第34話 罪咎

 白澗観(はくかんかん)へは、山伝いに三日かかる。

 裴松(ペイ・ソン)と別れた日の午後、二人は街道を離れ、北の尾根へ向かった。歩くほどに道は細り、草の穂が衣の裾を擦るようになる。楊文(ヤン・ウェン)は先へ立ち、枝が低くかかるところで手を上げ、沈曉(シェン・シャオ)が通るまで押さえていた。

 ほとんど口を利かなかった。

 枝を離す音の後に、また足音が続く。沈曉も話しかけず、土から石へ、石から落葉へと変わる道を歩いた。谷を渡る鳥の声が、ときおり二人の間へ入ってきた。

 言葉が戻ったのは、日が落ち、火を起こしてからだった。


 初日の野営は、渓流のほとりにした。

 薄暮の残る水面が、石に当たるところだけ白くほどけている。沈曉が薪を寄せると、向かいで楊文が川魚の串を返した。皮に細かな泡が浮き、滴った脂が燠(おき)に触れて、短く鳴った。

「あんた」

 串を少し火から離した。

「聞いていいか」

「はい」

「ずっと、気になってたんだが」

 楊文は焼けた側を確かめた。

「不老不死ってのは、どうやったらなれるんだ」

 沈曉は、薪を寄せる手を止めた。

「あんた、人の命で作った丹は使ってねえんだろう。……ここまで一緒に来て、そのくらいは分かった。あんたは、あれを自分の身にも使ってねえ」

「修行で、なりました」

 楊文は魚へ目を戻し、しばらくして、串を地に立てた。

「修行、で」

「はい」

「どんな修行だ」


 水音が、火の向こうから届いている。

 沈曉は答えを探した。師の名を伏せ、過ごした山を伏せてしまえば、いつものように短く済む話だった。膝へ戻した手には、まだ墓を掘ったときの土が爪の際に残っている。

「長い、話になります」

「構わねえ。道のりは、あと二日ある」

 楊文が魚を一本、差し出した。

 串を受け取ると、指に熱が伝わった。節の細い指だった。生まれつき肉が薄く、握れば骨の形が出る。沈曉は魚へ息を吹きかけ、その手を膝の上へ下ろした。


「私の生まれは、貧しい村でした」

 話し始めると、楊文の手も止まった。

「北の、山間の村です。田は少なく、痩せていて、作物は年によって、まるで実りませんでした。……その年も、実りませんでした」

 火の中で薪が割れた。

「私が、七つの年です」


 兄が二人、妹が一人いた。

 父は日雇いで木を伐り、母は機を織った。家の中にいると筬(おさ)の音が聞こえ、外から戻ってきても、まだ同じ音がしていた。その音の続く家で、冬を越すための食い扶持が足りなくなった。

 冬の初め、母に手を引かれて山を上った。

 麓(ふもと)を出て二刻ほど歩き、山門へ続く石段の下へ着いた頃には、母の手がすっかり冷えていた。

 母は、何も言わなかった。

 言わずに、彼の襟元を直した。重なりの揃った襟へ二度、三度と指を通し、最後に胸のところを掌で撫でた。それから待っていた道士へ、彼の手を渡した。

 離れてゆく指が、少し震えていた。

「陳霖(チェン・リン)、と申します」

 母が初めて口を開いたのは、そのときだった。

「この子の名です。……どうか、よろしくお願いいたします」

 深く頭を下げた。

 下げた頭を、彼は長く見ていた。

 丸くなった背が、山を下りていくのを見ていた。

 振り返らなかった。

 連れて帰るのが怖かったのかもしれない。そう考えるようになった頃には、母に尋ねることはもうできなかった。


「泣かなかったのか」

 楊文の声に、沈曉は顔を上げた。

「泣きませんでした。……母が帰ってしまったと、あの時、どこまで分かっていたのか。手を引かれるままに、歩いていました」

 魚を一口、食べた。冷ましすぎた皮の下には、まだ温かな身があった。


 石段は、三百と六段あった。

「七つの子供が、あれを独りで上ったのか」

「独りでは、ありません。手を引かれていました」

「手を引かれて、な」

 楊文は串を持つ手を下ろした。

 百段ほどで息が上がった。前へ引かれる手についてゆけず、握られた指が少し伸びると、若い道士が歩を緩めた。

「途中で、一度、休みました」

 沈曉は続けた。

「振り返ると、麓の村が小さく見えました。……煙が、幾筋か上がっていました。夕餉(ゆうげ)の支度をする家の、竈(かまど)の煙です。あの中の一筋が、私の家のものだったはずです」

 谷は藍色に沈みかけ、屋根の形が、山の襞(ひだ)と見分けにくくなっていた。煙だけが白く残り、上がる途中で風に折れて、山の陰へ流れてゆく。

「見ていて何を思ったのかは、もう覚えていません。ただ、その景色だけは覚えています」

「上りきった時は」

「振り返りませんでした」

「なんでだ」

「……上を、見ていたからです」

 沈曉の口元が緩んだ。

「境内の向こうに、大きな堂が見えました。屋根の反りが、美しかった。……その屋根を見上げて、私は道士の袖を引いたのです。あれは何ですか、と」

 朱の柱が奥へ並び、暮れ残る空に軒の端が反っていた。暗くなりかけた境内からは、幾つもの風鐸(ふうたく)の音がした。

「聞いたのか。初日から」

「はい」

「あんたらしくねえな」

「今とは、違う子供でした」


 その夜は、雑用をする子供らの房に入った。

 自分を入れて五人、ほかは一つか二つ年上だった。朝になれば水を汲み、竈の火を見、庭を掃く。経を読む声は遠くの堂から聞こえ、彼の手元には濡れた桶か、煤(すす)のついた薪か、箒(ほうき)の柄があった。

「道理で、な」

 楊文が焚き火へ目をやった。

「あんた、火の世話が妙にうまい。薪の足し方に迷いがねえ。火が細る半歩前に、手が動いてる。……最初の仕事だったわけだ」

 沈曉は、今も火の脇へ寄せていた小枝を見た。細いところは手前に、太いものは奥に揃えてある。

 頷き、一本を燠の上へ置いた。

「水汲みは、いちばん重い仕事でした」


 夜明け前の井戸には、薄氷が張った。

 桶を落とすと割れた氷が縁へ寄り、水を引き上げる縄に冷えが伝ってくる。天秤棒を担いで歩くうち、肩より先に指の感覚がなくなった。握っているつもりの手が緩み、水が片方へ寄って、身体ごと引かれる。

 転ぶたび、汲み直した。

 膝の濡れたところが冷え、掌の皮が破れ、房へ戻って襟を開くと、棒の当たるところだけ赤かった。

「兄弟子たちには、笑われました。亀の子でも、もっと速く歩くと」

「あんた、それで腐ったのか」

「いいえ」

 沈曉は首を振った。

「言い返しました。亀の子は、水を運びません、と」

 楊文が小さく噴き出した。

「それで」

「余計に、笑われました」

 火の向こうで、楊文が口元を手の甲で擦っている。

「悪い笑いではありませんでした。……その日から、房の兄弟子たちに、亀、と呼ばれるようになりました」

「けど、あんた」

 楊文は串を地に置いた。

「棠梨村(とうりそん)じゃ、毎朝、誰より早く起きて水を汲んでたろう。天秤棒で、二往復。……嫌いなんじゃなかったのか」

 沈曉は、指の間で串を少し回した。

「……いつからか、嫌いでは、なくなりました」

 川音を聞きながら、魚の残りを食べた。楊文もそれ以上尋ねず、骨を外していた。


「力の要らない仕事も、一つだけ回ってきました」

 串を置いてから、沈曉は話を継いだ。

「兄弟子たちの写経の、墨を磨る仕事です。硯(すずり)に水を落とし、墨を立てて、同じ速さで回し続ける。……単調な仕事を、他の者は嫌がりました。私は、嫌いではありませんでした」

 硯へ向けていた顔を少し上げると、筆の先が見えた。

 墨を磨りながらその動きを追い、筆が紙を離れた後の形を覚えた。兄弟子が一行を終える頃、彼も頭の中でその一行をなぞり終えていた。

 ある日、余った紙の端へ経の一節を書いた。

 磨り残しの墨と、穂の割れた古筆だった。誰もいない昼下がり、筆の先を指で揃え、息を止めて下ろした。墨が紙へ染み、指の動いたとおりに線が伸びてゆく。

「紙の上に、黒い線が生まれます」

 沈曉は膝に指を置いた。

「生まれた線が、乾いて、動かなくなる。……その静かさに、私は見入りました」


 字は拙かったが、形は整っていた。

 見つけた兄弟子が紙を持ち上げ、そのまま師伯(しはく)のところへ行った。呼ばれて立ったとき、彼は墨のついた指を衣に隠した。習ってもいない字を勝手に書いたことを、叱られるのだと思った。

 師伯はその手を見、紙を畳むと、ついてくるように言った。

「それが、師との、初めての出会いでした」

 楊文が顔を上げた。

「どんな人だったんだ」

「静かな方でした」


 祭酒(さいしゅ)の間は広かった。

 壁沿いの棚には経典の巻物が並び、香の煙がゆっくり上がっていた。戸口から座の前まで歩く間、足の裏が板につく音ばかり気になった。

「私を見て、しばらく何も言いませんでした。ただ、私の手を取って、掌を見ました」

 乾いた、少し冷たい掌だった。墨のついた小さな手を受け、指を一本ずつ開かせ、手首へ触れた。

「それから、私の目を見て、こう尋ねました。……水は好きか、と」

「水」

「はい。……妙な問いだと、その時は思いました。答えました。桶に汲む水は、嫌いです、と」

 沈曉は火の方へ目を下げた。

「師は、笑いました。あの人が私の前で笑ったのは、それが最初だったかもしれません」

 好きなものは何だと、次に尋ねられた。

「字を書くのが好きです、と答えました。なぜ、と問われて、私はうまく答えられませんでした。墨の匂いが好きだとか、筆の運びが面白いとか、そういう理由ではなかったのです」

 膝に置いた指を、少し動かした。

「何もなかった場所に、何かが立ち上がっていく。……それが、好きだったのだと思います」

 楊文が薪を動かした。黒くなった木口の下から、赤いところが現れた。

「師は、しばらく私を見ていました。見てから、師伯に言いました。この子は、しばらく儂が預かる、と」

 水汲みをしなくてよくなると聞いて、彼は喜んだ。その顔を見た師が、もう一度笑った。そちらの顔まで、思い出せた。


 翌朝、石段の下へ連れて行かれた。

 三百と六段。霧が上の方を隠し、見えるところだけでも、顔を上げなければ先を辿れなかった。

「上り下りを、十度。休まず、続けなさい」

「訳を、尋ねたのか」

「いいえ。……訊いても答えは返らないだろうと、子供心に分かったのです」

 初日は、二度上ったところで膝が崩れた。

 石へ手をついても、息ばかりが喉を擦り、身体が上がらない。目の前の段が白くなり、その中に、師の衣の裾だけが見えていた。

「立てるまで、待つ」

「待ったのか」

「はい。……急かしもせず、案じる素振りも見せず。ただ、立てるまで、そこに立っていました」


 やがて三度を終えられるようになり、四度になり、五度になった。

 日の出前に下へ立ち、上りきると向きを変えて下りる。息を吸う間に足を置き、吐く長さを次の段へ延ばす。霧が晴れる頃には石の縁が日に光り、最初は冷たかった掌も、手をつけば汗で滑った。

 幾月かを過ごすうち、身体の内に、息を通せる道があると分かり始めた。

 暗い廊下で壁をなぞるように、吸うたび少し先へ触れられる。昨日は行き止まりだったところに、今朝は指一本ぶんの隙間がある。その先へ息を送ると、肩に入っていた力が抜け、もう一段、足が上がった。

「きつかったろう」

「はい」

 沈曉は答えた。

「幾度も、逃げ出したいと思いました。……一度だけ、愚痴を言いました。なぜ私だけ、これほど厳しいのですか、と」

「なんて、返ってきたんだ」

 その声は、今もよく覚えていた。

「――お前の体は、脆い。脆いまま歳月を重ねれば、この修行の半ばで朽ちる。……厳しゅうしておるのではない。急いでおるのだ」

 沈曉は、左腕の布へ目を落とした。木を拾うときに緩んだ端が、袖から出ている。

「私の体が、他の者より先に朽ちる恐れがあった、ということです。……師は、それを見抜いていました。遠回りをする時間が、私にはなかったのです」


 翌朝も、石段へ出た。

 夜のうちに考えた逃げ道を、下から見上げた。あれを上らずに麓へ向かえば、どこまで歩けただろう。師が来る足音を聞いて、彼は最初の段へ足を置いた。

「その頃から、口数が減りました」

 布の端を袖へ収め、沈曉は続けた。

「息を無駄にしないことを、覚えたのです。……言葉も、笑いも、体力を使います。使わずに済むものは、使わずに済ませる。それが、いつからか当たり前になっていきました」

 菓子を盗み食いし、亀と呼ばれれば言い返していた子供は、師の後を黙って歩くようになった。返事に使う息を、次の一段のために取っておいた。

「今のあんたは」

 楊文が言った。

「そうやって、できたのか」

 沈曉は目を伏せた。

 水際の石に火明かりがかかり、波が来るたび砕けている。その光を見ていると、流れの音がまた近くなった。

「その先の話は」

 楊文の声がした。

「聞かせてくれるのか」

「長い話です」

「構わねえ」

 薪を一本、火へ渡した。

「明日の夜に、いたしましょう」

 沈曉は膝に掛けた衣を引き上げた。楊文も魚の骨を片づけ、火の脇に座り直した。

 目を閉じると、赤い残像の向こうに石段が見えた。霧の朝の冷たさまで、すぐそこにあった。

 その夜、幼い日の夢を見た。

 桶が重く、水をこぼすたび、遠くで誰かが笑っている。顔を上げようとするうち、また水が片方へ寄った。


 二日目も、昼の道ではほとんど話さなかった。

 谷から尾根へ出ると、風が濡れた衣を乾かした。楊文は沈曉の歩が遅れるたび立ち止まり、道の先を見ている。昨日の話を急かす言葉は、夕方まで出なかった。

 夜は、尾根の窪みに火を焚いた。

 低い草に囲まれたそこだけは風が弱く、煙はしばらく真上へ昇ってから闇へ消えた。火が落ち着くにつれ、見上げる空に星が増えてゆく。

 楊文は裂けた肩の布を直し、火へ手をかざした。その手が膝へ戻ってから、沈曉は口を開いた。


「師の許で修行を積み、二十歳になった年、私は道号を選びました」

 燠の中に、白い灰が一筋できていた。

「望曉(ワンシャオ)、と名乗りました。夜明けを望む、という号です」

「あんたが、自分で選んだ号だな」

「はい」

 薪の上を這っていた焔が、端で立ち上がった。

「その頃には、師の直弟子として、観の中でも一目置かれる立場になっていました。師は、いずれ私に観を任せるつもりでいたのだと思います。……実際、師が仙籍に入られた後、私は玉雲観(ぎょくうんかん)の祭酒を継ぎました」

「仙籍に入る、ってのは」

「天へ、登られたということです」

 沈曉は火を見た。

「その話は、また、別の折に」

 楊文が頷いた。


「祭酒を継ぐより、ずっと前の話をいたします」

 沈曉は続けた。

「二十歳を過ぎた頃、私は、麓の村へ薬を届ける遣いを任されていました。……その中に、一軒、よく寄る家がありました」


 戸口を入ると、土間に竈の煙が下りていた。

 子供らが走り回り、薬箱を置く場所を空けるように母親が呼ぶ。その家の娘は彼が来ると井戸端へ行き、水を汲んで持ってきた。椀を差し出され、受け取ろうとした手が、一度だけ遅れた。

 呼ぶ声がして、娘が家の奥へ戻る。彼は水を飲み、その声のする方を見ていた。

「私は、その家の温かさに惹かれました。……共に育てば、そういう暮らしが、私にもあったのかもしれない。そう思うようになったのです」

「それで、どうなったんだ」

「何も、ありません」

 沈曉は首を振った。

「山へ戻って、師にそのまま打ち明けました。あの家の暮らしが、羨ましいのです、と」

「叱られたか」

「いいえ」

 火の照りが、楊文の頬へ届いている。

「羨むこと自体は、恥ではない。人であれば、当然の心だ。……師は、そう言いました」

 沈曉は、次の言葉も覚えていた。

「けれど、続けてこう言われました。その羨みを、そのまま欲に変えれば、修めた道はそこで終わる。欲しいものを手に入れて満ち足りる生と、欲しいものを手放して極める生とは、両立しない。お前が選ぶのは、どちらだ、と」

「答えたのか」

「答えられませんでした。……幾日か迷って、山に残る、という答えを出しました」

 膝の上で、右手の指を揃えた。

「けれど、それは欲を捨てた答えではありませんでした。私は、あの家の温かさより、自分がここまで積み重ねてきたものを手放したくなかったのです。……それも、また一つの欲でした」

 楊文は顎を少し引き、聞いていた。

「師は、こう言いました」

 沈曉は息を継いだ。

「欲を消すことは、できない。消したと思う心こそが、いちばん深い欲だ。……ただ、欲の向く先を、選び続けることはできる。お前は今、選んだのだ、と」


 薪の端が崩れた。

 楊文が長い枝で内へ寄せると、灰の下から赤が広がった。沈曉は、薬箱を提げて戻ったあの家の戸口を思い出していた。

「それから、私は村へ通い続けました。あの家にも通いました。ただ、羨む気持ちは、少しずつ別のものに変わっていきました」

「別のもの、ってのは」

「あの家族が、健やかであるように、と願う気持ちです」

 戸を叩くと、奥から誰かが答えた。水を汲む縄の音がし、子供が土間を駆けた。その声を聞いてから、彼は薬箱の紐を解いた。

「欲しがることをやめて、願うことに変えたのです」

 言ってから、火の向こうへ目を上げた。

「昨夜、水汲みのことを聞かれました」

「ああ」

「桶の水が、誰かの薬を煎じる水になり、誰かの傷を洗う水になる。……それを知った日から、桶の重さの意味が変わりました。嫌いでなくなったのは、その頃です」

 楊文は傍らの薪を一本取り、灰の薄いところへ置いた。


 夜が深まっていた。

 周りの草も闇へ沈み、明るいところは、膝から火までの狭い地面だけになっている。沈曉はその明かりの内で、両手を重ねた。

「祭酒となってから、私は長い歳月を玉雲観のために使いました。……その中で負ったもののうち、あの夜のものほど重いものは、他にありません」

 楊文が枝を地に置いた。

「今夜、もう一度、話しておきたいのです。……焼け跡で李慕言(リー・ムーイェン)に語った時とは、少し違う話を」

 向かいの顔は、こちらを向いていた。

「私は、百三十四人を、殺しました」

「知ってる」

 短い返事を聞いて、沈曉は続きを出した。

「師は、幾度も教えました。功徳とは、命を活かすことにある、と。奪うことでは、ない、と」

 重ねていた手を離した。

「理解していて、なお、あの夜、剣を振るいました。……あの法がこの世に放たれることの方が、はるかに大きく道理に背く。私は、そう判断しました」

「今も、そう思ってるのか」

 沈曉は目を閉じた。

 開くまで、楊文は待っていた。

「思っています」

 火の照りを頬に受けながら、答えた。

「あの法を知る者が一人でも多く生き残っていれば、いつか必ず、誰かの手で再現されます。……欲があり、材料があれば、答えには必ず辿り着かれる。それを、私は、李慕言という一人の証によって思い知りました」

「あんたが、正しかった、ってことか」

「正しかった、とは、言えません」

 沈曉は首を振った。

「無実の者を、幾人も道連れにしました。……工程の一部しか知らなかった者たちです。あの者たちの死は、私の判断が正しかったかどうかとは関わりなく、確かに間違いでした」

 息を吸うと、煙の匂いが喉へ入った。

「正しさと、間違いは、あの夜、同時に私の手の中にありました。……二つを切り離すことは、今もできません」

 楊文は、火へ落とした目をすぐには戻さなかった。


「あの夜より前、私は百年以上生きてきました」

 沈曉は続けた。

「その間、罪と呼べるものを負わなかったわけではありません。……けれど、それらはいずれも、時と共に薄れていきました。功徳を積み、悔い、償えば、罪の重さは少しずつ軽くなっていくものだと、私は信じていました」

「あの夜の分は」

 楊文が顔を上げた。

「軽くならなかったのか」

「はい」

 沈曉は膝から右手を上げた。

「十年、経ちました。十年という歳月は、私にとって瞬きほどの長さです。……それでも、あの夜のことだけは、少しも薄れませんでした」

 掌を返すと、火明かりが指の間から漏れた。今日も薪を拾い、水を受け、魚の串を持った手である。

「剣を握るたび、感じます。あの夜、この手が何をしたのかを。……百三十四人の、体温を」

 言葉の終わりが震えた。

「他の罪は、時が癒してくれました。あの夜の罪だけは、時が経てば経つほど、重くなっていくのです」

 指がかすかに震えている。

 昨日、李慕言の前では、この手は動かなかった。倒れる身体を見終えるまで、指は衣に触れたままだった。

 沈曉は、震える手を袖に入れなかった。

 左の掌で手首の下を受け、そのまま、火の届くところに置いた。


 楊文の顔を、煙が薄く横切った。

 煙が去っても、その目はこちらへ向いている。薪の中に残った水が、細い音を立てていた。

「あんたは、あの夜、正しかったのか、間違ってたのか、まだ決めてねえのか」

 沈曉は、手を支えたまま答えた。

「決めています」

「どっちだ」

「あの選択は、間違っていなかった。……今も、そう思っています」

「なのに」

 楊文の眉が、少し寄った。

「なのに、重くなっていくのか」

「はい」

 沈曉は頷いた。

「間違っていなかった、ということと、道理を外れていない、ということは、別のことだからです」

 楊文は口を閉じた。

「あの夜、私は選ぶべき道を、正しく選びました。……けれど、選んだ瞬間から、私は道理の外に出てしまったのだと思います。師が生涯をかけて教えてくれた道——人のために生き、命を奪わず、活かす道。その道から、私はあの夜、踏み外しました」

 右手を膝へ戻した。左の掌は、その下に残した。

「踏み外した先に、正しい判断があった。それだけのことです。……道を外れて、なお、正しくあろうとしました」

 口に出した後には、火の音があった。

 自分が言った言葉を聞きながら、沈曉は、石段の下で待っていた師の衣を思い出していた。

「あの日から、私はもう、師の弟子ではいられなくなったのだと思っています」

 声が掠れた。

「師匠が、生きていたら」

 楊文が尋ねた。

「なんて、言ったと思う」


 沈曉は、長い間答えなかった。

 薪が爆ぜ、火の粉が上がった。赤いものが消える先には星があり、目を戻すと、楊文が同じ姿勢で座っている。

 立てるまで、待つ。

 その声は思い出せた。今の自分へ向けられる声は、いくら待っても聞こえなかった。

「分かりません」

 沈曉は答えた。

「叱られたのか、それとも、何も言わずにただ見ていたのか。……多くを語らない人でした。あの人が何を思うかを、私は今も、正確には分かりません」

「なのに、あんたは」

 楊文が言った。

「師匠の教えを、今も大事に持ってるんだな」

「はい」

 膝の上で、指を開いた。

「持っています。……道理を外れた者が、道理を語る資格はないのかもしれません。それでも、あの人の教えだけは手放しませんでした。手放せば、あの夜の私が正しかったことさえ、意味を失う気がしたのです」


 楊文が、最後の薪を火へ入れた。

 乾いた皮へ焔が移り、細くなっていた明かりが、もう一度二人の顔に届いた。

「あんたは」

 楊文は薪から手を離した。

「重いもんを、ずっと独りで背負ってきたんだな」

 沈曉は、答えなかった。

 背負ってきた、と耳の内で繰り返した。自分の一部になっていると思っていたものへ、楊文は、荷を指すような言葉を使った。

 膝の手の上で、衣が少し動いた。いつからそうしていたのか、肩に力が入っている。息を吐くと、その分だけ、背が緩んだ。

 重さは残っていた。

 向かいにいる男が、それを重いものと呼んだ。


「明日には、白澗観に着きます」

 沈曉は顔を上げた。

「師の話の続きは、着いてから、いたしましょう」

「ああ」

 楊文は頷き、火へ目を戻した。

 尾根を渡る風が、少し冷たくなっていた。二人は残る燠へ手を寄せたまま、木口が灰に変わってゆくのを見ていた。

 東の山の端から、夜が白み始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る