銭が置かれた。

「これは儂が若い頃から持っておる」

 師の指は、銭に添えられたままだった。

「お前が長く生きるなら、いつか読めなくなるだろう。……読めなくなった時、お前は、自分が人でなくなっていることに気づかぬかもしれん」

 沈曉はそこで息を継いだ。

 火の中で、細い枝が折れた。

「その時は、これを見よ。見て、人であったことを、思い出せ」


 楊文は動かなかった。

 やがて目を伏せ、自分の膝へ手を戻した。

「あんたが、あの銭を大事にしてる理由が」

 その手を見ながら言った。

「分かった気がする」

「頂いた時は、意味が深くは分かりませんでした。……分かったのは、ずっと後です」

 沈曉は懐へ手を入れなかった。布を隔てて、銭のあるところだけが衣から少し浮いている。


「あの人は、その日、もう一つ言葉を残しました」

 火の上へ、煙が細く伸びていた。

「人を照らす者は燈(ともしび)、燈を養う者は薪(たきぎ)。人は、燈に非(あら)ず、薪に非ず」

 いつもの声で言った。

 楊文は聞き終え、そのまま口を開かなかった。沈曉も言葉を足さず、二人の間を水音が通っていた。

「この言葉を、私は忘れませんでした」

 沈曉は続けた。

「忘れなかったからこそ、あの夜、私は剣を振るいました」

 楊文の顎が少し上がった。

 唇が動きかけたが、声は出なかった。火の脇にあった枝を取り、崩れた薪を内へ寄せた。


「その日の夕刻」

 沈曉は、戸の外の銀杏を思い出した。

「師は、境内の中央に座を組みました。……支度は、何もありませんでした。いつものように座り、いつものように、目を閉じただけです」

 低い日に、黄色い葉が金のように透けていた。

 風が通ると一枚、二枚と枝を離れ、師の肩や膝にも落ちた。衣へかかった葉はそのままで、師の手は膝の上に置かれていた。

 観の者たちが遠巻きに集まった。

 誰かの衣擦れが止むと、葉の落ちる音まで聞こえそうだった。

「消えた、のか」

「はい」

 沈曉は答えた。

「風が、一度、強く吹きました。……吹き終えた後には、座っていた場所に、何も残っておりませんでした」


 葉が庭を渡った。

 その向こうに、師の衣があるはずだった。目を据えても、地に落ちた葉の間に、人ひとりの座っていた空白が見えるだけだった。

 木の葉は、そこを避けて積もっていた。

 先ほどまで膝のあったところへ、次の風が一枚を運んだ。また一枚が入り、やがて、どこに座っていたのか分からなくなった。

 その間、誰も近づかなかった。

「泣かなかったのか」

 楊文が尋ねた。

 沈曉は、空いていた場所へ目を置くように、火の脇を見た。

「泣きませんでした。……悲しむべき別れだとは、思わなかったのです。あの人は、望んだ場所へ辿り着きました。それを見送ることに、悲しみは似合わないと思いました」

「あんたらしいな」

 楊文の口元が、わずかに緩んだ。

「その、爺さんは」

 そこで止めた。

 沈曉が顔を上げると、楊文は続きを待っていた。やがて視線を下ろし、枝を地に置いた。


「その日から、玉雲観の祭酒は、私になりました」

 沈曉は火へ目を戻した。

「多くの弟子を迎え、多くの弟子を送り出し、観を守り続けました。……けれど、私は、一人も直弟子を取りませんでした」

 楊文がこちらを見た。

「師のように、誰か一人を選んで、その者だけにすべてを注ぐことを、私はしなかったのです」

「なんでだ」

「師が私に注いだものは、あまりに大きなものでした」

 火から手を引き、膝へ置いた。

「あの重さを、私が他の誰かに同じように注げるとは、思えませんでした。中途半端に選び、中途半端に注げば、選ばれなかった者にも、選ばれた者にも、傷が残ります。……それで、誰も選びませんでした」

 焔が傾き、膝の指の影が揺れた。

「代わりに、私はすべての弟子に、等しく接しました。……深くは、踏み込まずに」

「一人も、いなかったのか」

 楊文は尋ねた。

「あんたの手元を、盗み見てた奴とかは」

 沈曉の指が動いた。

「――一人、おりました」

 戸口の陰にあった顔を、思い出していた。

「幼い頃から、私の手元を、戸の陰から見ていた子です。……気づいておりました。気づいていて、何もしませんでした」

「なんで」

「教えれば」

 言葉を切ってから、目を下ろした。

「その子は、私の形になります。師が、私にそうしたように。……それをその子に望んでよいのか、私には分かりませんでした」


 戸の方へ目を向けると、子供は隠れた。

 また筆へ目を戻すと、いつか同じところから見ていた。呼べば、すぐ来られる距離だった。

「今なら、分かります」

 沈曉は膝の手を見た。

「教えるべきでした。……教えなかったことが、あの子の十年を、どれほど空白にしたのか。今なら、分かるのです」

 楊文は、口を開かなかった。

 火の向こうに、その手が見えている。土を運び、剣を持ち、墓の前で香を立てた手が、今は膝に置かれていた。

 あの子の名を、二人とも今夜は呼ばなかった。


「私は」

 薪の表が、薄く白くなっていた。

「今も、誰かを直弟子として迎えることを、考えたことがありません。……これから先も、そうするつもりはありません」

「なんでだ」

「もう、迷いたくないのです」

 沈曉は答えた。

「教えるべきか、教えざるべきか。……あの迷いを、もう一度、繰り返したくありません」


 楊文は沈曉の顔を見てから、薪へ手を伸ばした。

 一本を掴み、持ち上げたところで止まる。火へは渡さず、膝の横へ置いた。

 燠(おき)が、赤いまま沈んでいく。

 どちらも動かなかった。

 谷川の音がしていた。その音に耳を澄ました人たちは裏山に眠り、掃いた庭には、また葉が落ちている。


 空に星が見えた。

 沈曉は懐から包みを取り出し、布の角を開いた。銭が一枚、火の残る明かりを受けている。指の腹を文字のあったところへ通すと、擦り減った面が、わずかに皮膚へ引っ掛かった。

 母の手を離れた日も、師の手からこれを受けた日も、今夜はもう、自分だけの知る話ではなかった。

 銭を包み直し、懐へ戻した。

 楊文は、薪を足さなかった。

 燃え残る燠に手をかざし、二人は、水の音を聞いていた。

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