第32話 一刀
沈黙は、長く続いた。
床へ差す光が四筋になり、五筋になって、落ちた梁の側面を白くなぞってゆく。その明かりの中を埃が沈み、板の継ぎ目に溜まった木屑へ、音もなく重なっていた。
その先に剣がある。
刃の半ばまで朝の光が届き、擦り切れた柄布には、握った手の形に色の濃いところが残っていた。
李慕言の口が動くのを、待っていた。
「……そうですか」
声は平らだった。
「作ってはならない、と」
「はい」
「焼こう、と」
「……はい」
李慕言は床へ目を置いたまま、息を継いだ。
「では、あなたは」
押さえた肩が、少し下がった。
「あなたは、あの丹を、欲しくなかったのですね」
「はい」
「一度も」
「一度も」
床についた指が動いた。
木目を一度だけ掻き、爪が短い音を立てる。沈曉が目を下ろしたときには、もう同じところへ手が戻っていた。板の表に、細く白い筋が一本残っている。
顔を見ても、そこに何が起きたのかは分からなかった。
「私は」
李慕言は言った。
「あなたに、追いつきたかった」
その声を、沈曉は膝を動かさずに聞いた。
「聞かせて頂けたら、その次に何をするかを、決めていました」
窓辺の灯が細く揺れている。朝の中では、焔の輪郭だけが見えた。
「あなたが、朝廷に追われる身であることは、知っていました。
床を掻いた指が、今度は爪を立てずに、木目に沿って滑った。
「聞かせて頂いて、それから、お守りするつもりでした。……十年、それだけを考えて、生きてきました」
李慕言の目が上がり、沈曉の髪の際から、膝に置いた手へ下りてくる。
「守る相手の力を、私は、自分の手で奪いました」
沈曉は唇を開きかけた。言葉を出す前に、李慕言が続けた。
「そのために、術を学びました。学ぶために、人を使いました。……何人使ったかは、覚えていません。数えていませんでした」
膝の指が、衣を掴んだ。
「数えなかった理由が、今、分かりました」
李慕言はまた床を見ている。
「数えれば、本当のことになるからです。……あなたも、そうでしたか」
数える資格がない、と沈曉は思ってきた。名を知らぬことも、数を持たぬことも、その言葉の内へ収めていた。
答えを待つ男の指の先に、掻き傷がある。
沈曉は衣を離した。
「……はい」
李慕言が顔を上げた。
眉も口元も静まっている。その顔に見覚えがあった。旅の宿で、水を張った鉢へ顔を寄せるたび、自分もそういう目をしていた。
「私は」
李慕言は言った。
「あなたのようになりたかった。……なりました」
沈曉は、その目を見返していた。
「欲しがらず、恨まず、何も持たない。……人でないものの形です。あなたは、それを、そうと知って生きてこられた。私は、知らずに、そこへ辿り着きました」
李慕言は床から手を上げ、掌を返した。剣を握り続けた皮膚の上を光が通り、指が一本ずつ、かすかに曲がる。
「なりたかった形に、なってみて、初めて分かりました」
声が、初めて揺れた。
「ここには、何もない」
崩れた屋根の向こうで、空が淡い青に変わってゆく。
何も持たずに去れるよう、沈曉は荷を少なくしてきた。親しく呼び止める声が増えると、次の土地へ移った。欲しがらぬこと、惜しまぬことを、身につけた衣のように整え、その姿を、この男が遠くから見ていた。
返したままの掌へ、沈曉は目を落とした。
そこに何かを載せる言葉を、持っていなかった。
風が丹房を抜け、床の木屑をわずかに動かした。
李慕言は手を下ろし、膝へ戻した。
「一つだけ、お願いがあります」
沈曉は、動かなかった。
「十年、私は、あなたの言葉を欲しがりました。頂きました。……これ以上、欲しいものが、思いつきません」
目が合った。
「なら、今度は」
朝の光が、肩を押さえる指の節を照らしている。
「今度こそ、あなたの手で」
沈曉の手は、動かなかった。
腰の剣が、膝の脇に触れていた。
十年前も、こうして目の前にいた。剣を下ろし、命を取りきらずに、その顔へ何も告げず去った。あの夜の傷を残した身体が、いまは彼と同じ高さに膝をつき、続きを待っている。
百三十四で止める。百三十五人目を作らない。
その数を思えば、手を動かさずに済んだ。この十年、何かを決めるたび、沈曉はその内へ身を引いてきた。
今も、剣は握れる。
左の腕は傷んでいたが、右の指は曲がる。柄へ伸ばせば届き、相手は目を逸らしもしない。斬るための手も、斬れる距離も、ここにあった。
殺せないのではない。
彼が、殺さないのだ。殺さないと、彼が決めるのだ。
膝に置いた掌を、開いたままにした。
規に守られてきた男が、初めて、規なしでその目を受けていた。
「――できません」
声は、震えなかった。
「あの晩、私は、あなたに何も言わずに去りました。それが、私の罪です」
李慕言の唇が少し開いた。沈曉はその顔を見つめたまま、言葉を続けた。
「今、あなたを斬れば、私は、また同じことをします。……終わらせて、去る。それだけです」
「――」
「私は、もう、そうしません」
吐いた息の後に、丹房の静けさが戻ってくる。その中から逃げず、沈曉はもう一度息を吸った。
「あなたが、生きて、何をなさるかは、私には決められません。……決めるのは、あなたです」
「もう、何もありません」
「はい」
沈曉は頷いた。
「ないところから、始めた者を、私は知っています」
背後の戸口に、人が立っている。火のあるところでも、雨を避ける軒の下でも、このふた月半、同じ気配が傍らにあった。
李慕言は黙って聞き、やがて、小さく頷いた。
「あなたは、変わられました」
「……そうでしょうか」
「はい」
その口元に、笑いに似たものが浮かんだ。
拾われて一年が過ぎた頃、池で鯉が跳ねたときに浮かんだのと、同じ形だったかもしれない。それを見た者は、この場にいなかった。
「私は、変われませんでした」
李慕言は目を閉じた。
沈曉は、動かなかった。
膝の手を開いたまま、目の前の顔に光が届いてゆくのを見ていた。自分の答えはもう告げた。その後に続ける言葉を探していると、背後で床板が鳴った。
一歩の後に、間がある。
宿を発つ朝には戸口から急かし、街道では先に立ち、夜は薪を拾いに闇へ出ていった足音だった。今は、板を踏むたびそこで止まり、次の一歩まで衣の擦れる音が聞こえる。
沈曉は振り返らなかった。
足音が横へ来て、止まった。
「あんた」
「あの時、なんで剣を下げたのか、俺には分かんなかった」
沈曉は返事をせずに聞いた。
「……今、分かった」
柄に掛かった指が、握り直す。
「そいつは、俺の門派を殺した」
「……はい」
「十いくつだ。師匠も、兄弟子も、去年入ったばかりの子供もいた。名前を、俺は全部覚えてる」
床の上へ、楊文の影が落ちている。沈曉はその影の先にある李慕言の手を見ていた。
「あんたの罪と、こいつの罪は、別だ」
楊文の目は李慕言へ向いていた。
「あんたが背負うもんじゃねえ。……あんたの手でもねえ」
「これは、
李慕言が目を開けた。
楊文を見上げ、膝をついたまま背を伸ばす。肩を押さえていた手が下り、もう一方の手と並んだ。
「……そうですか」
顎を少し引いた。
「あなたに」
「文句あるか」
「いいえ」
李慕言は目を伏せた。
「あなたが、いちばん正しい」
楊文の顎が動いた。何かを言う前の形に唇が開き、そのまま閉じる。剣を持つ手の位置を直すと、肩の裂けた衣が引かれた。
沈曉は片足を立て、ゆっくりと腰を上げた。
李慕言の正面に、そのまま立った。膝を折っていたときよりも、相手の顔が下にある。李慕言は目を上げ、立った沈曉の顔を確かめるように見つめた。
「……見ていて、くださいますか」
「はい」
沈曉は答えた。
「目を、逸らしません」
李慕言の
閉じる直前まで、その目は沈曉へ向いていた。剣を持つ者ではなく、正面に立つ者を、最後まで見ていた。
剣が、落ちた。
一太刀だった。
楊文は足を据え、いつもの型で振り下ろした。朝の光が刃に沿って走り、低いところで消える。短い音の後、李慕言の肩が崩れ、膝に置かれていた手が床へ滑った。
沈曉は目を逸らさなかった。
倒れる身体も、頬にかかった髪も、板の継ぎ目へ流れてゆく血も、最後まで見ていた。手を下ろしたところに、自分の指がある。一本ずつ離れ、衣に触れている。
震えていない指で、彼は立っている。
楊文が剣を下ろした。下ろした腕が、そのまま垂れた。
口は閉じられ、息を吸うたび、鼻の脇がわずかに動いている。
「……終わった」
血を拭い、剣を納めようとした。切先が一度、鞘の口を外れた。楊文は目を下ろし、もう片方の手で鞘を持ち直して、ゆっくり収めた。
埋める場所は、境内の隅に決めた。
堂の跡を囲む礎石から離れた、草の生えたところだった。日が上がるにつれて山の冷えが薄れ、土の匂いが草の根方から立ってくる。蝉の声は遠く、足元では小さな虫が鳴いていた。
丹房を繕ったときのものらしい道具が、脇にまとめてあった。楊文が
草の根を切る音が、境内に響き始めた。
沈曉も傍らに屈み、掘り起こされた石を取り除いた。鍬の先が次の土へ入るまでに、崩れたところを掻き出す。やがて楊文が手を休めると、沈曉は差し出された柄を受け取った。
掘るほどに土は冷たくなり、欠けた瓦や炭の混じる層の下から、湿った塊が出てくる。左の腕に響けば鍬を戻し、その間は掻き上げられた土を外へ寄せた。
獣の届かぬ深さまで、二人で掘った。
穴の縁で楊文が抱え直し、背と膝の下へ腕を入れる。打った肩を穴の縁に擦らぬよう身体を傾け、ゆっくり底へ下ろしていった。沈曉は縁からその頭を支え、土につくまで手を添えていた。
この腕は、白澗観の十五の骸も、一人ずつ下ろした。
楊文は李慕言の剣を胸へ置き、柄が傾くと、その位置を少し直した。擦り切れた布へ、今はどちらの手も届いていない。
ほかに、添えるものはなかった。
沈曉は、名を呼ばなかった。
二つの名の間で、息を継いだ。
何度も死者の名を呼んできた口を閉じたまま、沈曉は土を掬った。
胸の上へ落ちた土が剣の縁に溜まり、次の土に覆われていく。柄布が見えなくなるまで、楊文も手を休めなかった。
穴が埋まる頃には、二人の影は朝より短くなっていた。
楊文は土のついた手を払い、山門へ向かった。
水を汲んでくると言った。沈曉は頷き、その背中が石段の下へ隠れるのを見送った。
境内に一人残ると、草の音が近くなる。
盛ったばかりの土の前に座り、沈曉は指の泥を衣で拭った。
懐から、布包みを取り出した。
結び目に指を入れる。
幾度も同じところを折った布は、開くと四角い癖を残し、その中央に古い銭が一枚、収まっていた。銭をずらすと、下に深い色の粒が見える。
丹だった。
日に当てても、芯の色は濃い。掌へ移すと、銭の触れていたところだけ、布に丸い跡が残った。
この一粒に、幾人いるのか。
今朝、数えなかった理由を問われて、はいと答えた。声にした後にも、数は戻ってこない。名前も、顔も、揃えてやることができなかった。
それでも、ここに留めている手は、自分の手だった。
十年、包みを結び、懐の同じところへ収めてきた。誰かへ渡すことも、ほどくこともせず、歩くたびに布越しの固さを確かめていた。
沈曉は布を膝へ広げ、古銭をその上に残した。
丹を受けた左の掌を膝に支え、右手で印を結ぶ。
沈曉は、いちばん外の糸へ指を添えた。
引き出すために結んだ手で、糸口を探る。指を返すと、かつて力を込めて締めたところが、わずかに緩んだ。その下に隠れていた端へ移り、押さえていた指を一本、離す。
するりと、ほどけた。
掌の上で、深い色が薄れてゆく。
一つ緩めると、その奥の結びが浮き、さらに解けば、隣り合っていたものの間へ隙間ができた。思っていたよりも小さな動きで、指は次の端に届いた。沈曉は息を長くし、ほどけて離れるところを追わず、まだ残っているものに手を添え続けた。
草が風に伏せ、また起きる。
粒の重みが薄れるにつれ、下にあった掌の感覚が戻ってくる。皮膚に触れる外の風、腕を支える膝、傷に巻いた布の引きつれ。その上で、最後の細い結びが指に掛かった。
沈曉は印を緩めた。
丹が消えた。
掌の窪みに、日の光だけがある。
指を動かすと、その明かりも形を変えた。沈曉は空の掌を見つめ、それから顔を上げた。
空は、青かった。
夏の終わりの、高い空である。崩れた屋根を透かして見た青が、外では山の端から山の端まで続いていた。風に頬を撫でられながら、沈曉は長く、そこを見上げていた。
なくなってみて、初めて、目方が分かる。
やがて手を閉じ、膝へ下ろした。
布には古銭が一枚だけ残っている。その角を重ね、結び、懐へ戻す。いつもと同じところへ手を入れたのに、指が包みの上を少し余って滑った。
石段から、水の揺れる音がした。
楊文が上ってきて、沈曉の傍らへ桶を置いた。
「何してんだ」
「……座っていました」
「立てるか」
片足を立てると、腰が浮く前に膝が折れた。夜明けまで組み続けた術と、掘った土の重さが、今になって手足へ寄っている。
楊文が右腕を掴んだ。
引かれる方へ身体を預け、沈曉は足の裏を地に置き直した。立った後も、楊文の手はすぐには離れず、息が整うまで肘の下に残っていた。
その手が退いてから、水へ屈んだ。
二人は手を洗い、荷を取りに丹房へ戻った。
沈曉は窓辺の灯を消し、楊文は戸口に置いた灯を拾った。床の血はもう動かず、光の筋がその上まで伸びていた。
荷を背負い直し、山門を出た。
三百と六段を下る。
上りには闇に隠れていた石の欠けも、苔の濡れたところも、今はよく見えた。沈曉は足を置く場所を選び、遅れてついてくるもう片方の足を同じ段へ揃える。
楊文は一段下で待ち、沈曉が下りると、次の段へ移った。
日に温められた石の匂いがする。
半ばまで来たところで、楊文が足を止めた。
沈曉も、その視線の先を見た。
石段の下、山道の入り口に、人が立っている。
供を連れず、老人がひとり。
朝からそこにいたのだろうか。木陰から差す日が、その白い髪を照らしていた。
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