第33話 復命

 石段を下りきると、裴松(ペイ・ソン)が待っていた。

 少し離れた木に馬を繋ぎ、片手に細長い布包みを提げている。二人が最後の段を下りるまで足を動かさず、顔を上げた沈曉(シェン・シャオ)と目が合うと、わずかに顎を引いた。

「終わりました」

「そうか」

 裴松の目が、二人の後ろへ向いた。

 石段は樹々の間へ折れて入り、その先の山門も、焼け跡も、ここからは見えない。沈曉は老人の目が戻ってくるのを待っていた。

「……葬ってくれたか」

「はい。獣の届かぬ深さに」

 裴松は頷き、石段へ足をかけた。

「一度、上る。……骸(むくろ)を、引き取る」

「その前に、墓の前へご一緒いただけませんか」

 老人が振り返った。

「まだ何かあるのか」

「土には納めましたが、名を呼んで送ることができずにおります」

「名なら、知っておろう」

「知還と呼びかけました。ですが、あの方は、その名を捨てたと」

 沈曉は、布を巻いた左腕を脇へ寄せた。

「私が授けた名です。今になって、またそれで呼び戻してよいものか……」

「李慕言でよい」

「はい。そう呼ぼうとして、あなたの声を思い出しました」

 裴松の足が、石段から下りた。

「私が覚えているのは、まだ観にいた頃のあの方です。山を下りてからの十年を、私は知りません」

「……儂は、その名で呼んできた」

 提げていた包みを持ち直す。

「十年だ」

「墓の前でも、呼んでいただけますか。私は、名を記します」

 裴松は沈曉を見て、それから石段の先へ顔を向けた。

「案内せい」


 三人で、山を上った。

 三百と六段。裴松は途中で二度足を止め、傷めた右脚を少し浮かせてから、次の段へ進んだ。後ろでは楊文(ヤン・ウェン)が歩を止め、沈曉もその隣で息をついている。老人の足が上がると、三人の衣擦れがまた続いた。

 境内へ出ると、草の中に新しい土が見えた。

 裴松はそこまで歩き、盛られた土の手前で止まった。風が衣の裾を持ち上げ、離れた丹房で木が一つ鳴る。その音が収まってから、老人は左の膝へ手を置き、ゆっくりと屈んだ。

 右脚の置き場を変え、膝が地につくと、布包みを前へ下ろした。


 出てきたのは、木剣だった。

 子供の手に合わせた短いもので、握りの擦れたところだけ木目が明るい。刃にあたる片側には黒ずみが残り、布を外した老人の指が、そこに沿って滑った。

「……その剣は」

「儂の屋敷の、櫃(ひつ)の奥にあった」

 裴松は柄を山の方へ向け、土の上に置いた。

「あれが都を出た朝、部屋を検(あらた)めた。替えの着物も、銭も、書き付けも置いたままだった。……櫃の奥に、この剣がしまってあった」

 木剣の下で土が崩れ、先が少し傾いた。老人は指で土を押さえ、置き直した。

「十年、埃を被っておらんかった」


 沈曉は、その握りを見ていた。

 玉雲観(ぎょくうんかん)の稽古場で、子供らに持たせていた木剣である。稽古が済むと棚に戻し、翌日はまたそこから取る。誰の物とも決めていなかったが、時には一本足りず、次の日、ひょいと戻っていることもあった。

 抱えて持ち帰った子の顔を、覚えていない。

 裴松は剣先についた土を指で払っている。沈曉は何も言えず、握りの擦れたところを見ていた。


 板を一枚、焼け跡から取った。

 焦げた端を落とすと、その下に白い木肌が出た。楊文が押さえ、沈曉が小刀を引く。薄い削り屑が膝へ落ちるたび、風が一枚ずつ草の間へ運んでいった。

 荷から墨と筆を出し、先ほど汲んだ水を使った。墨を磨る音の間、裴松は墓の前に座っていた。

 沈曉は平らにした面へ筆を下ろした。

 李慕言(リー・ムーイェン)。

 ひと文字書くごとに穂先を整え、三つ目を書き終えても、板は膝に載せたままにしていた。湿った墨が日に光り、やがて、木へ吸われて艶を失ってゆく。

 乾いたのを確かめて、頭の側へ立てた。

 土を押し固め、沈曉は後ろへ下がった。


 裴松が、板へ顔を向けた。

 息を一つ入れる。

「李慕言(リー・ムーイェン)」

 低い声だった。

 四十年、軍を動かしてきた声が、今は板一枚へ届くほどの近さに収まっていた。老人の掌は膝の上に伏せられ、指の間に土がついている。

「李慕言」

 二度目は、少し長かった。

 次を呼ぶまでに、草の中で虫が鳴いた。裴松の肩が上がり、吐く息に、もう一度名が乗った。

「李慕言」


 声が絶えてから、沈曉は墓前へ進んだ。李慕言の名に続けて、逝く先を告げる送りの言葉を述べ、頭を下げた。

 楊文はさらに後ろにいる。目を墓へ向けたまま、剣の柄に添えていた指が一度曲がり、元へ戻った。

 裴松は木剣へ手を伸ばし、握りのところを一度撫でた。

「……ここでよい」

 裴松は名を記した板を見上げた。

「連れて帰るつもりだったがな。ここに、眠らせておこう」

 木剣から手を離し、空いた布を畳んだ。

 立ち上がるとき、老人の膝から乾いた土が落ちた。沈曉は傍らへ寄り、裴松が身体を起こすまで待った。


 山を下りる頃には、石段の片側へ木陰が寄っていた。

 裴松は馬を繋いだ木の下に腰を下ろし、右脚を伸ばした。沈曉も荷を地に置き、呼吸が落ち着くのを待つ。馬が枝葉を引く音に、革の軋みが混じっていた。

「儂は、帝に報告する」

 裴松が言った。

「陳霖(チェン・リン)は死んだ、と書く。焼け跡で骸を検めた。丹は、なかった。……そう書く」

「骸は、御覧になっておりません」

「見た者に、聞いた」

 老人は伸ばした脚の膝を、掌で押さえた。

「儂の名で書けば、儂が検めたことになる。そういう役目だ」

 沈曉は返す言葉を探した。先に、裴松の声が続いた。

「嘘は、書かん」

 木陰の外を見ている。

「陳霖という男は、十年前に死んだ。儂は、そう思うておる。……あの男は、老いなんだ。傷も残らなんだ。飯を旨いとも言わなんだ。今、そこに立っておるのは、朝が寒いと言い、階(きざはし)を上れば息を切らす男だ」

 風が袖へ入り、腕に巻いた布の端を動かした。

「陳霖ではない。別の男だ」

「――」

「丹も、なかろう」

 裴松の目が、こちらへ向いた。

 沈曉は懐へ触れかけた手を下ろし、頷いた。包みの中には古銭が一枚ある。そのことを告げる言葉まで用意していたが、老人の目はもう、問いを終えていた。


「爺さん」

 楊文が前へ出た。

 懐から取り出した鉄の鍵を、掌に載せて差し出した。臨江の牢で、卓の上に置かれていた鍵である。

「借りたもんは、返す」

 裴松は鍵を見た。

 楊文の掌は開いたままで、傾いた日が指の影を鉄の上へ落としている。裴松は長くそこを見てから手を出し、鍵を受け取った。

 袖へ収めると、布の底がわずかに下がった。

 楊文は待っていた。老人の口が動かぬうちに鼻を鳴らし、開いていた手を閉じた。

「……ふん」

 その手を下ろして、一歩退いた。


 誰が置いたか、一度も言葉にならなかった鍵である。裴松はそれを収めた袖口を直し、楊文も、もう何も言わなかった。


 日が傾き、木陰が道へ長く伸びていた。

 裴松は幹に手をついて立ち、膝の土を二度払った。残ったものを摘まんで落とし、顔を上げる。

「陳霖」

「はい」

「昔、儂はお前を、桃の花のような人だと言うた」


 四十年ほど前の春だった。

 都の外れの桃林で、杯を置けばその上にも花が落ちた。まだ若い将軍は浮かんだ一片を指で掬い、杯の縁へ寄せてから、酒を飲み干していた。風がまた枝を揺らし、払ったばかりの肩に花びらが載る。

 何を喩えられたのか分からぬまま、沈曉は、はあ、と答えた。そのときの男の笑う口元を、目の前の皺(しわ)の中に見つけた。

「あの時は、褒めておった」

 裴松は目を細めた。

「散らんからだ。お前の桃は、いつまでも咲いておった。咲いたまま、動かなんだ。……儂は、それを美しいと思うた」

 馬が首を寄せた。老人はその頬を撫で、耳の下まで掌を滑らせた。

「四十年、儂は歳を取った。妻も、兄も、戦友も、皆、先に逝った。……お前だけが、あの春の顔のままでおった」

 指が馬の毛の間で止まった。

「牢で会うた時、恐ろしいと言うたのを、覚えておるか」

「……はい」

「あの時、儂は分かったのだ。散らん花は、花ではない。……花は、散るからこそ、花なのだ」


 木漏れ日が、裴松の手の甲に揺れた。

 こちらを見る目が、沈曉のこめかみに留まる。墨色の間に現れた白は、風にほぐれると、黒い髪より先に光を拾った。

 顔の造りは、あの桃林にいた頃と変わらない。

 染める術の続かなくなったところから、元の色がのぞいている。裴松の目は髪から、布を巻いた左腕へ移った。

「今のお前を見て、儂は、ほっとしておる」

 声が少し揺れた。

「情けないことにな。友が弱ったのを見て、ほっとしておる」

 沈曉は、その顔を見た。

 馬から離れた掌には、皮膚の余るところがある。指を伸ばすと皺が浅くなり、また曲げれば、同じところへ寄る。四十年前、杯から花びらを掬った手だった。

 何か言おうとしたが、息を継ぐ間に、裴松が先に名を呼んだ。

「望曉(ワンシャオ)」

 そこで口を閉じた。

 山の上で三度呼んだ名が、沈曉の耳にはまだ残っている。裴松は目を伏せ、顔を上げて言い直した。

「いや。沈曉(シェン・シャオ)」


 初めて、その名で呼ばれた。

 自分で選び、幾つもの宿の戸口で告げてきた名である。望んでいた夜明けを沈めた、その二文字の意味まで知る者の声で聞くと、返事がすぐには出なかった。

「お前はもう、老いてゆけ」


 沈曉は、深く頭を下げた。

 下げた頭を、しばらく上げない。足元には木の葉の影が揺れ、襟から入った風が、汗の冷えた背を通っていった。

 顔を上げると、裴松はもう馬の傍らにいた。鞍に手を掛け、傷めた脚を庇いながら身を上げる。腰を収めた後で衣の裾を直し、手綱を持った。

 馬が歩き出した。

 南へ、都の方へ、老人を乗せた背がゆっくり遠ざかってゆく。裴松は振り返らなかった。沈曉は手を下ろしたまま、その背を見送った。

 もう会わぬかもしれないと思った。

 蹄が道の石を踏み、土へ移り、音が少しずつ柔らかくなっていく。


 街道の曲がりで、馬の姿が消えた。

 沈曉は、音の絶えた方を見ていた。あの老人は都へ帰り、机に向かい、筆を執る。その手が書く一行を、まだここから見ることはできない。

 山の上には、名を書いた板と、木剣が残っている。

 裴松の手は、どちらも持って下りなかった。


 楊文が荷を担ぎ直した。

 道はここで分かれ、南は都へ下り、北は山の間へ入ってゆく。楊文の顔が北へ向いた。

「……白澗観(はくかんかん)は、あっちだ」

「はい」

「ずっと、誰も入ってねえ」

 肩へ掛かった紐を直し、その手を下ろした。

 沈曉は荷を持ち上げた。楊文が歩き出す前に隣へ並び、同じ方を向いた。

 二人は、北へ歩き出した。

 夏の終わりの日が、二人の影を道の上へ長く伸ばしていた。

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